Law route 05



 深いグリーンのソファーに並ぶ二つの影。マグカップの中のコーヒーが無くなった頃、ローの話が終わり、ナマエはようやく息をつけた気がした。

 記憶を取り戻したその日の晩、ナマエは約束通りローの部屋を訪れた。そこではローの口から様々なことが語られた。
 珀鉛病によって祖国を追われドフラミンゴの元に辿り着いたことや、コラソンとの別れを経てオペオペの実の力で珀鉛病を治療したこと。さらにハートの海賊団を結成するに至るまでの経緯に加え、これからローがやり遂げようとしていること。
 想像を絶する話に、ナマエは時折心臓を握りつぶされるような感覚に陥った。話を聞いているだけの自分ですらこんなに苦しいのだ。実際に体験したロー本人の当時の心境を思い、思わずじわりと滲み出た涙を誤魔化すように目を瞬かせていれば、伸びてきたローの指がナマエの頬に零れた雫をゆるりと擦った。


「相変わらずお前はすぐ泣くな」
「っごめん・・・泣きたいのは、ローなのに」
「・・・いい。少しでもコラさんのことを知っている人間にこうして話を共有できた事で、少し消化出来た気がする」


 ローはそう呟くと、薄らと笑みを浮かべた。
コラソンとの出来事とドフラミンゴとの確執。それらはハートの海賊団の立ち上げメンバーであるベポ、シャチ、ペンギンの三人にはある程度の概要のみ話しているそうだが、彼らを巻き込みたくないとのことで核心に触れる詳細は伏せているらしい。大切な仲間の命を私怨に巻き込むことを良しとしないローの想いが、その選択をさせたということは想像に難くなかった。
 今まで全てを一人で抱え込んできた彼は、いったいどれほどの悲しみの海に溺れてきたのだろう。怪我や病気とは違い、薬では治すことのできない傷だらけのローの心。それを少しでも癒してやりたいと、心の中にふつふつと湧き出てきた己の感情に、ナマエは思わずはっと小さく息を飲んだ。


「そういや、記憶が戻ってからは聞いてなかったな」
「え?」
「お前がここに残るか、残らないのかだ」


 ふいに注がれるローの視線を受け、ナマエは心に芽生え始めた感情に蓋をするかのように目線を泳がせる。正直なことを言えば、ナマエ自身、目まぐるしく変化する自分の中の感情に追いつけていない状態であった。
 自分は少なからずローにとって恩がある相手だからなのか、革命軍を辞めた理由も聞かず、ここに残ってもいいと示してくれる彼の優しさ。どちらにせよ、サボとのことを−・・・なぜ革命軍を去ったのか理由を告げなければ、全てを曝け出してくれたローに対して少しもフェアでないだろう。
 

「・・・ロー、あのね」
「なんだ」
「私も・・・貴方に話しておかないといけないことがあるの」


 意を決してナマエは面をあげると、ゆっくりと口を開いた。



Law route 05



 全てを話すことは、正直に言えば抵抗はあった。革命軍を去った理由は全部、自分の弱さをさらけ出す行為でしかないからだ。ぽつりぽつりと言葉を選びながら話すナマエに、ローはただ黙って腕組みをしたまま耳を傾けていた。
 もちろんサボの名前は出していない。幼い頃から共に革命軍で育った人物に恋心を抱き、父親を失ったことをきっかけに、相手の罪悪感に漬け込むような形でずるずると関係を持ってしまい、そして最後には相手のためだという名目を掲げ、捨てられる前に逃げ出した。そんなチープな愛憎劇のような内容を、ナマエはただただ語る。


「お母さんを亡くして革命軍に行った後、お父さんにずっと守ってもらってた。そしてお父さんが居なくなったら、次はその人に守ってもらって・・・。そうやってずっと甘えて生きてきたから・・・あんなことになっちゃったんだと思う。だから・・・私はもういい加減、自分の足で立って、一人で生きれるようにしなくちゃ駄目だって・・・そう思ってる。だから・・・」


 ここには残れない。残る資格がない。与えられるだけの優しさに甘えてしまっては、自分は本当に駄目な人間になってしまうから。
 ナマエはそう言葉を続けるつもりだった。しかし、鉛を飲んだかのように口が重くなり、声が出なかった。

