「おつかれ。」
「…おつかれ。」
駅前で待ち合わせた光は、帽子を目深にかぶって伊達メガネとマスクをした姿で、それでも隠し切れない美貌でほほ笑んだのが分かった。
「今日仕事だったの?」
「うん。…先輩は?」
「俺は今日はオフ。」
「そうなんだ」
「じゃ…行く?」
俺が切り出して、うん、とうなずいた光が歩き始めた方向へ向かって、並んで歩き始めた。
今日は光が働いていたという定食屋に食事に行く。大衆食堂のようなイメージをして、俺はシンプルにTシャツとジーンズにした。やって来た光もタンクトップにハーフパンツ、そして大きめのシャツを羽織った姿でラフな格好だ。しかし何着ても似合うし可愛いな…相変わらず。
「もうすぐ着く」
大通りから一本細い道に入ったあたりで光が言った。まだ、駅からはさほど歩いていない。アクセスもいいらしい。倉持が通うわけだ。まあ…目当ては光だったんだろうけど。
「…ここ。」
光が立ち止まったのは、想像よりもはるかに古ぼけた小さな大衆食堂の前だった。
俺を見つめる光の向こう側に見える、油と手垢まみれののれん。その景色がかけ離れすぎていて、俺は言葉を失った。
慣れた様子で店のドアに手をかける光の後に続く。
本当にここで…光が働いてたって?全く想像がつかない。
カラカラカラ、と軽い音を立てて開く引き戸。広がる食欲をそそる油のにおい。いらっしゃいませぇ、と響く元気で愛想のいい掛け声。
「こんばんはー」
光の人懐こい挨拶にドキリとした。まるでよくしてくれた親せきの家にでも来たような様子だった。
「ええーっ!?光ちゃん!?」
厨房から接客に出てきた恰幅のいいおばちゃんが、光を見るなり頬を紅潮させて喜びにピョンピョン飛び跳ねた。そしてそのまま俺の顔を見て…
「きゃああ!!?ええぇ!!?みっ、み…御幸君!!?」
「なんだ、どーした」
…どうやら俺を知ってるらしい。悲鳴を聞いて奥から出てきたおじさんも、光を見て喜び、俺を見てまた嬉しそうにした。
「えっ…!なんで…!!…あっ!!も、も、もしかして…?」
「あ、ち…違います…高校の、先輩で。」
「あ、あら、そうなのね…」
俺たちの仲を期待するような態度のおばちゃんに、光は慌てて否定した。
「えーっ、もう、御幸選手まで連れてきてくれるなんて!…あっ!!サインちょうだい、御幸君!!」
「あ、ハイ…」
「生で見るとますますイケメンねぇーっ!!」
「はっはっは…どーも…」
「悪いねぇうちのが騒いで。御幸選手の大ファンなんだよ」
「いやいや、それはありがとうございます…」
厨房にはもう一人、若い男がいて、ちょっと鬱陶しそうにこっちの様子をうかがいながら一生懸命中華鍋を振っている。
「さぁさぁ席へどうぞ!!なんにするぅ?何でも作るわよぉ!」
おばちゃんがメニューを持ってきて持たせてくれた。メニューを見る間も、すっかりきれいになってとか、ちゃんと食べてるの?だとか、親戚のおばちゃんみたいなことを言って光を可愛がっている。
「じゃあ私は…Aセットお願いします。」
「あ俺は…Bの生姜焼き定食で。」
「はい!AセットとBセットね〜」
すぐお持ちするわね〜、とおばちゃんはルンルンで厨房に戻っていった。
「…こんな感じ。」
光が照れ臭そうに笑って、テーブルの上で手をいじった。
「なんか…確かに意外だったわ」
「…司にも言われた。」
「や、悪い意味じゃなくて。」
だって…ここの人たちがどんなに光を大切にしてるか…。そして光が、それだけここを好きか…。今の一瞬で、すぐにわかったから。
「いい店じゃん。俺も知ってたら通ったのに。」
「……。」
「アイツずりぃわ、内緒にしやがって」
ふっ、と光が笑った。おばちゃんが定食のセットと、おまけにと言ってイチゴとオレンジを切ったものを盛り付けて出してくれた。
「うん。美味い」
生姜焼きを一口食べると、優しいあまじょっぱさが口の中に広がる。光も微笑んでうなずいて、その顔にまた見とれた。
「どのくらい働いてたの?」
「…半年くらい…かな」
「で…スカウトされて?」
「…うん」
その間…倉持と何があったの?
実家のほうは…今どうなってんの?
