003
フェンヌたちが酒場に入ってくると、一部の客が色めきだった。
彼らが立ち上がってフェンヌに挨拶をしようとするのを、フェンヌは片手で制止した。
「気にしないでくれ。私もあなたたちと同じように、友人と少し息抜きに来ただけだ。」
すると客たちは柔らかな雰囲気になって席に戻り、バーテンから酒が振る舞われた。前に置かれたグラスを見て、ジョゼフィーヌが「まあ!」と高い声を上げた。
「見て下さいこのワイン。ゴールデングレイスの花びらが沈められて、美しい黄金色に輝いています。私の一番好きなワインだわ。」
「爽やかで後味が少し辛くて飲みやすいわね。」
三人はオードブルを摘まみながら、そう時間をかけずにグラスを開けた。2杯目のグラスが配られると、レリアナが切り出した。
「ところでジョゼ、彼のことはどう思っているの?」
ジョゼフィーヌは目を丸くした。
「さすがは耳が早いですね。でも、お酒の席を盛り立てるほどのことは、何もないんですよ。」
ジョゼフィーヌのデスクに毎朝新しい花が届けられていることは、フェンヌも知っていた。そしてその届主が誰であるかも、おおかた目星がついていた。
「悪い気はしていないらしいな。」
フェンヌがからかうと、ジョゼフィーヌは頬の紅潮を隠すようにグラスを傾けた。
「私のことよりも、もっと人々を楽しませているお話しをしましょう。このスカイホールドで語られる、美しい神の使徒と美しい人間の騎士の恋物語です。」
フェンヌは静かにグラスを置いた。
「人々が好みそうな話ね。ヴァリックが本にするべきよ。」
レリアナが言って、フェンヌを見た。
「それで、どうなの?」
フェンヌは顔色一つ変えずに返答した。
「レリアナならば、全て知っているんだろう。私たちの間には何もないことくらい。」
「あら、でも火のない所に煙は立たないわ。」
「ならそれは、別の誰かが悪意を持っておこした火だ。実際、何もない。」
フェンヌはきっぱりと言い切って、グラスを傾けた。
「そんなことを言っては、指揮官様が悲しむんじゃありません?」
先程の仕返しとばかりに、ジョゼフィーヌは可笑しそうにからかった。
「騎士団の中では既に噂になっているほどだしね。もっとも、証拠はまだ何もないけれど。」
「部下に面白がられたのでは、彼の立つ瀬がないだろう。迷惑をかけてしまう。」
フェンヌはそう言って、目を伏せた。
「なるほどね。それがあなたの本心?」
「そういうわけでは……」
フェンヌが慌てて否定しようとしても、すでに酔っぱらっているレリアナとジョゼフィーヌのからかいは、免れないのだった。
そのとき、酒場にどやどやと賑やかな集団が入ってきた。それは、カレンが部下をつれてきたのだった。フェンヌが立ち上がって挨拶に向かおうとすると、レリアナがその手を取って引き留めた。
「待って。面白いから、少し見ていましょう」
そう言ったレリアナが視線を向けた先には、若い女が3人、カレンたちの後について入って来たところだった。しかし連れという様子でもなく、どうも彼女たちはカレンを目当てに、後をついてきたらしかった。
「彼女たち、あなたの知り合いという人たちじゃない?」
レリアナの言う通り、その3人の女は、先日ここに難民として向かい入れて保護した女たちだった。
彼女たちは、「ハーイ」、とカレンの傍に寄って声をかけた。ジョゼフィーヌが驚きの声を上げた。
「あら、もう言葉を覚えたのでしょうか?」
「いや、ある程度はもともとわかるんだ。簡単な挨拶や、応対くらいなら。」
フェンヌが言うと、ジョゼフィーヌは興味を示したが、それについての説明はあとでということになった。とにかく今は、事の成り行きを見守ることで精いっぱいだった。
女たちに囲まれたことに気付いたカレンは、何か一言二言発すると、部下たちの方へ歩いて行った。しかし女のうち一人が、しつこくその後を追って行った。
「彼女、カレンに気があるみたいね。」
レリアナが呟いた。
「カレンはスカイホールドばかりか貴族の女性からも人気が高いのですよ。今日も3通、カレンへの晩餐会の招待状が届きましたから。でも同僚としては、指揮官殿にきりなく言い寄ってくる女性の中から適当に一人を選ぶなんてことは、しないでいただきたいですけれど。」
「そうね。でも、人々の好む物語としては、これくらいのスパイスがなくてはおもしろくないわね。」
好き勝手言うふたりの言葉には耳を貸さず、フェンヌは一人静かに飲みながら、カレンの様子を窺っていた。
女はカレンの隣に腰かけ、しきりに身を寄せ、酒を飲み、腕を絡ませようとした。するとカレンは腕を振りほどき、席を立った。
「やめてくれ。私にその気はない。」
