最初はほんの気まぐれだった。
放課後。
教室。
西日が差す。
それが俺を惑わせるようで。
触れた手はもう引き戻せないでいた。
「面倒じゃのう……」
幸村に言われんかったら、絶対に取りに戻らんかった。
なにが「明日の数学、仁王当たるよ?」だ。
俺が置き勉してるのわかってて言っちょる。先生が俺を当てることを幸村にボヤいたらしい。
それを聞いた幸村は、魔王の笑みで俺に言い放った。
『部長の俺の顔に、泥を塗る気かい?』
マジでふざけんな、と心の中で呟いたが……呟いたとこでなにも変わらん。
先生に逆らうことはできても、幸村に逆らうことは許されん。
遠くで切原が笑ってんのが見えちょったが……あとで覚えてろよ、とひと睨みしといた。
もう誰もいないと思われた教室。
なんの遠慮もなく、イライラした気持ちのまま勢いでドアを開ける。
すると、視界に入った俺の席に……誰か女子生徒が座ってるのが見えて、らしくもなく体がビクついてしまった。
誰もおらんと思っとったからじゃ。普通じゃったらこんなビクつかん。
「……お前さん、誰じゃ……?」
とりあえず、俺は俺の席に用がある。
俺が教室に入ってきても微動だにしないコイツに、俺は話しかけたが……返事は返ってこん。
仕方なしに席まで近付くと、返事が返ってこん理由がわかった。
「……寝ちょるんか……」
どんだけ神経が図太いのかと思っとったら、ただの居眠り……。
どうしようかのぅ……。俺はこの机の中のノートが欲しいだけじゃ。起こすつもりは一ミリもない。
しかし、この女子生徒。窓際に背を預けて寝ちょる。ちょうど机が体を支えてる形じゃ。
「器用に寝ちょるのう」
とりあえず起こさないようにと、俺は女子生徒と机の隙間から手を伸ばした。
……どれが数学のノートかわからん。当たり前じゃが、全教科置き勉しとるからの。
「……ん、」
俯いて寝ちょる女子生徒から、小さく吐息がもれた。
起こしたか?と伸ばした手を引っ込めたが、どうも違っとった。ただの寝言。なんや、ビックリさせんで欲しいのう……。
しかし、コイツ……どこかで見たことがあるのう。
どこじゃったか……。
「……あ。幸村の彼女じゃったか」
隣のクラスの岡田。幸村とは同じクラス。
彼女となれば、名前を思い出すのは造作もない。
なんで自分のクラスじゃなく、俺のクラスにおる?
その答えは窓の外を見て判明する。
「なるほどなぁ。こっからのほうがよう見える、というわけか」
俺のクラスの窓の外――……。
テニスコートが全体見渡せる。
A組もC組もここまで見えん。
こっからでも幸村がベンチに座ってるのがよう見える。
幸村は愛されちょるな。
……だが、不意に興味が沸いた。
幸村が溺愛する彼女。それがどんな女なのか、俺は喋ったことすらない。
サラサラと伸びる髪に手を伸ばす。
指で岡田の耳に髪をかけ、その顔を覗く。
規則正しい寝息。こんだけしてもまだ起きん。
教室に差し込む西日が、その頬を赤く染める。
唐突に心臓が高鳴り始めた。
その音に、俺の頭には警鐘が鳴り響く。
いけん……これ以上は……。
ただ、触れてしまっては。
もう戻れないような気がした。
もっと近くに。もっとそばで。
その西日を浴びた綺麗な顔を見ていたい。
薄く、赤い唇に。
気が付けば、自分の唇を合わせてた。
「……ん、せーいち……?」
合わせたと同時に呟いた岡田が、うっすらと目を開ける。
まだ寝ぼけちょって、俺が誰だか認識しておらん。
それを好機と、俺は岡田と距離を取った。
「……よう、起きたか?」
「……え?あれ?え?仁王、君?」
「よう寝ちょったなぁ。おかげでノート取れんかったぜよ」
「えっ?!あ!ごめん!ここ、仁王君の席だったんだ……」
慌てて立ち上がる岡田は、どうぞどうぞと俺の席を離れて、今度は前の丸井の席に移動した。
席は移動したが、クラスは離れるつもりはないらしい。
「お前さんの彼氏に言われて忘れ物取りにきちょったら、お前さんが寝こけとるから」
「へっ?精市が?あ、いや、本当にごめんね。寝るつもりはなかったんだけど……」
「まぁ、無事にノートも取れたし。ええぜよ、気にせず続きしてくれ。じゃあな」
机からノートを取り出し、岡田に背を向けた。
俺にキス、されたこと……本当に気付いておらんのか。
それはそれで少し傷つくが、知れるよりええ。
幸村を敵に回したくはない。
そう、思っていたのに。
「なぁ、お前さん」
「えっ!へ、な、なに……」
「気付いちょったか?」
「な、なにを……」
「お前さん……」
教室のドアに手をかけ、少し開けたところで振り向いた。
言うつもりはなかったのに、話してしまいたくて。
振り向いた先、窓際に佇む岡田。
窓から入る西日が、色濃く染め上げる。
その、顔を。頬を。真っ赤に。
「……夕日のせい、か?その顔が赤いのは」
「…………ッ、!」
「ふっ、ええぜよ。知らないフリ、しちょいちゃる」
「に、仁王……君。なんで……」
「さぁ?」
それだけ言って、教室をあとにした。
きっと岡田は今ごろ、頭悩ませちょるな。
本当にただの気まぐれ。
手を出す気は更々なかった。
幸村を敵に回すほど、俺は馬鹿なつもりはない。
なのに。
「なんで、と言われると……綺麗じゃったから」
触れたら最後。
頭から離れない。
それはまるで……媚薬のように。
aphrodisiac
(に、仁王君……なんで。なんでキス、なんか)(あたし、このあと精市にどんな顔して会えばいいの)(あたしには……精市だけ、なのに)