幸せな小春日和

よく晴れた日曜日。大都会東京でも一歩奥に入ってしまえば、そこは閑静な住宅街で街の喧騒もあまり届かない。
花が綻び始める暖かな柔らかい日差しが、あたしの足元を照らし出してる。外は春独特の陽気な雰囲気に包まれて、なんだか心も踊りだしてしまいそうな気分だ。


「……そろそろ、ね」


腕に付けたシルバーの腕時計。丸く小さい文字盤の指す針は、もうすぐ十時を知らせるところだ。
その腕を下げた時、遠くからこの閑静な住宅街にはそぐわない車のエンジン音が聞こえてくる。
これでも抑えてるほうだろう。だけど隠しきれないスポーツカー独特の吹かす音色は、あたしが今、待ち望んでいる人物──……。

青いフォルムが、照らし出されて反射する。
あたしの目の前に爆音ともいえるエンジン音を轟かせ、一台のスポーツカーが緩やかに丁寧にブレーキ音を鳴らし止まった。


「おはよう。待たせたか?」
「おはよう。いいえ、時間ピッタリよ。さすが乾君ね」
「渋滞も予測して家を出たからな。間に合って良かったよ」


そう、待ち望んだ人物は。
同じ会社に勤める、同期の乾君……。といっても、年齢はあたしより二歳ほど下だ。あたしも乾君も中途入社。新設された会社への入社時期が一緒なのだ。
乾君は優秀な人材だそうで、会社のメイン部署に勤め、これでもかと成績を残している。どうやらヘッドハンティングだったそう。
そしてあたしはただの経理。資格を活かしてお給料体制の整った今の会社に転職した形だ。


「……どうした?」
「ふふ。ううん、何も?ちょっと昔を思い出しただけよ」


スポーツカーの窮屈さをあまり感じさせない助っ席に乗り込み、少しだけ遠くを見つめたあたしへ乾君は問いかけてきた。
いつも思うけど、こういう小さな気付きに思わず胸がときめいてしまう。だからこそ、この人に落ちたのだけど。

脱いだ帽子を膝に置くと、走り出す前に乾君はあたしの頭を優しく撫でた。
不意にするこういうことに、恋愛経験が乏しいあたしは一々心臓を高鳴らせてしまう。分かってやってるのかしら?乾君のことだ。きっとあたしの顔色の変化を楽しんでるに違いない。


「も、う。あたしの方が歳上なのよ?」
「そう言えばそうだな。ただ、希の反応が楽しくてね。そんな事も忘れてしまう」
「……そう言うと思っていたわ」
「意外と読まれてるなぁ」
「馬鹿にしないで。昔からあなたという人を嫌というほど知ってきてるの」


そこまで言うと乾君は眼鏡の奥で微笑んで、ゆっくりとアクセルを踏み車を走らせ始めた。
耳を通り抜けるエンジン音は思ったより静かで、あたしはゆっくりと思い出に浸る。

昔から。そう、実はあたし達は大学が一緒。中途入社のこの会社、新設された際に全従業員顔合わせを行っている。
乾君とはそこで再開。大学時代は同じサークルにいて、自分では柄にもないなぁと思っていたテニスサークルで、二年後に入学した彼は一際目立っていた。

趣味かと思っていたテニスも、実はプロを目指す程に熱中していたこと。同級生には何人かプロになってる人がいること。あたしでも知ってる日本人プロが友達なこと。元々のプレイスタイルが今の職に繋がっていたこと。

大学を経て、まさかこの会社で再開するとは思わなかったけど……。
だからこそ、今、この関係になれたことに幸せを感じてること……は、実は内緒だ。


「何、考えてるんだ?」
「ん?」
「いつもより三分の二ほど、静かだから」
「あら、そんな事ないわよ。いつも通り」
「そうか?希は考え込むといつも以上に静かになる傾向がある。地頭はいいのに、考え込むと言葉を発する回路が遮断されるからな」
「そういうのは言わなくていいの。嫌われるわよ?」
「誰に?」
「そうね。そこは言わないでおくわ。自分で考えて頂戴」
「これは手厳しいな」


見なくても分かる。態とらしい薄い笑顔を貼り付けてる。言わせたいのよね、この人は。あたしが乾君に、どんな感情を持っているかって。

ハンドルを握るその姿。横目で見遣れば、口角が不自然なほど上がっている。ご機嫌は上々なようね。

少し面白くなくて、思わず小さい溜息をついた。二つも年下の彼氏に、良いように振り回されてる気がしてならないからだ。そんな些細な気持ちなんて、いくらあたしの機微に聡い乾君とて分かるわけない……はずなんだけど。

細い住宅街の道を抜け、交通量の多い通りにでる。前の車にあわせたスピードで緩やかに走るスポーツカー。時折轟くエンジン音は早く走り出したい合図なようで、すぐさま首都高の入口へと進んでいく。


「どこまで行くつもり?」
「関東で海が見えるところかな」
「そんなの千葉か茨城じゃない……」
「山でもいいな。どうせ明日も休みだし、一泊したって誰にも迷惑かけないしな」
「……なっ、」


なんで一泊?!と言いかけたところで、その先の言葉は紡げなかった。なぜなら乾君がその性能を持て余してた車に、息を吹きかけたからだ。
ぐっとスピードが増して、重力が体にのしかかる。喋ることや体を動かすことすら難しく感じるそれは、普段、車に乗らないあたしにとって頭の中まで押しつぶされそうな感覚に襲われた。


「耐えろよ?」
「も、スピード……出しす、ぎ……!」
「希はあまり経験してないからな。俺が抑えてたのもあるけど」
「え、なに……ッ、ぎゃああああ!!」


本当は人の気持ちなんて、なにも考えてないんじゃない?

