Law route 04



 あっという間の二週間であった。キラキラと光を乱反射させる太陽を見上げながら、ローは口から小さく白い息を漏らす。もうすぐ春だというのに、冬島であるこの島の地面はまだ一面雪に覆われている。ただ初めて訪れた時とは違い、今日は頭上には雲一つない青空が広がっていた。


「ローくん。この薬、治療を受けるまでは必ず毎食後飲んでね。熱が高い時はこれも」
「ありがとう、アリアさん」


 ケースに入れられた大量の粉薬や錠剤を受け取りながら、ローはアリアに礼を述べる。ついにオペオペの実を求めてスワロー島に向かうことになったローとコラソンは、荷物を纏めてアリアとナマエの家を出立しようとしていた。
 出会った当初とは違い、体力が回復し、幾分か柔らかい笑みを浮かべるようになったローの姿を見て、アリアは嬉しそうに口元を緩める。そしてローの視線に合わせるように腰を曲げると、そのままこちらに片手を差し出してきた。


「こちらこそ協力してくれてありがとう。血液サンプルの採取や検査の協力をしてくれたおかげで色々とレポートをまとめることができそうなの。必ず完成させて、珀鉛病が伝染病では無かったという事実を世界に公表してみせるわ」


 彼女の医師としてのプライドなのか、はたまた亡くなった友人への弔いなのか。揺るぎない意志のこもった瞳を見て、ローは感謝の気持ちを込めながら、アリアの手に己のものを重ねて固く握手を交わした。

 それと同時、ふいにローの背後で「わー!」という大きな声とともに、ばさりと何かが倒れ込む音がする。振り返れば、モフモフとした毛皮の大きな犬に馬乗りされ、綿毛のような真っ白な雪に転がるナマエの姿がそこにはあった。
 港までの足として大きな犬ぞりをアリアが手配してくれていたため、先程からそりを牽引する犬たちが楽しげに庭先を駆け回っている。その一匹にじゃれつかれたのだろう。そのままペロペロと顔を舐められたナマエはくすぐったそうに笑っていた。


「大丈夫か?」


 慌てて駆け寄ると、犬は嬉しそうに今度はローの足元に擦り寄ってくる。その頭を撫でながらナマエに手を差し伸べれば、彼女は「ありがとう」とその手を借りて立ち上がった。
 犬に取られたのか、握ったナマエの手にいつも付けているはずのピンクの手袋がない。ひんやりと冷えきったその手を思わずローが包んでやれば、途端にナマエは顔をくしゃりと歪めた。
 先ほどまで無邪気に笑っていた顔からは想像できないほど、大粒の涙が次々こぼれ出す。突然のナマエの変化に、ローは狼狽えるようにして彼女を見下ろした。


「ロー・・・」
「・・・なんだ」
「絶対、絶対っ・・・元気に、なってね?これっお守り、作ったの」


 ずびずびと鼻をすすりながらナマエは空いた手でポケットから何かを取り出すと、それをローに寄越してくる。少し不恰好な赤いハートの形をした、恐らく彼女の手作りであろう御守り。
 なんでハートの形なのかと問い詰めたくなったが、今の状態のナマエではまともな答えを期待できないだろう。むず痒くなる気持ちを隠すように、ローは下唇を噛みながら「ありがとう」と小さく零した。


「約束だよ。私のこと、忘れないでね」


 当たり前だ。誰が忘れてなどやるものか。思わず手を伸ばして、ナマエの頬をこぼれ落ちる涙をぬぐってやる。そして渡された御守りを大切に握りしめると、ローは白い歯を見せて笑った。


「ああ、約束だ。必ず元気になって、お前に会いに来る」


 その言葉を聞いて、ナマエは弾けるようにして瞳を瞬かせた。
 ほら、泣いてた烏がもう笑ってる。

 これは十三年もの長い間、ローが大切に刻んでいた記憶の物語──。



Law route 04



 肩が触れ合う距離。高台にそびえ立つ古びた教会にたどり着いたナマエとローは、室内のベンチに隣り合わせで腰を下ろしていた。
 時折割れたステンドグラスの隙間から風が入ってくるものの、ローによってしっかりと握られた手の温もりのおかげか、ナマエは少しも寒さを感じていなかった。

