Law route 08



 船まで送る−。二人して泣き腫らしたあとサボにそう言われ、ナマエは部屋に備え付けられている洗面台で赤くなった目元を冷やしていた。
 先程よりは少しばかりマシになっただろうか。きっと真っ赤な目で帰ればハートの仲間たちを心配させてしまうだろうし、早とちりしたベポあたりがまたサボを攻撃しかねない。最後に鏡で確認して洗面所の扉を開ければ、部屋ではサボが子電伝虫を使って誰かと通話をしているところであった。


「そうか。なら、おれも今からそっちに向かう」


 戻ってきたナマエに気がつくと、サボは口パクで「コ・ア・ラ」と受話器の向こう側にいる相手の名を告げてくる。きっとまだこの場にナマエがいることを伝えていないのだろう。彼女が知ってしまえば恐らく任務の話がまともにできなくなる。邪魔をしないようにナマエはベッドの縁に腰かけて、サボのことを待つことにした。
 開け放たれた窓から見える太陽は既に真上を通り過ぎており、恐らく時刻は午後二時頃だろう。そんな事を考えていれば、ふいに腰元の服のポケットからチリチリと何か熱を感じた。
 確かローのビブルカードを入れた小さな巾着をしまっていた場所だ。慌てて袋を取り出し中を開けると、真っ白だったはずのビブルカードは縁が焦げたように黒くなっており、白い部分が黒にどんどん侵食されていく様子が視界に映った。


「・・・うそっ」


 ばくばくと高鳴る心臓。ナマエは思わず息を飲み、その紙がこれ以上燃えないようにとただ必死に握りしめた。命の紙と呼ばれるそれが燃えるということは、その者の──ローの命が危機に瀕していること。もちろん今己がしている行為が無意味なものだということは百も承知だった。けれどただ黙ってビブルカードが燃えていく様子を傍観することなど、今のナマエには到底できなかった。


「−っナマエ!!」


 ふいにサボに手を掴み挙げられ、拍子にナマエはビブルカードを手放した。ヒラヒラと舞うそれはそのまま地面に落ちると、ローのいる方角へゆっくりと動き出す。果たして彼はまだパンクハザードにいるのか、それとももうドレスローザにたどり着いているのか。
 じわじわと黒に染まっていく紙を呆然と見つめるナマエを見かねて、サボは慌てて洗面所に走っていく。こちらに駆けつけた時に落としたのか子電伝虫が床に転がっており、そこからは『サボくん!?ナマエってどういうこと!?』とコアラの金切り声が鳴り響いていた。


『もしかしてナマエを見つけたの!?ねぇ、サボくんてば!!』
「・・・」
『この要件人間!!ナマエに会えたなら、引きずってでも一緒にドレスローザに連れてきてよね!!』


 ドレスローザ。かのドフラミンゴが治める土地で、革命軍も何か動いているのか。
 濡らしたタオルを持って戻ってきたサボは、険しい顔のままナマエの右の掌にそれをあてる。燃えかけた紙を握りしめたことで軽く火傷をしてしまったらしく、タオルが触れた部分にじんじんとした痛みが広がっていくことで、ようやくナマエはその事実に気がついた。


「っごめ、ん・・・サボ」
「・・・少し冷やしとけ」


 サボはそう言うとナマエの手をやんわりと撫で、そのまま床に転がった子電伝虫を拾い上げると「悪い、またかけ直す」と一方的に告げてそのまま通話を切る。
 そして独りでに窓際に向かっていくビブルカードをつまみ上げると、サボはそれをナマエの前に持ってきてくれた。


「燻ってるだけで完全には燃えてねェ。まだ大丈夫だ」
「・・・うん」
「このビブルカード・・・。さっき言ってた奴のか?」


 サボの言葉にナマエは弱々しく首を縦に振る。彼の言うとおりローのビブルカードはまだ完全には燃えてはいないものの、蝕むような黒い侵食は未だに止まらない。今まさにローの命が削られているという事実がありありと示されていることに、ナマエはただ生きた心地がしなかった。


「そいつはお前が今から戻る船にいるのか?」
「ううん、一人だけ別行動でパンクハザードにいて・・・。もしかしたら、もうドレスローザに移動してるかもなんだけど」
「パンクハザードに?世界政府直轄の島じゃねェか。海賊がそう簡単に出入りできる場所じゃ・・・ってそうか、そのための王下七武海入りか・・・」


 そこまで言って、サボははっと目を見開くと言葉を切った。勘のいい彼のことだ。話の流れできっとこのビブルカードの主が誰かということに気がついたのだろう。
 サボは少し目線を伏せると思案するように口元を片手で覆い、しばらく口を閉ざす。そして再び面をあげると、ナマエを正面からまっすぐに見据えた。


「ある件でコアラとハックが先行して情報収集をしてて、おれも今からドレスローザで合流する予定なんだ。パンクハザードはさすがに無理だが、ドレスローザになら一緒に連れてってやれる」
「っ・・・ほんとに?」
「ああ・・・ただ、こっちの任務は恐らく大規模な戦闘になる。そっちはそっちで、船長が仲間を連れずに単身で何かしようとしてるんだろ?そこにお前が乗り込んでいくのは多分、そいつの本意じゃねェはずだ」


