夜中用を足したくて、目が覚めた。

「…っ…。…ぅ…」

…啜り泣くような…微かな声。
花城さんだと、すぐにわかった。

花城さんがここにきてからほとんど毎日のように聞こえるから。

よく耳をすまさなければ聞こえないくらい微かな声だけど…この壁の薄いボロ屋でなければ気付かないほどの。

…気づけないほどの。

起き上がってそっと襖を開けたが、やはり音はしてしまって、俺が廊下に出ると床が軋んだ音を立て、啜り泣く声は不自然に止んだ。

「……。」

花城さんの部屋の襖はしっかりと閉じていて、灯りも漏れていない。
こんな夜中に1人で泣いてるとか…絶対訳ありだよな…。

俺は便所で用を出し、部屋に戻った。
その日はもう、何も聞こえなかった。



***



店の方は花城さんがきてから美少女の噂が広がり、毎日少しずつ客足が増えていた。

「はい、生ビール3つと、枝豆とお刺身盛り合わせです。」
「ありがと〜光ちゃん!」

常連のおっさんたちもすっかりデレデレで。
財布の紐も緩みっぱなしだ。昼間からビールなんて飲んでやがるし。

「ねえ光ちゃんって彼氏いるの!?」

と、その時客の一人が不躾な質問をした。

「いないです。」

花城さんはいつもの笑顔で首を振った。男たちが俄かに盛り上がった。

「まじで〜!?俺なんかどお!?」
「オメーいくつだよ!!」
「嫌だよねこんなおっさんじゃあ〜!!」

セクハラ親父ども…。
花城さんは堪えていないのか、フワフワ笑っているけど。
いや…というより、心ここに在らずのような、何も彼女の心には響いていないような壁を感じた。

その時、店に客が一人入ってきた。

「いらっしゃいませ…、」

振り返った花城さんが、固まった。
入ってきた男も暖簾をくぐったところで、花城さんを見て固まっていた。

一瞬また花城さんに見惚れてるだけかと思ったが、花城さんの反応もおかしい…

「…花城さん?」

と、そのとき、男がつぶやいた。
…知り合い?

俄かに周りの客からも男の顔に注目が集まると、突然近くの席にいた一人の男が思い出したように声を上げた。

「…えっ!倉持選手!?」

その声を聞いて厨房から顔を出す親父。

「おおぉ!倉持選手!いつも応援してます」
「あ…、ど、ども…ありがとうございます」

どうやら有名人らしい。客が一気に盛り上がり、一部でサインをねだる声が上がった。
だけどその盛り上がりの中で、花城さんだけが困った顔で俯いていた。いつもどんなにおっさんにしつこくされても、笑顔でいるのに…

「光ちゃん!案内してあげて」
「あっ、はい」

倉持という男が入ってきた時の様子を見ていなかったお袋が、悪気のない笑顔で花城さんに声をかけた。

「…こちらの席へどうぞ」
「あ…ハイ」

二人はぎこちない空気で、店の奥の席へ行った。

「ご注文が決まりましたらお呼びください…」

花城さんは口早に言って、男の顔も見ずに逃げるようにカウンターへ向かった。やっぱり様子が変だ。
俺は仕出しの酒を補充しながらこっそりと彼女と男の様子を伺った。
男はすぐに花城さんを呼び、花城さんはおしぼりと水を持って男の席へ行く。

「B定食ひとつ…ご飯大盛りで…」
「はい。」

「…花城さん、びっくりした…」

男は思い切った様子で言った。花城さんの顔はここからでは見えなかった。

「なんで…」
「…すみません。仕事中なので」

花城さんはそう切り上げて、厨房に注文を伝えに行った。
残された男の顔は神妙で。

この2人…どういう関係?
まさか…元恋人…とかじゃないよな…?

……いやありうる…。
まじか…すげーショックだ…。

酒の補充を終え、厨房に入った俺は、花城さんが出て行ったのを確かめて親父に尋ねた。

「なあ…今の人誰?有名人?」
「え、なんだよ知らねえのか。倉持洋一選手…去年ダイエーに高卒で育成として入って、今年一軍に昇格した野球選手だよ。すげぇ人なんだぞ」
「ふーん…」

野球見ないから全然知らなかった。

「お前サイン貰ってきてくれ、階段のとこに色紙あっただろ」
「はあ?俺ぇ?」
「じゃお前が料理作るのか?」
「……。」

親父に中華鍋を示されて、俺は渋々階段に色紙とサインペンを取りに行った。

「あの…店にサイン飾りたいんすけど…いいですか?」

1人で水を飲んで料理を待っていた倉持選手に声をかけると、いいですよ、とスマートに応じられる。目つき悪いけど…悪くない容姿。服の上からでもわかる、筋肉隆々の身体。
なんか劣等感に苛まれるな…。

「どうぞ」
「あ…ありがとうございます」

サインを書いた色紙を受け取り、店の壁のサイン色紙を並べてある所に一緒に並べる。…と言っても他のサインは無名芸人のばかりだけど。

そうこうしているうちに花城さんが倉持のところへ料理を運んでいき、倉持は黙々とそれを食べ始める。
そしてあっという間に平らげた後、支払いに向かった。
花城さんはお袋の手が空いてないのを見て、元気のない顔でレジ対応に向かう。

「…980円です」
「…あのさ、どっかでちゃんと…話したいんだけど」

倉持は千円札を財布から取り出しながら小声で言った。花城さんは戸惑った目で倉持を見た。

「…なんで…ですか?」
「いや色々…聞きたいし…。…あ、じゃあ、連絡先…」
「携帯持ってないです…」

花城さんはレジを打ってお釣りをトレーに出し、レシートを添えて差し出した。

「20円のお釣りです。」
「……また来るから」

会計が終わってしまい、倉持は間に合わせのようにそう言って、後ろ髪引かれる様子で店を出て行った。
やっぱただならぬ関係…っぽいよな…。
まあこんな可愛い子に…男の影がないわけないんだよなぁ…。でもまさか、プロ野球選手かよ…。

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