 ぽつりぽつりと語り出したローの話を耳に入れながら、ナマエはひたすら自分の中にある記憶と照らし合わせる。答え合わせのようなその行為は、ナマエにとって心の中のわだかまりが溶けていくような感覚であった。


「ローは最初から私だって気づいてたの?」
「いや・・・最初に薬屋で会った時、お前が伝票に名前を書いただろ。同じ名前だったから反応はしたが、ただの他人のそら似かと思っていた。なんせお前はとっくの昔に死んだと思ってたからな」
「・・・私が?なんで?」
「ハートの海賊団を立ち上げてすぐ、お前とアリアさんに会いに行こうと島に寄ったんだ。けど・・・二人ともいなかった。あったのは焼け焦げた家の残骸だけで・・・。村人たちに確認したら『数年前に火事で二人とも死んだ』とだけ聞かされた」
「・・・っ」
「俺らが去ったあと、何があった?」


 ローの問いに、ナマエは思わず彼の手を握りしめながら、蘇った記憶を紐解くように口を開いた。


***


 ローとコラソンが去ってから半年あまり。アリアとナマエは相も変わらず二人で平穏な日々過ごしていた。
 アリアはいつものように訪問診療に出かけ、帰宅してナマエと過ごしたあとは、珀鉛病に関するレポートの執筆に勤しんでいるようであった。ナマエはナマエで、薬剤師になるための勉学に励み、昼夜医学書と睨めっこする日々を送っていた。
 そんなある日。母から呼び出されたナマエは、耳を疑いたくなるような事実を告げられる。


「明日お父さんが迎えにくるわ。貴方はこれからお父さんと暮らすの」


 珍しく朝から出かけて行かず、何か荷物の整理をしているなと思っていた矢先であった。母の言った意味が理解できずに眉をひそめるナマエに対して、アリアはナマエの肩を掴み、まっすぐ目線を合わせる。


「・・・お母さんは?なんで一緒じゃないの?」
「・・・お母さんはね、お仕事で別の遠いところに行かなくちゃいけないの」
「っそんなのヤダよ・・・!お母さんと一緒がいい!」
「ごめんね。でも、駄目なの・・・。貴方の為なのよ、ナマエ」


 大人の事情だということがアリアの表情からひしひしと伝わってくる。しかしおいそれと素直に聞き入れられるほど、ナマエはまだ大人では無かった。


「お母さんのバカ!!」


 捨て台詞のように叫んで家を飛び出すと、ナマエはそのまま家からほど近い森の中に紛れ込む。長い冬が終わり、雪解けの春が来たかと思えば、すぐに夏に移り変わったところだった。蒸し暑い森の中では虫の大合唱が鳴り響く。雲ひとつない空から降り注ぐ太陽を浴びながら、ナマエはしばらく家には帰らないと決め込んだ。
 父親が迎えに来た時に家にいなければいいのだ。幸い森にはたまにしか使われていない小屋があるし、近くに小川も流れている。食事は森に自生しているフルーツや川魚でも取ればいい。今が夏で良かったと思いながら、ナマエは家主のいない小屋に転がり込んだ。

 気がつけばいつの間にか小屋で眠ってしまっていたらしい。寝ている間にすでに夜を迎えていたようで、小屋の中は暗闇に飲み込まれていた。慌てて戸棚をあさりマッチでランプに火を灯す。暖かい小さな光に少し気持ちを落ち着かせていれば、ナマエの腹からぐーっと大きな音が鳴り響いた。
 用意していたフルーツを晩飯変わりに貪る。全て平らげたあと、すぐ傍の小川で手でも洗おうかと外に出たとき、ナマエの鼻が煙たい匂いを嗅ぎ取った。ボヤか山火事か。煙が立ち上る方角を確認すれば、それは自分の村がある方向であった。何やら嫌な予感がする。ナマエは慌てて森の中を駆け抜け、自分の村がある方角へ急いだ。
 村はずれをにたどり着くと、母が不在の時によく世話になっている老夫婦の姿が見える。ナマエの姿を視界に入れるや否や、老婆はこちらに駆け寄り、ひしっとナマエを力強く抱きしめた。