女の子らしさ、なんて微塵も感じられない声であたしは叫び、青いスポーツカーはカーブの奥へと進んでいく。

あたしはひたすら重力に逆らうように大声を出すしかなかった。



♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦



「……死ぬかと思った」


全身に重力を感じた首都高と高速道路。
その抜けた先、気付けば潮の匂いに包まれる水平線が、眼下に広がっていた。


「水、飲むか?」
「ありがとう。いただくわ……」


思えば遊園地のジェットコースターが苦手だった。初めてのデートでそれを告白しなかったあたしは、乾君にこれでもかと満面の笑みを向けられて二度とジェットコースターには乗らないと誓ったのに。

これは不可抗力すぎる。ずるい。避けようがないもの。


「顔色が少し戻ってきたな」


窓の開いた助っ席から、春の風なのか潮風なのか。あたしの気分を落ち着かせようと穏やかに風が吹き付ける。
運転席に座る乾君は、あたしの顔を覗くように伺うと、その大きな手で前髪をあげた。髪に触れた親指が額にあたる。少しだけひんやりとしたその指が、徐々におりてきては頬を撫でた。


「少し熱いな」
「誰のせいだと思っているの」
「俺のせいか?」
「他に誰がいるの」
「いたら困るからな。なら、俺のせいでいい」


高台の駐車場。春先だからか台数はそんなに停まっていなくて、まるで他には誰もいない世界のように勘違いしてしまいそう。
遠いようで近い波音に、張り詰めていた緊張がほぐれる。でも、それだけじゃあない。あなたが触れているのが一番なんだと思う。


「なにしようとしてるの」


近付く顔は、その眼鏡が邪魔してる。
そっとその眼鏡を外せば、あたしを見つめるその瞳は優しくて。
さっきまで、あんな運転をしていた人と同一人物とは思いたくもない。


「じゃあ、なんで眼鏡を外すんだ?」
「あなたが近付くからでしょう。なんで近付いてきたのかしら?」
「俺は希の口から聞きたいんだけどな。外した理由」
「最初に質問したのはあたしよ?」
「ん?」
「……もう、いいわよ……」


痺れを切らしたように顔をそらせば、微かに漏らした笑い声。急に恥ずかしくなって、触れられた頬は更に熱を帯びてしまう。


「可愛いな」
「……ッ、からかわないで……」
「からかってないさ。これはそうだな……甘やかしてる?」
「なんで疑問形なのよ」
「甘やかしてる自覚はないからな」


少し躊躇い気味に、乾君へ顔を向ける。
付き合い始めてそうは長くないから、と自分の心に言い訳をいうけれど……。心臓の鼓動がうるさくて、それすらもどうにかなってしまいそうだ。

向けた顔が限界まで近付けば、触れる唇は優しくて。触れた瞬間の乾いた空気の音が、鼓動に混じって嫌というほど耳につく。
次第に触れる時間が長くなり、空気を取り入れようと口を開けば、その間隙を縫って乾君の舌が入り込んできた。

車の中で、波音に混じって響く水音。断続的に続くそれは、あたしの中の乾君の存在がこれでもかと大きくなってしまうのだ。


「……っ、も、なが……」
「そんな顔を見せられたら、やめるタイミングを見失ってしまうな」
「……ばか」
「希の前なら、馬鹿になるもの悪くない」


そうは言っても。
あなたの前で、なにも見えなくなってしまう馬鹿になるのは……あたしのほうだ。

頬を触れるその手からするりと抜けて、乾君の胸元へ顔を埋める。あたしの頭を、乾君はその大きな手で優しく撫でる。
窓を開けたドアから、風にのって潮の香りが鼻についた。
穏やかな、なにもない一瞬。でも、こんな一瞬をあなたから与えられるのは悪くない。


「……どうする?」
「なにが?」
「泊まっていくか?」
「………………そうするわ」


そんな一日がなによりも幸せ。
あなたの隣で感じられるのなら、いつまでもそばにいて欲しい。










幸せな小春日和
(ずいぶん素直になったもんだな)(なによ)(付き合い始めた頃は、俺がすることにいちいち文句言っていただろ?)(そっ、それは……)(すごく可愛くなったよ)(……ッ、お、お願い。やめて)

はい!朱音さんリクエストの乾でございました!いや、本当に大変お待たせ致しました……!本当に申し訳ないです……。どんどん遅筆になるなぁ……。元からか。

さて、朱音さんのリクエストの乾……。ドラテク描写はいかがでしたでしょうか?あんまり書けてない気もしますけど(笑)なんとか書けてよかったです。
さて。こちらの乾、不二君長編「ペトルーシュカに花束を」のスピンオフと考えて頂けると幸いです。ちゃっかり彼女作ってんだな、乾め!(笑)
ただ、不二君長編の乾はわたしも好きなので、書けて嬉しかったです。なかなか筆が乗らず、好きなのに書ききれない感じがもどかしくて悩みに悩んだのですが……ヒロインちゃんもちょっとお固めな感じがいいなぁと思いまして。
真面目な感じのヒロインちゃんが乾に刺さって欲しいものです。つか、刺さって!
やまとなでしこなヒロインちゃん目指したつもりだったんですが、書ききれてるかどうかはもう朱音さんにお任せします。(任せるものじゃない)

この度はリクエストありがとうございました!これからもLiebeslied.とシロサギを宜しくお願い致します!いつも色々とありがとうございます!

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