かすかにだが、フェンヌの耳にもその言葉が届いた。どうして?と女が食い下がる言葉も。
「心に決めた人がいるんだ。」
カレンはそう言って、静まり返った酒場の雰囲気に気が付き、我に返ったように辺りを見渡した。そして、酒場の奥の席でこちらを見るフェンヌの姿に気が付いた。
「し、審問官!」
カレンはこれいじょうないほど動揺し、カウンターに手をついた。フェンヌは自身に集まった視線に耐えかね、席を立った。
「ごちそうさま。」
バーテンに金を支払い、フェンヌはカウンターに立つカレンを見つめた。カレンは目を泳がせ、動揺を隠しきれずにいた。続いて立ったレリアナとジョゼフィーヌが、フェンヌの背中に手をやり、「行きましょう」と促した。
すれ違う瞬間、カレンは何かを言いかけたようにはっと息をのんでフェンヌを見た。しかしフェンヌは振り返らずに酒場を出た。
「そうだ、調査品を届けなければ。」
フェンヌははっきりしない気分を振り払うように明るく声を出した。
「すまない、図書館へ行くからここで失礼する。」
「ええ。私も仕事に戻るわ。」
「ではまた、明日。」
去っていくフェンヌを後姿を見送って、レリアナとジョゼフィーヌは顔を見合わせた。
「これであの指揮官殿も、少しは焦ってくれると思うけれど。」
「そうですね。観客からしても、全く進展のないラブストーリーほどつまらないものはありませんもの。」
フェンヌが図書館へ行って調査品を提出し、階段を降りようとすると、椅子に腰かけて本を読んでいたドリアンに声をかけられた。
「どうした?カビが生えたデスルートの蜜漬けパイを食べたような顔をして。」
相変わらずよくわからないたとえを持ち出すドリアンに、フェンヌは肩を竦めた。
「それは酷い顔という事か?」
「ああ、酷い。それはもう。」
「そうかな。個人的には、悪くない気分なのだが。」
「幸福を感じてしまったことを後ろめたく思う事もある。特に、優しい人間はな。」
ドリアンは読みかけの本にしおりを挟んでビューロの上に置いた。
「少し散歩をしようじゃないか。」
フェンヌは了承し、二人は城を出て、城壁の上をゆっくりと歩いた。
「前から聞いてみたかったのだが」
ドリアンは篝火を魔法でともし、フェンヌを見た。
「麗しの指揮官殿と良い仲だそうじゃないか?」
フェンヌは溜息と共に天を仰いだ。
「もうその話はたくさんだ。なぜみんなその話ばかりするんだ?」
「なに、このスカイホールドで唯一面白い噂だからじゃないか。この話の真偽を確かめずしてどうするというんだ?明日の朝食の話題にも事欠いてしまうではないか。」
「勘弁してくれ。」
フェンヌは城壁に頬杖をついた。
「これでも友人として口は堅いつもりだ。なんなら相談に乗るぞ?」
ドリアンも隣にやってきて、城壁に肘をつく。ふたりの眼下には城の前庭が広がっていて、酒場の灯りが煌々と灯っていた。
「不安なのは、これほど騒がれているというのに、肝心な本人の気持ちがわからないという事だ」
フェンヌが呟くと、ドリアンはわかったような態度で相槌を打った。
「わたしが思うに、彼はよほど女性に免疫がないと見える。とくにあなたのような、魅力ある美しい人にはね。」
「そうだろうか」
フェンヌの瞳にはオレンジの炎が反射してキラキラと輝いていた。
「本当にそれだけなのだろうか?」
ドリアンはフェンヌの言おうとしていることが何なのかわかっているようだった。
「もし……だが」
呟くように言うフェンヌの細い肩ごしに、赤い唇が動くのを、ドリアンは見つめた。
「私は、魔道士として誇りを持っている。けれどもしそれが、彼にとって愛の妨げになっているというなら、私は……どうしたらいいかわからないんだ、どう思っていいのかも」
「フェンヌ。」
ドリアンがフェンヌを名前で呼ぶのは珍しいことだった。その声は慈愛に満ち、優しくフェンヌの耳に響いた。
「わたしがどれほどあなたを愛おしく思っているかわかるか?これほど自分の性的趣向を呪ったことはないぞ。私が他の退屈な貴族のように美しい女と生涯を共にできるなら、今、あなたにプロポーズをすることができたのに。」
フェンヌは少しだけ振り返ってドリアンを見た。
「ありがとうドリアン。あなたのような友がいてよかった。いつもそう思っているよ」
ドリアンは言葉通り愛おしげにフェンヌを見つめた。
「いいか、これだけは言っておく。どう思おうが、あなたの勝手だ、自由なんだ。あの麗しの指揮官殿にそれでも恋い焦がれようが、幻滅して失望しようがな。わたしとしては、大切な友を悲しませるような奴は、一度くらいこっぴどく失恋をして打ちひしがれている醜態を見てみたいものだが。」
フェンヌは小さく笑った。するとようやくドリアンも、その頬に微笑を浮かべたのだった。