「っぁあ・・!!良かった!あんた、外にいたんだね」


 涙を流す老婆の肩越しに見たもの。それは、ナマエの家が燃え盛る炎に包まれている情景であった。


「・・・お母さんは?」
「・・・一緒じゃないのかい?」
「私・・・一人で森にいて」


 元から少数しかいないうえに老人ばかりの村だ。まだ動ける数名が水を汲んで消火を試みているものの、それっぽちの水ではほとんど無意味な行為であろう。
 母が冬の間使っている犬ぞりの犬たちは避難させられているようで、火柱を上げ始めた炎に向かって興奮したように遠吠えをあげている。母の姿はどこにもない。本能的に悟ったナマエは、そのまま老婆の腕の中を飛び出した。


「ナマエ!!」
「待ちなさい!!」

 村人たちの静止の声を振り切り、ナマエは炎の中に飛び込んだ。
 肌を焦がすような熱と煙の中を走り抜ける。恐らく母はリビングか医療室にいるはずだと、ナマエは玄関からほど近い医療室の中を覗き込む。案の定、そこには地面にうつ伏せに転がるアリアの姿があった。


「お母さん!!」


 慌てて母に駆け寄れば、液体を踏む感覚を覚える。何かの薬品かと下を見れば、それは真っ赤な液体──血であった。アリアの腹部からとめどなく流れ出るそれは、止まることを知らない。
 震える己の身体を必死で抑えながら、ナマエは母の顔を覗き込んだ。かろうじて息がまだあるものの、呼吸はかなり浅い。「お母さん」「お母さん」と涙を流しながらナマエが譫言のように母の名前を呼べば、薄らとアリアの瞳が開いた。


「・・・ナマエ」
「お母さん!なんでっこんな・・・!早く逃げないと!」
「・・・ダメ、もうお母さん、動け・・・ないの・・・」
「・・・いっ嫌だよっ一緒に逃げようよ!お母さん!!」


 必死に腕を持ち上げ引きずろうとするものの、子供の力で大人を動かせるわけもなく、ただナマエは泣き叫ぶことしかできない。ふいにアリアの手がナマエの頬に触れ、そのまま振り絞るようにして娘の名を呼んだ。


「ごめん、ね・・・ナマエ。でも・・・それがお母さんの、っ・・・信念だったから。後悔は・・・ないの」
「っ・・・何を?どういうこと?」
「・・・あなたも、自分の守りたいものを・・・守ってね」


 途切れ途切れに伝えられた最後の言葉。安らかな笑みを浮かべると、するりとアリアの手が地面に落ちていった。

 ナマエの記憶が続いたのはそこまでだった──。次に目を覚ました時にはすでに革命軍に連れてこられており、目の前には写真でしか見たことがなかった父親の姿があった。当然、母の姿はそこにはない。
 父曰く、母は珀鉛病に関するレポートを制作しており、昔仕事をともにしていた有名なドクターに極秘に協力を得ていたらしい。しかしどこからか情報が漏れたのか、珀鉛病の実体を公表し、政府の存在を脅かそうとする行為を企んでいる反逆者だとCPに目をつけられてしまったのだ。そのためアリアはナマエを安全な場所──父親の元へ行かせ、自分も身を隠そうとしていた。が、しかしあと一歩遅く、母は世界政府の手によって消されてしまったのだ。
 幸いしたのは、何やら嫌な予感を覚え、約束の日より一日早く村にたどり着いた父親が火事の現場に居合わせたこと。そして炎に飛び込んだナマエを救い出し、今後血縁者として命を狙われないよう、村人たちに「この子も火災で死んだことにしてくれ」と伝えたことであった。そのためナマエはこうして今も生きて、ここにいることができている。