 その理由など考えなくとも分かる。本音を言えば、本当はこのままここに残りたいのだ。ハートの海賊団の面々との充実した日々、そして他者に必要とされる喜び。そんな居心地の良い場所にこれからもいたいと思う自分と、またいつかそれらを自らの手で手放さなければならない時が来るかもしれないという恐怖心。それらが天秤にかけられ、ナマエの中でぐらぐらと揺れ動いていた。

 目を伏せて言い淀むナマエの様子を見かねてか、ずっと聞き役に徹していたローががさりと身を動かし、ソファーに深く座り直す。その音に釣られ、思わず我に返ったナマエがローの方を見やれば、彼の瞳がこちらを射抜くように向けられていた。


「誰かを頼って生きるってのは、悪いことなのか?」


 そうローはぼそりと言葉を漏らす。押し黙ったままのナマエの反応を伺うようにしながらも、ローは一拍置くと言葉を続けた。


「おれが今こうしてここにいれるのは、コラさんはもちろん、アリアさんと・・・そしてお前のおかげだと思ってる」
「・・・私?」
「ああ・・・あの時おれとコラさんを見つけてくれたのもお前だし、珀鉛病を理由に、酷い言葉をかけられて折れていたおれの心を何度も救ってくれたのもお前だ」
「・・・っ」
「他にもベポとシャチ、ペンギンを筆頭に船員たちのおかげで今のおれはここにいる。おれだって一人で生きてこれたわけじゃない。誰かに助けてもらって、誰かに頼って生きてきた。そんなおれをお前は弱いと思うか?」


 思いがけない問いかけに、ナマエはただ首をゆるゆると横に振った。
 ローが弱いだなんて、思ったことなど一度もなかった。仲間を守るために先頭に立つ背中はとても頼もしく、そして辛い過去があったにもかかわらず、常に前を向いて信念を持って生きている。そんな人を誰が弱いと言えるだろうか。


「誰かに与えてもらったのなら、相手に返すなり別の誰かに与えてやるなりすればいい。おれはあの時お前にもらったものを、お前に返したい」


 ふいに伸びてきたローの手がナマエの顔に触れた。無骨ながらも長い指先がゆるりと頬撫でる。揺らめく灰色の瞳から降り注ぐ想いに、ナマエは思わず息を飲んだ。


「・・・ここにいてもいい理由が欲しいなら、おれが作ってやる」
「・・・っ」
「おれにはお前が必要だ。一人で立てないのなら立てるようにちゃんと引っ張ってやる。だから、」


 「ここにいろ」と有無を言わさないような、けれど柔らかな声色に、ナマエはくしゃりと顔を歪ませる。次々と零れ落ちる涙を止める術など、今のナマエは持ち合わせていなかった。


「・・・ローは、ずるいよ」
「なにがだ」
「っ優し、すぎるよ」


 ナマエは思わず服の端をぎゅっと握りしめた。溢れる雫を拭うローの指先から、安心する温もりがじわじわと伝わってくる。


「・・・私も、貴方と・・・っみんなに、ちゃんと返せるかなぁ」


 ローやベポ、ペンギン、シャチ、イッカク。そしていつも笑顔を向けてくれる船員たち。ここにいてもいいと手を差し伸べてくれた人達に自分も何かを返せるような、そんな人になれるだろうか。
 答えの代わりに、ローはナマエを引き寄せるとそのまま強く抱き締める。その力強さはまるで、大丈夫だと答えをくれているようで−・・・。ナマエはただローの胸の中で、幼い子どものように大きな声をあげて泣きじゃくった。



***


「じゃあキャプテンの王下七武海入り、そしてナマエちゃんのハートの海賊団入団を祝してっカンパーイ!!!」


 高らかに掲げられるたくさんの杯。そして盛り上がる船員たちの声と熱気に、ナマエは眩しそうに目を瞬かせながら笑顔を零した。
 ナマエが記憶を取り戻してから三日後。ハートの海賊団一行は、海軍本部のあるニューマリンフォードにたどり着いていた。
 悪名高い海賊たちの心臓キューブ百個を手土産に、王下七武海入りを直談判したローの要求が認められ、無事に海軍本部へと入港することが許可されたポーラータング号。夕暮れの空の下で優雅に波間を泳ぐ黄色い潜水艦の甲板では、今まさに宴が始まったところであった。
 乾杯の挨拶が終わり、各々が飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎに興じ出した頃、ナマエはイッカクやハクガンたちと話に花を咲かせていた。