 全くもってサボの言う通りである。仲間を巻き込まないよう、単身で過去にけりを付けに行ったロー。今なお負傷をしている最中であろう彼の元に今すぐ駆けつけたいという気持ちがありつつも、行ったところで戦闘もできない自分では足でまといにしかならないのは明白で。さらには、ローとは彼の帰る場所を皆と守っておくと約束したのだ。約束を反故することになるうえに、おいそれと自分が駆けつけていい状況ではないということは、ナマエ自身が一番理解していた。
 図星をつかれたような言葉にナマエが思わず目線を下げて下唇を噛めば、ふいにサボの両手がこちらに伸びてき、そのまま勢いよくナマエの両頬を挟んだ。ぺちんと軽い音と共に感じた少しばかりの痛みに、ナマエは目を見開いて目の前のサボを見上げた。


「・・・サボ?」
「なぁ、ナマエ。・・・あとから後悔するような選択だけはするなよ」
「・・・っ」
「おれは・・・エースが危機に陥っている時、記憶を失っていたとはいえ、あいつの元に駆けつけてやれなかったことを死ぬほど後悔した」


 サボの言葉に、ナマエは二年前の記憶を掘り起こす。忘れるわけがない。サボが白ひげ海賊団の火拳のエースの処刑の記事を読み、記憶を取り戻したことによって、大切な義兄弟を救えなった事実に直面し後悔していたことを。
 きっと自分もこのままローと死に別れるようなことがあれば一生後悔するだろう。なぜあの時助けに行かなかったのだろう、なぜ無理にでも傍にいる選択肢をしなかったのだろうと。

 母と父を喪った時もそうであった。もし喧嘩をして家を飛び出していなければ、母のことを助けるチャンスが少しでもあったかもしれない。もし任務に同行していたら、自らの手で父を救う手立てがあったかもしれない。もしやたらればなど、事実とは異なることを仮定して後悔しているだけの自己満足の世界だということは分かっている。
 けれど、不可抗力で何も出来なかった父と母の時とは違い、今は目の前に自ら選ぶことのできる選択肢があるのだ。選びたかった道を選ばずに後悔するよりは、選んで後悔したほうが何百倍もマシである。
 零さないように目に溜めていた涙を自らの手で拭うと、ナマエは眼前にあるサボの目をしっかりと見つめ、そのままゆっくりと口を開いた。


「サボ、お願い。私をドレスローザに連れて行って」



***



 ホテルを後にした二人は、そのまま共にポーラータング号に帰還した。
 思いもよらぬ革命軍NO,2の登場に最初は警戒心を丸出しにしていた船員たちであったが、ナマエが革命軍にいた過去を知るシャチたちが間に入ることによって、サボも船内に足を踏み入れることが許可された。


「それで・・・ナマエちゃんが今からキャプテンのとこに行くって?」


 淡々と降ってくるペンギンの声に、ナマエは目線を下げながら、端が黒焦げたビブルカードを指先で強く握った。つい先程までチリチリと熱を発していたそれがぴたりと動きを止めたのは、ちょうど船についた頃合だったろうか。当初より半分ほどの大きさになってしまった白い紙きれに、目深くかぶった帽子の隙間からペンギンの視線が注がれる。
 船に戻ってすぐにローのビブルカードを見せ、彼の元に行きたいと涙を堪えながら伝えたナマエに、船員たちは皆口を閉ざした。彼らだって駆けつけたいのは山々だろう。けれど自分を含め、船員である彼らからすればキャプテンの命令は絶対で、ローが生きて帰るのを信じてゾウで待つことが正しき選択なのは理解していた。
 このような時に忖度無しに冷静に意見を述べることができるのはペンギンだ。同じく旗揚げメンバーであるシャチとベポはどうしたって優しさが先行してしまい、強く出れない質である。そういう部分では、ローとペンギンは似てるといえるだろう。
 恐らく行くなと止められる。そう思い、どうやってペンギンを説得しようかとナマエが思案していれば、ふいに彼の口からはぁと重いため息が溢れた。


「一人で行くとか言うなら意地でも止めようと思ったけど、革命軍NO,2様の護衛付きときたか・・・。なぁアンタ、ほんとにナマエちゃんを必ず守ってくれるんだよな?」
「ああ、もちろんだ。おれか革命軍幹部が必ず側にいる。それに島にいること自体が危険だと判断したら、すぐに外に逃す。こちとらナマエとは十年以上の付き合いなんだ。それを担保に信用してくれ」


 淡々と、けれども精悍な顔つきで答えるサボに、ペンギンとシャチそしてベポは互いに目を合わせ小さく頷く。それを合図にしたかのように、シャチが腰を下ろしていた椅子の足元から何かを取り出した。
 アイボリーの帆布生地に小さくハートの海賊団の海賊旗が刺繍されたショルダーバッグ。確か以前シャチに制作を依頼していたものだとナマエが目を瞬かせていれば、シャチは口角をあげてそれをこちらに差し出した。


