09



 布団に潜って数時間。ナマエは冴え渡った目を諦めて開くと、椅子にかけていた上着を羽織りそのまま部屋を出た。
 薄暗い廊下を歩けば、床の軋む音が波の揺れに合わせて鳴り響く。深夜三時を回った船内は機械音しか聞こえず、起きている者といえば不寝番の者くらいであろう。
 食堂にたどり着くと、ナマエはグラスに水を入れる。そしてポケットから薬包紙に包まれた粉薬を取り出すと、それを水で一気に流し込んだ。深く息をつきながら口内に広がる苦味に眉をしかめていれば、ふいに廊下から誰かの足音が聞こえてくる。
 不寝番の者か、はたまた同じように寝つけずにいる者か。入口の方に顔を向ければ、ナマエの視界に映ったのはマグカップを片手に携えたローの姿であった。


「何してんだお前」
「ちょっと眠れなくて・・・。ローさんこそどうしたんですか?」


 一拍置いて言葉を返せば、ローは「似たようなもんだ」と零しながら、そのままナマエの横に並びマグカップの中身を水道で濯ぐ。流れてゆく茶色の液体を見るに、珈琲のおかわりでも飲みに来たのだろうかと考えていれば、彼の目線はナマエの手元の薬包紙に注がれていた。


「何の薬だ」
「不眠症の薬です。かなり軽いやつなんですけど」


 その答えにローはナマエの手元から薬包紙を取ると、くんっと軽く匂いを嗅ぐ。そして嗅ぎなれない独特の香りに少し眉をひそめた。
 ワノ国に伝わる生薬の類で、かつての上司であった革命軍医師のマコモがよく使用していたものだ。精製方法も知っているナマエにとっては嗅ぎ慣れたものだが、知らない者からすれば一体何の粉末かと疑う香りであろう。


「ローさんも飲みますか?ここ最近特に眠れてないみたいだってこの間シャチさんが言ってましたけど」
「いや・・・そういう類の薬は色々と試したが、あまり効果がねェからやめた」


 やかんに水を入れ火にかけると、ローは手持ち無沙汰になった両手を前に組んで壁にもたれかかる。
 ナマエは正式な船員ではないため詳細は聞かされていないが、ローは王下七武海に入った後にも色々と成すべき事があるらしく、今はその下準備に奔走しているところだと小耳に挟んでいた。寝つきが悪いことをいいことに、ベッドになかなか入らず夜遅くまでその計画のために何かをしているのだろう。
 いくらそうだとしても、睡眠時間をこのまま削り続けることはよくない。現にここ最近のローの顔色は日に日に悪くなっていく一方である。医師の彼に何かアドバイスをするのは烏滸がましい限りではあるが、ローの寝つきの悪さを改善するために何か打開策はないかとナマエは頭を捻った。


「シャワーだけじゃなくて、ゆっくりお湯に浸かったりしてますか?」
「生憎能力者は長風呂が苦手だ」
「あっそうか・・・。じゃあ寝る前にホットミルクかハーブティーを飲むとかは?」
「何度かベポに無理矢理飲まされたが効果はなかったな」
「うーん。だったらあとは・・・」


 
 真夜中の雰囲気というものは不思議なものだ。いつもならばローと話すと少し緊張してしまうナマエなのだが、今は自然と会話を交わせている。それはローも同じなのだろうか。薄らと笑みを浮かべながら、彼もこの問答を楽しんでいる様子であった。
 シュンシュンとやかんの口から細く蒸気が出始めたのを見て、ローは珈琲を入れる準備をし始める。その姿を横目に、自分が眠れなかった時に実践したことが他に無いかと頭を巡らせていれば、ふいに北の海に伝わる子守唄のことをナマエは思い出した。


「そういえばローさんも北の海出身ですよね?"羊飼いの星屑の夢"っていう子守唄って知ってますか?」
「・・・あぁ。昔、妹に歌ってやったな」
「私も小さい頃によく歌ってもらってました。あの歌を聞きながら手を握ってもらったら、なぜかすぐに眠れるんですよね」


 朧気な記憶を掘り起こしながらナマエがそう言えば、棚の上の珈琲の瓶に手を伸ばしていたローの手がぴたりと止まった。眠れないといえども、こんな時間にさらにカフェインを摂取することは良くないと思い留まったのだろうか。
 そんなことを考えていれば、ふいにローはそのままナマエの目をじっと見つめると、少し口角をあげながら言葉を紡いだ。



***


 なぜこのような事態になっているのか。十分前の自分を問いだたしたいと、ナマエは煩く鳴り響く己の心臓の鼓動を抑えるために細く息を吐き出す。そんなナマエの心中など知る由もなく、ローは己のベッドの上で余裕の笑みを浮かべながらこちらの様子を眺めていた。

 事の発端はローであった。子守唄の話を聞いた彼は、少し揶揄うような表情でナマエに『お前が歌ってくれるのか?』と聞いてきたのだ。


『え?』
『子守り唄はさすがに試したことがねェ』
『いやっあの・・・』
『やってみてくれるか?』


 その後あれよあれよと言いくるめられる形で、ナマエは気がつけばローの部屋に連れてこられていた。ローはベッドに寝転がると、横にこいと言わんばかりにすぐ隣の空いたスペースをぽんぽんと軽く叩く。
 いくらなんでも横に並んで寝転ぶのはとてつもなくハードルが高すぎる。ナマエはベッドの傍に椅子を引きずっていくとそこに座り、背筋を伸ばしながら咳払いをした。