「ほんと〜〜にっ嬉しい!!ずっと女は私一人しかいなかったからさぁ!」


 酒を煽りながら、頬を赤く染めたイッカクが歓喜の声を上げる。ナマエがハートの海賊団に残ることを決め、海軍本部に到着する前にローから船員たちにそのことが伝えられた時、一番喜んでくれたのがイッカクだったのだ。
 嬉しさのあまりか、おいおいと泣き出した彼女を見た時は思わず驚いたが、どうやら何人かで前祝いと称して先にこっそり酒を飲んでいたらしい。酒を飲みすぎるとイッカクは泣き上戸になるらしく、ハクガンたちが慣れた様子で彼女を慰めていた。 


「ところでナマエ」
「なに?」
「キャプテンと付き合ったの?」


 豪華な料理に舌鼓をしていれば、ふいにイッカクからとんでもない言葉が飛び出してき、ナマエは思わず口の中のものを吹き出しそうになる。慌てて食べ物を飲み込めば、周りから何やらニヤニヤとした視線が送られてきていることに気がついた。


「・・・っな、んでそんな話になるの?」
「あれ?違うの?」
「えー!おれもそうだと思ってた!!」
「おれもおれも!ナマエちゃん、急にキャプテンのこと呼び捨てになってタメ口で話しだしたからさ〜」


 きっとローの事だ。二人の関係性など、きちんと船員たちに説明していないのだろう。どうやら色々とあらぬ誤解が生まれてきてしまっているらしい。
 本人に聞かれてはいないだろうかと、ナマエは慌てて離れた場所でベポたちと飲んでいるローの方へ目線を向けるが、幸い彼がこちらを気にしている素振りはない。胸をなでおろしつつもイッカクに続いてハクガンやウニたちも騒ぎ始めため、ナマエは慌てて首を横に振った。


「違うんです。その・・・私とローは小さい頃、ほんの少しの期間なんですけど、北の海で一緒に過ごしていたことがあって・・・」
「えー!!偉大なる航路で偶然再会したってこと!?」
「はい。十三年も前だったから、私ローのこと全然気づいてなくて今になって思い出した感じなんですけど・・・。だから付き合ったからフランクになったとか、そういう訳じゃないんです」


 ナマエの記憶障害のことは、ローを除けば恐らくベポたち旗揚げメンバーにしか伝わっていないだろう。そのためざっくりとした概要だけを話したがどうやら誤解は解けたようで、イッカクは「つまんないのォ」と口を尖らせた。


「絶対に付き合ってると思ってた!キャプテンってばナマエにだけ明らか甘いからさ」
「それは確かに〜!キャプテン、ナマエちゃんと話す時は優しい顔してんもんなァ」
「うんうん。ナマエちゃんが船に来てから女連れこんでねェし」
「そういや、だいぶ前に連れてきた女とかすっげぇ美人でみんな大騒ぎしてたもんな!」


 あれやこれやと好き勝手に飛び交う会話。ナマエは早くこの話題が終わるようにと、ただ愛想笑いを浮かべて聞き役に徹していたが、予想外に投げ込まれた情報に思わず心臓が飛び跳ねた。
 出会った当初とは違い、ローもいい大人だ。ナマエ自身もサボとそのような関係があったように、彼にも経験があって当たり前だし、あの容姿と実力があれば数えないくらいの女に言い寄られてきただろう。
 もくもくと湧き上がる邪念を打ち払うようにナマエは杯に注がれていたお酒を一気に煽ると、おもむろに立ち上がった。


「どしたの?」
「ちょっとお手洗い行ってきます」
「お〜行ってらしゃい」
「早く戻ってきてねー!」


 そう言うとナマエはイッカク達の輪から外れ、甲板からは死角になる場所にこっそりと逃げ込んだ。そしてそのまま一息つきながら、目の前のハンドレールに腕をのせる。おもむろに真下の海を覗き込めば、海軍本部を照らす灯が真っ黒な海に乱反射しており、まるで波間に星が煌めいているように見えた。
 海面から光が跳ね返ったのか、ふいにナマエの胸元できらりと何かが光を放つ。サボからもらった青い宝石のネックレス。三年近くほぼ毎日付けているからか、もう身体の一部のようになっている存在をこうして改めて意識したのは、ローと共に訪れた宝飾店で修理した日以来だろうか。