***


 そんなナマエの話を聞き、ローは思わず目を伏せた。己のせいで、大切な人の命をまた一つ奪ってしまっていたとは露知らず、彼の心には深い絶望感が広がる。
 母親の命を奪ってしまった理由の張本人が彼女に触れる資格はないと、ローはナマエと繋がっていた手をゆっくりと離した。しかし、それを反射的にナマエが掴み取る。思わず目を見開いてローがナマエを見れば、彼女はただ首をゆっくりと横に振った。


「・・・ローのせいじゃないよ」
「っ・・・」
「お母さんが死ぬ間際に言ってた言葉、今なら分かる気がするの。世界政府を敵に回すことは危ないことだって、お母さんもちゃんと分かってたはず。でも医者としての信念があるから、自分の命をかけてでもやり遂げたかったんだと思う。ローも、同じ医者として・・・分かるでしょ?」
「・・・あぁ」
「だからお願い。自分を責めないで」


 まっすぐに向けられたナマエの言葉を噛み締めながら、ローは「すまなかった」と小さく呟いた。科学者や医者の部類は飽くなき探究心持つ人間ばかりの集まりだ。己がその立場だったとしても、きっと、アリアと同じ行動を取ったであろう。


「・・・これを、お前に返しておく」


 そう言うとローはコートの間から例のレポートを取り出した。ナマエは彼からそれを受け取ると、ぱらりと紙をめくり中を一瞥する。
 くせのない整ったその字は紛うことなき母のものである。以前とは違いはっきりと記憶の中に蘇った母の存在を噛み締めながら、ナマエは思わずその字を撫ぜた。


「話にでてきたドクターにアリアさんが前もって送っていたらしい。珀鉛病に関するレポートの存在を数年前に風の噂で聞いて探していたら、そいつが後生大事に隠し持っていて・・・事情を説明して譲ってもらった」
「・・・譲ってもらったのは嘘でしょ」
「・・・少し強めにお願いしただけだ」
「ふふっ、それならいいけど」


 レポートから母の面影を感じたのか、薄らと涙を浮かべながら笑うナマエの手を再び取ると、ローは己の方に手繰り寄せる。


「レポートのことも、早くに言えなくてすまなかった。記憶に関わるもんだったから、下手に刺激していいかがすぐに判断できなかった」
「・・・ううん、大丈夫。むしろ探し出してくれて本当にありがとう」
「・・・無事にお前に渡せて良かった」
「うん・・・お母さんもきっと、喜んでる」


 頬を伝い落ちる涙を拭ってやれば、ナマエはようやく安心したように笑顔を浮かべた。


「あれからずっと革命軍にいたんだな」
「・・・黙っててごめんなさい。色々あって辞めた身なんだけど、なかなか言い出せなくて・・・」
「・・・いや。お前の素性が不確かな状況で船に乗せたのはおれだ、気にするな」


 散らばっていた点と点が、全て繋がったような感覚であった。海兵相手に臆することなく行動したことや的確に傷の処置をできること、そして寝言で革命軍参謀総長の名を呟いていたことなど。会っていない十三年のうちに彼女に何があったのか、聞きたいことは山ほどあるが、それはのちのちゆっくりと聞き出すとしよう。
 それはナマエも同じなのか、彼女は先程からそわそわと何かを聞きたげな様子を醸し出している。「何が聞きてェ?」とローが尋ねれば、ナマエは恐る恐る口を開いた。


「病気をどうやって直したのかっていうのと・・・コラさんのこと」
「・・・長くなるぞ」
「うん・・・聞かせて欲しい」
「・・・分かった。今夜、おれの部屋にこい」


 ほんの少しの時間でいい。今は彼女と再会できた喜びを噛み締めさせて欲しい。頭上を取り囲むステンドグラスの輝きを眺めながら、ローはナマエの存在を刻むようにその手を強く握りしめた。