「じゃあ歌いますね」
「・・・」
「・・・なんですか」
「この間、ベポとは甲板で一緒に昼寝してたじゃねェか」


 納得がいかないと言わんばかりのローのじとりとした眼差しに、ナマエは目線を泳がせる。
 ローの言う通り、確かに数日前ナマエはベポの腹を枕代わりに昼寝をしていた。あの日は今日と同じで寝つきが悪く、睡眠時間がかなり短かったため、買い出しの仕事を終えた頃にはナマエは猛烈な睡魔に襲われていた。仮眠をとるために部屋に向かおうとしたところ、甲板でスヤスヤと寝ているベポを見つけてしまい、吸い込まれるようにベポの腹に倒れ込んだのだった。


「ベポはその・・・、ローさんとは違うじゃないですか」
「何が違うんだ?」


 このやりとりを少し楽しんでいる様子のローの口元は、先程からずっと弧を描いている。先程のようにこのままローの望み通りに添い寝に誘導されてしまうことだけは避けたいと、ナマエは先手を打つことした。


「・・・ひっ膝枕、なら」


 慣れない単語に思わず声が裏返ってしまう。頬を真っ赤に染めながらナマエが唇を尖らせて弱々しく声を出せば、ローはくつくつと小さい笑い声をもらした。


「来い」


 そんなローの呼びかけに、ナマエは腹を括りベッドに上がった。
 ぎしりと軋む木製のベッドは彼の体格に合わせてか、通常のものより幾分か大きい。膝を折り曲げてベッドに腰を下ろせば、ローはちらりとこちらの位置を確認するとそのまま自らの頭をナマエの膝の上に躊躇無く乗せた。


「痛くないですか?」
「あぁ。問題ねェ」


 あの最悪の世代の一人を膝枕することになるなんて、出会った頃には想像もできなかったであろう。
 薄暗い部屋の中、サイドテーブルにある照明の小さなオレンジ色の光が、整ったローの横顔を照らす。そんな光景を見て、ナマエはもしやこれは夢の中ではないのかと疑いたくなった。しかしそんな考えは物の見事に打ち破られる。
 ふいにローの腕が伸びてきたかと思えば、そのまま彼の骨ばった指先がナマエの手を捕らえた。


「っ・・・あのっ」
「お前が言ったんだろ。手を握ったらよく眠れるって」



 歳上の余裕なのか、はたまたナマエを揶揄って遊んでいるのか。声色を一切変えずにそう宣うローの言葉に、ナマエはただただ平常心を保つことに必死であった。


「・・・お好きにどうぞ」
「あぁ、そうさせてもらう」


 そう言うとローはそのままナマエの指先を己の口元の方に手繰り寄せる。唇が触れそうで触れない絶妙な距離。ローの握る手の力がぎゅっと強まったかと思えば、ふいに凛とした声で「ナマエ」と名を呼ばれた。


「明後日到着する島で、百個目の心臓キューブを手に入れる予定だ」
「・・・はい」
「その後すぐに海軍本部に向かう。お前は、その後どうする?」


 ローの問いかけに、熱を帯びていたナマエの身体は一気に冷静さを取り戻す。

 先日、九十九個目の心臓キューブをローが持ち帰ってきた時に、自分がこの船を降りる日がすぐそこまで来ているのだと心構えをしていたつもりであった。けれどいざ面と向かって問われると、自分が本当はどうしたいのかがナマエは分からなくなってしまっていた。
 ローの持っていたレポートのことを−・・・己の過去に関わるものときちんと向き合わなければいけないということはもちろん、本音を言えば、ハートの海賊団の面々とこのまま共にいたいという気持ちが日に日に強くなっている。しかしその一方で、このまま彼らの優しさに甘えていては、永遠に自分の足で立てない人間になってしまうのではないかと思う気持ちもあった。

 頭の整理が上手くできず、沈黙を貫くナマエの様子を見かねてか、ローは視線をこちらに寄越す。ナマエの心のうちを射抜くように、ローの灰色の瞳が夜のしじまの中で煌めいていた。


「お前がこの船にいたいと思うなら、残れ。うちの奴らはもうとっくにお前のことを認めてる」
「・・・ありがとうございます。でも、」
「・・・なんだ?」
「 いえ・・・もう少しだけ、考えさせてください」


 ゆらりゆらりと海上を漂う海月のように、流れに身を任せてしまえば楽になれるのかもしれない。けれどずっとそうして生きていたから、サボの時のように取り返しのつかない事をしてしまったのだ。ナマエの胸元で静かに佇む青いブルーサファイアが、その事実をありありと突きつけてくる。
 居場所を無くしてしまう怖さを知った今、再び大切な場所や人たちを作ることが、ナマエはただ怖かった。
 ぎゅっと口を横に結ぶナマエの表情を見てか、ローは小さくため息を零すと目線を元に戻す。そしてそのまま、握っていたナマエの手に己の指先をゆるりと絡めた。


「・・・子守唄、歌ってくれ」


 掠れたようなローの声にナマエは小さく頷くと、緩やかに歌を紡いだ。
 北の海の者ならば必ず聞いたことがあるこの歌を口ずさめば、ふわりとナマエの中で朧気な記憶が浮上する。
 幼い自分が誰かの手を握り子守唄を歌っている記憶。しかし靄がかかったように、相手の姿が分からない。ただその手の先にいる相手が、ナマエにとってとても大切な人だったという記憶だけはありありと残っていた。

 時間でいえばほんの五分くらいであっただろうか。五番まである歌詞を最後まで歌い終わると、ナマエは小さく一息をつく。
 膝の上のローは気がつけばいつの間にか静かに寝息をたてていた。その寝顔はいつもより少し幼く見える。

「おやすみなさい、ローさん」


 やんわりとローの黒髪を撫でたナマエの声が、静寂の闇に溶けた。