 ナマエはネックレスを外すと、輝くブルーサファイアを手のひらに乗せ、その宝石と同じ鮮やかな青がよく似合う男のことを思い出す。
 革命軍を飛び出してから四ヶ月。早いようで遅いようで、少しずつではあるが、サボに対する気持ちが雪解けのようにやんわりと解けていっていることを実感する。それもこれもきっと、ハートの海賊団での充実した日々のおかげである。そしてもう一つ。少しずつ芽生え始めている気持ちを噛み締めるように、ナマエは唇を噛むとそのままゆっくり目を伏せる。
 それと同時、「おい」と聞き慣れた声が背後から投げられ、ナマエは思わずネックレスを握りしめたまま振り返った。


「主役がこんなとこで何してんだ」
「・・・ローこそ」
「おれは、いつもの事だ」


 現れた声の主であるローはナマエの横に並ぶと、そのまま大きな背中を船のハンドレールに預ける。シャチやペンギンたちにたらふく酒を注がれていたのにも関わらず、ローの顔色は一つも変化がない。飄々とした様子でこちらを見る彼の目線が、自分の指先に注がれていることにナマエは気がついた。


「それ」
「・・・ネックレス?」
「ああ。・・・こないだの話に出てた男にもらったやつだったのか?」
「・・・うん」


 宝飾店で修理した帰り道の会話を、ローも覚えているのだろう。ナマエがゆっくりと首を縦に動かすと、ローはただ黙ったままきゅっと目を細める。
 そしてふいに大きな手がナマエの手を掴みあげると、そのままゆっくりと指先を解き、小さな手からそのネックレスを攫った。弾かれるように「あっ」と小さく声をもらしてナマエがローを見上げれば、彼はそのまま己の手を掲げ自身の能力を発動させる。
 瞬間、青い膜の出現とともにネックレスは忽然と姿を消し、代わりにローの手のひらには金色に輝くピアスが転がっていた。


「・・・あれはおれが預かっておく。代わりにこれでも付けとけ」


 そう言ってローはナマエの方に手を寄せると、ピアスを受け取るように促してくる。シンプルなゴールドのピアス。普段ローが付けているものよりかは少しばかり細身で華奢なデザインではあるが、見た感じはほぼ一緒であろう。
 突然の贈り物にナマエは困惑した表情でローを見れば、彼は少し不満そうな顔をしていた。


「・・・なんだ、気にいらねェのか?」
「ううん、そうじゃなくて・・・私、最近ピアスとか付けてなかったから、穴が閉じちゃってるかも、って」


 本当はそのような事を言いたかったわけではなかった。恐らくだが、特別扱いをされているという事実が、ただただナマエを混乱させる。
 ローは幼い頃の恩を返そうとしているだけで、決して他意はないはずだ。優しさに甘えて勘違いして、サボの時と同じ事になりたくない。ナマエはそう自分に言い聞かすことに必死であった。
 視線を泳がせながらぽつりと零すナマエの言葉を聞くと同時、ローの指先がこちらに伸びてきて、ゆっくりとナマエの髪の毛をかきあげる。そして弄ぶように耳たぶに軽く触れたかと思えば、そのまま器用にゴールドのピアスを取り付けた。その瞬間、全身がぶわりと身震いし、ナマエは小さく息を飲んだ。


「問題ねェな」
「・・・う、ん」
「ずっと付けとけよ。お前はもう・・・」
「あー!!キャプテンもナマエもこんなとこいたー!!」


 なんともいえない空気の中、ローの言葉が続いたのはそこまでであった。
 突然横から投げ込まれた声。ドスドスとした足音と共に白い巨体がこちらに飛び込んできたかと思えば、そのままナマエはひょいとベポの肩に担ぎ上げられた。


「おい、ベポ。まだ話が・・・」
「主役が何してんだよー!イッカクが『ナマエはどこー!?』って泣いてたぞ」
「えっ、嘘!ごめんね」
「ほら、キャプテンも!早く早く!」


 にこにこと楽しそうに笑うベポにローももはや何も言えないようで、彼ははぁと深くため息をつくと、先導するベポの後に続いて歩き出す。
 輪の中心に戻るや否や、主役二人を探していた船員たちは、囃し立てるように盛り上がり二人を並んで座らせた。
 溢れる笑顔。暖かな場所。そして自分を必要としてくれる人たちの存在。少しずつでいい、何かを返せるような人間になれるように、また一から歩み始めよう。
 横に並ぶローという大きな存在を胸に、ナマエは耳元で光るピアスにそう強く誓った。