009

「花城さんのとこのお嬢さん、今年青道に入ったらしいのよ」

夕食時、母親がそう言うと、父親が興味を示してへえーと相槌を打った。

「あのお屋敷の?」
「そう。哲也、知らない?」
「さあ…」

実のところ、1年の花城光という女子がとんでもなく可愛い、という噂は飛び交っていたし、毎日のように耳にしているが、母親に話すのも気まずくて首を横に振ると、母親は当てが外れたように口を尖らせた。

「学校で噂になってるんじゃない〜?」
「知らん。」

俺はそう言って、ごちそうさまでした、と手を合わせて席を立つ。

「明日から合宿でしょ、準備できてるの?」
「ああ。」
「そう、お風呂は?」
「ちょっと走ってきてから入る。」
「はいはい。」

俺は部屋に行ってジャージを羽織ると家を出た。
もうすっかり暗くなった住宅街を、ゆっくり走り始める。
やがて大きなレンガの塀が見えてきた。ところどころにバラの蔦がつたう立派な塀は背が高くどっしりとしていて、まるで周りの世界から隠れて隔絶するように聳えている。
ここはこのあたりの住宅街に昔からそびえる資産家の大豪邸で、とても美人な一人娘がいることも近所で有名だ。

花城光。中学校でも彼女は有名人だったが、声を掛けられる男なんていなかった。
皆まだ子供だった。

中学生のころ、すれ違った彼女の姿を、今も鮮明に覚えている。


…子供だった。



***



「さっきそこで姫見たぞ姫!」

便所から戻った純が少し興奮していると思ったら、寄ってくるなり廊下を指さしてそう言った。

姫。
いつのまにか学校内では、誰が始めたのか、花城のことを暗に指すときにそう呼ばれるようになっていた。

きわめて可憐な容姿に加え、楚々とした振る舞い、品行方正さ、清廉さから、姫という称号は花城にあまりにも似合っていた。

「まじ!俺も見に行こ!」

純の知らせを聞いてクラスの男たちが数人廊下へ飛び出していく。
中学の頃は噂にはなっても、皆こっそりチラチラと見ていることしかできなかったが、高校では積極性が違う…と感じる。

「やべえ、めっちゃくちゃ可愛い」
「てか、美人!美しい!」
「天使みたいだった…」

花城を野次馬に行った男たちが戻ってくると、口を揃えてそう言って盛り上がっていた。

「同じクラスの1年共が羨ましいぜ。うちのクラスにゃ華がねぇ…」
「聞こえてんぞ伊佐敷ィ!!」
「鏡見て言え!!」

軽口を言って女子たちに怒られる純に笑いながら、俺はそっと、廊下に視線をやった。
周りの視線を受けながら、友人と一緒に歩いていく花城の姿が一瞬のぞき見えて、心臓がはねたのを隠すように、俺は頬杖をついて視線を戻した。



***



「あ〜合宿最終日ともなると体がきついぜ…」

廊下を歩きながら肩を叩く純。おっさんくさいよ、と亮介に言われて姿勢を正したが。
後輩たちの前ではこんな弱音は吐けない。

「お…。おい!前!」

と、純が急に目を輝かせて、俺と亮介を小突いてきた。
前を見ると、ちょうど階段を下りてきた1年の女子二人組が見えて、その一人が花城なのだと気づいた。隣にいるのはショートカットの背が高い女子。彼女も同じ中学だったから覚えている。俺と同じ野球部員だった同級生の妹でもある。同級生のほうは、別の高校に野球のスポーツ推薦で進んだのだったが、妹が青道に来たことは知らなかった。そして、花城と仲がいいことも。

「…あっ」

ショートカットの女子…鷹野が、俺を見つけると快活な笑顔を浮かべて立ち止まった。

「結城先輩!?お久しぶりです!」

昔と変わらぬ爽やかな挨拶。スポーツ一家で彼女自身もずっと剣道をしている鷹野は、中学のころからとても礼儀正しかった。

「久しぶり。」

俺はそう返して、ちらりと鷹野の隣の花城を盗み見た。きょとんと鷹野を見上げている花城は、俺のことは覚えていなさそうだ。それもそうか、接点なんてなかったからな。

「知り合い?」

亮介と純が目を丸くして、ずいぶんおとなしい態度で聞いてきた。

「鷹野は、中学の時の同級生の妹でな。家も近くて、親同士付き合いがあるんだ」
「へえ〜…」

納得したような相槌を打ちつつも、亮介たちの興味はおそらく花城に向いていた。
当の本人の花城は、どこか他人事のように少し離れて立っていたが。
そんな花城に、鷹野が切り出した。

「ほら、光知ってる?結城先輩!中学の時、野球部でさあ…」

ドキリとした。
花城の目が俺を見上げ、瞬いた。

「あ…うん。」

花城は微笑を浮かべてうなずいて、俺に小さく会釈をした。
花城が俺のことを多少なりとも知っていたことに驚き、胸の奥が急に熱くなった。無意識に会釈を返したが、すぐに思い出せなくなるほど動揺して、固まってしまった。

「…駿は元気か?」
「兄貴ですか?元気ですよー!もーうるさいくらい!」

咄嗟に鷹野に話題を振って平静を装った。
鷹野の明るい笑い声に助けられた気分だった。

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