聞きたいことは山ほどあるけど…。
踏み込みすぎて、また…振り払われるのが怖い。
「…私、ここに来た時…」
すると光が、まだ少しためらいながら…口を開いた。俺はそれを邪魔しないように、最後まで話してもらえるように、慎重に息をひそめて耳を傾けた。相槌を打つことすらためらうほどに。
「ほんとに…何もできなくて。料理も、洗濯も…全部教えてもらって。何から何まで、お世話になって…。だから…。」
「うん…」
「…今こうしてるのも、このお店のおかげだから…」
それを…俺に話してくれたことが、とんでもなく嬉しい。
「そっか…」
もっと光のことを知りたい。
別れてからのこと…俺の知らない光を。
倉持なんかよりも、もっと…。
***
「またいつでも来てね〜!」
「ごちそうさまでした。」
おばちゃんに見送られて店を後にする。少し歩けば大通りがあって、そこでタクシーを拾うことになった。
ここから選手寮までは歩いても帰れる距離。光の家の場所は知らないけど…タクシーの距離か。
「なあ…」
横に並んで歩く光が俺を見上げる、そのキラキラした目に…俺はずっと心を奪われてる。
「家まで…送りたいんだけど」
「……。」
「…ダメ?」
暗い夜道でも、光の顔が赤くなったのが分かった。
「……いいよ」
そして呟かれた承諾の言葉。舞い上がってしまいそうになる。
大通りにてすぐにタクシーは見つかって、俺は光に続いて乗り込んだ。
「南区のほうに行ってください。」
「はい、南区ですね」
タクシーが動き出す。南区か…。高級マンションのイメージ。事務所が借りてるマンションだって聞いたけど…。
芸能人だし治安とかセキュリティーも大事だろうからな。まあ、ちゃんとしたところに住んでそうで安心した。
ちらりと、隣の光の様子をうかがう。膝の上に揃えられた華奢な手に…触れたくなる。
手を握ったら光、どんな反応するんだろう…。
でも、不誠実なことや、筋の通ってないことはしたくない。
「……。」
「……。」
車の走行音が静かに響く。光がちらりと俺を見上げて、目が合って驚いたように顔をそむける。だけどまた、そっとその視線を向けてくる…。
「な、何…?」
この子がもう、俺の彼女じゃないなんて。
「いや…。」
手放すなんて…本当に馬鹿だ、俺は。
「帰らせたくないと思って…」
「……。」
光は赤面して、見つめあうのを耐えかねたように手元に視線を落とした。
同時に俺も恥ずかしくなる。何言ってんだ俺…、そもそもここタクシー内だし。
だけど…。
ごくりと生唾を飲んで、そっと手を…光のほうに伸ばした。膝の上に重ねられた白くて柔らかな手に、ゆっくりと手を重ねる。まずは指先が触れ、ぴくりと華奢な手の指先が反応した。だけど…避けない。
そのまま手のひらを重ねて…ぎゅっと包み込むと、俺の手の中で華奢な手がしっとりと熱を帯びた。
振りほどかれない。光も…俺のこと…。
「…あ、そこの…街灯のところで」
「はい。」
不意に光が運転手に告げ、タクシーは白いタイルのマンションの前に停車した。
「…カードで」
「はい。お待ちください」
「……。」
このまま帰るはずだった俺がタクシーの清算をするのも、光は咎めなかった。
二人でタクシーを降り、走り去るタクシーのライトが遠ざかっていき、暗い歩道で二人たたずむ。
俺の手はずっと、光の手を握っていた。
「……。」
その手を見つめ、足元を見つめ…光は唇をなめて引き結ぶ。息苦しそうに、切なそうに。
「光…、」
もう少し一緒にいたい。衝動のままにそう口をついて出そうになった時だった。
ガチャン、とマンションの入り口が開いて、出てきた一人の男に…俺と光は驚き、慌てて手を離した。
「…ヨリ戻すの早くないか?」
飄々とした態度でそうぬかした美男子…確か名前は光臣。光の従弟…だったよな。
「ち、ちが…関係ないじゃん!」
「え…違うの?この状況で?」
「だから関係ないでしょ!…それよりなんで光臣はここにいるの!?」
あぁ…邪魔が入った。こいつさえいなければ今頃…!!
…なーんて思ってる俺のよこしまな心を見透かしたように光臣は心なしか薄ら笑いを浮かべ、手に提げていた紙袋を持ち上げて見せた。
「届け物。…とついでに、挨拶。来週から留学で1年アメリカに行くから、一応。」
くっ…尤もらしい理由言いやがって…。
「そ…そうなの?」
1年渡米すると聞いて若干寂しそうにする光。なんか悔しい。
「あー…そういうことなら…俺は帰るかな…」
…つーか、帰るしかない。なんか、こっちを見て薄ら笑っている光臣の顔がイラつくけど。
「先輩…、」
「俺はまたいつでも会えるんだし…親族水入らずで楽しんで。」
そう、またいつでも会える。今日、かなりいい感じだったし…家にも上げてもらえそうだった。だから、焦る必要はない。
「…ごめんね。」
光は申し訳なさそうに言った。あ〜…やっぱすげぇ名残惜しい…。…もうちょっとだったのに…!!
「お気を付けて。」
「どーも…。」
そして全くそんなこと思ってなさそうな顔で挨拶を述べる光臣に、俺は笑顔がひきつった。
「じゃ…タクシー拾うから」
「あ…うん。…先輩、またね」
「あぁ、またな」
また…。
また、すぐ会えるから。
それがこれ以上なく、うれしい。