「あの……手……」
無言のまま手を握り波打ち際を歩く僕に、おどおどと相葉さんが呟いた。
「あ、ごめん。嫌だった?」
「あ、の。えっと……い、嫌じゃないです……」
「いいの?」
「は、はい……」
「よかった」
歩いているうちに西日はどんどん強くなっていって、気がつけば海はオレンジ色に染めあがっていた。
さっきまで夏独特の生ぬるい風が、少し冷たさを帯びて吹き始める。
あまり長い時間ここにはいられないな、と思いながら歩みを止めると、少し不安げに相葉さんが僕を覗きこんできた。
「さっき言った、スランプの原因……なんだけどね」
「はい」
「僕、ちょっとね。ちゃんと人を愛したこと、ないんだ」
「え?」
「だからか、最近の写真にはソレが如実に出てきてて……。注文された写真は別だよ?仕事としてそこは許されないけど、僕個人の……作品として芸術として納得できる写真が撮れないでいたんだ」
掴んだ左手の先。相葉さんは、今まで見たことがない憂いを帯びた表情で僕をまっすぐ見る。
僕も少し……緊張してるみたいだ。少しずつ鼓動が走りだしている。だってこんな話をするのはきみが初めてだから。
「佐古田さんにポートフォリオを見せたらね、愛が足りないんじゃないかって指摘されたんだ。分かってはいたんだよ?頭ではね。でも改めて言われると、やっぱり胸は痛んだよ」
「不二さん……」
「僕は卑怯者なんだ。誰かの望むままの僕でいれば、一番楽なんだって思っていたから。そこに僕の意思も意見も関係ない。誰かの人形で、誰かに必要とされてて、誰かの玩具でいればなにも問題ないって思ってた」
今まで力なく握られたままの相葉さんの手が、ぎゅっと僕の手を固く握り返す。
憂いを帯びたままの表情なのに、どこか瞳の奥は力強くて。そのまま吸い込まれてしまいそうになる。
「これは言うかどうか悩んだけど、実は僕にはね。婚約者がいるんだ。高校から七年も付き合ってる人が」
「………………え?」
「でも。僕は一度も愛しいと思ったことがない。その婚約者に流されるがまま付き合ってきた。それが一番いいって思ってたから。向こうもそれは同じ。僕のことを玩具だと思ってる。彼女にとって僕はただの一つのステータスなんだと思う」
「それって……付き合ってるって言うんですか?」
「……さぁね。彼女にとってはそれでも付き合ってるってことなんだろうけど。デートするのも喧嘩するのも、僕の気持ちなんて汲み取ることはこの七年間一回もなかったよ」
正直に。自分に正直になろうと思った。彼女の前では。包み隠さず打ち明けよう。きみには隠していたくないって思った。
何故、なんだろう。きっと、きみのその純粋な気持ちがそうさせているのかな。
波の音が頭の中で響きわたる。人がいなくなった海岸で、僕たちだけ。夕日が相葉さんを照らし出す。その瞳が西日に反射してすごく綺麗だな、と波音と共に脳裏に焼き付いた。
「愛を知らない人形が、愛を知り人間になりたいって願うロシアのバレエ……ご存知ですか?」
「……?」
「ペトルーシュカって言うんですけど。恋を知り愛を知った藁人形が、ペトルーシュカって名前で。そのペトルーシュカが人間になりたい悲恋の物語なんです。ピノキオのロシア版ってとこですかね?ピノキオとは結末違いますけど」
「……へぇ。物知りだね、相葉さん」
「元はクラシックみたいなんですけどね。あたし、絵の題材のためにその辺も見漁ってて。すごく心に残った一つだったんです」
「……恋を知り愛を知った藁人形か……。なら僕は恋も愛も知らないペトルーシュカだね」
少し自嘲気味に笑って答えると、相葉さんの表情が一変した。
今までの悲しみに満ちたような面持ちから、気強さを思わせる表情へ。
彼女の強さを、一気に感じられる表情だ。
その顔、その瞳。僕の目を逸らすことも顔を俯くこともさせない強さだ。- 33 -*prev | *next *Sitetop*or*Storytop*