「薬とか包帯とか必要なものは全部入る大きさにしといたからな。ほら、ここにハートの刺繍もちゃんと入ってんだろ?きっとこれならキャプテンに怒られないはずだから、傷の手当てする時にでも見せびらかしてやってよ」


 バッグを受け取りながらナマエが思わず言葉を詰まらせていれば、次はベポが懐から白い紙を取り出した。無造作に千切られた手のひらサイズのそれは、恐らくビブルカードで、ベポはしっかりとナマエの手に紙を握らせると、その上からふわふわとした手のひらでぎゅっと包み込んだ。


「おれのビブルカードだよ。キャプテンにも渡してるけど、もしかしたら戦闘の最中にうっかり落としちまったりしてるかもしれねェからさ。予備でナマエも持っておいて。これがあれば絶対にゾウにたどりつけるから」


 堰き止めていたものが溢れ出し、ナマエは涙をこぼしながらただ必死に頷く。そんなナマエの両肩に、ポンっとシャチとペンギンの大きな手が乗った。


「ほんと頼むわ。あの人すぐ無茶するし自分のことぞんざいに扱うだろ?でもナマエちゃんが傍にいたら、死にかけてたとしても意地でも生きようとしてくれると思うんだ」
「おれらだってみんな今すぐキャプテンの元に駆けつけたいけどな・・・。でも、死ぬ覚悟のあの人を無理にでも連れて帰ってこれるのは、ナマエちゃんだけだと思うから」 


 ローの口から詳しくは語られていないが、彼らも今回、ローが死を覚悟して戦いに挑んでいることを感じていたのだろう。温もりからひしひしと伝わる強い思いにナマエは涙を取り払い、そのまま自分を取り囲む三人の目をしっかりと見渡した。


「必ずローと一緒に、みんなの元に帰ってきます」


 託された思いを胸にナマエがそう告げれば、三人は力強く頷いた。
 それから救護用具をシャチからもらったバッグに詰め、身支度を済ませたナマエは一人甲板で待っていたサボの元に駆け寄る。


「パンクハザードからドレスローザまでは船だと半日ほどかかるだろ。こっちは空路だから、先にむこうが移動してたとしてもおれたちの方が早くドレスローザに着けるはずだ」


 そう告げるとサボは空に向かって合図をする。しばらくしてどこからともなく集まってきた黒い塊が船に向かって飛んできたかと思えば、たくさんのカラスの群れが船の上空を旋回しだした。
 サボや幹部が良く使う移動手段の一つで、人間をも容易く運んでしまう烏たちのスピードは船よりも遥かに速い。翼をはためかせながら自分の肩に降りてきた一羽のカラスを撫でながら、ナマエは「ごめんなさい」とぽつりと呟いた。その言葉を受けて、サボはただきょとんと目を丸める。


「なにがだ?」
「私、またサボに甘えて助けて貰ってばっかりで・・・」


 ドレスローザに着いても恐らく守ってもらうことになるのは目に見えている。そして何よりも背に腹はかえられぬとはいえ、ローといることを選んだ自分が、厚かましくもサボの手を借りていいのだろうかという葛藤がナマエの中で渦巻いていた。
 そんな気持ちを汲み取ったのか、サボは呆れたように肩を竦めるとナマエの方に近寄ってきたかと思えば、そのままナマエの額をその長い指で弾いた。


「ほら、また相手のことばっかで自分の気持ちを二の次にする。悪い癖だぞ・・・っておれも人のこと言えねェけど」
「・・・っでも、」
「あのなぁ、おれが振られたからもうお前なんて知らねェってへそ曲げるような男に見えるか?」
「・・・ううん」
「だろ?おれはな、何よりナマエに幸せになって欲しいんだよ。そのためならいつだって助けてやる」
「っ、でも・・・私だけサボに貰ってばかりだよ」


 幼い頃から革命軍を去るまで、彼から貰ったものは数知れない。それを一つも返せないままの自分の不甲斐なさにナマエが思わず苦しげに声を漏らせば、サボはゆるゆるとかぶりを振った。


「おれもお前からたくさんのものを貰ったよ。・・・もしかしたら、お前は覚えてないかもしれねェけど」


 ぽつりと呟かれたサボの言葉。覚えていないとはどういうことか。そう問いかけたかったものの、サボははぐらかすように「そろそろ行くか」と口元を緩めながら手元で遊ばせていたシルクハットを深く被り直した。
 それと同時、後ろから自分の名を呼ぶ声がする。ナマエが後ろを振り返れば、そこには見送りに集まってきたハートの海賊団の仲間たちの姿があった。



「ナマエっ・・・気をつけて!無茶しないでよ!」
「キャプテンのこと頼んだぞー!!」
「二人のことゾウで待ってるからなァ!」



 贈られる数々の言葉を胸に刻み、ナマエは仲間の印の入ったバッグを握りしめると力強く片手を空に掲げた。


「行ってきます!」


 たくさんの愛と優しさを与えてくれた彼を、必ずこの温かな場所に連れ帰る──そう決意をこめて。