Sabo route 01



 最後の心臓キューブを手に入れる戦いは海上戦となった。いつものようにローが先頭に立って相手を圧倒し、さらにシャチやペンギンが海中から攻撃を加える戦法は一気に敵を撹乱したようで、あっという間に勝負がついた。途中敵の船の火薬庫に引火したことで小規模な爆発が起きたが、ポーラータング号に被害が及ばなかったのは幸いだったろう。

 戦利品の押収のために船同士を繋いでいた縄ばしごが外され、敵船はゆっくりとこちらから距離をあけていく。パチパチという音とともに煙が昇り出した敵船を視界にいれないよう注意しながら、ナマエは甲板の隅で負傷した者たちの手当てをしていた。
 今回大きな怪我をしたメンバーは誰もおらず、簡単な擦り傷程度の処置で済んだ。敵もほとんどが最初のローの攻撃で海に投げ出され、近くの島に泳いで逃げていったため、この分だと助ける必要もないだろう。
 最後の患者であったジャンバールの切り傷の消毒が済み、ナマエは広げていた医療道具の片付けを始める。「疲れた」やら「シャワー浴びて飯食おうぜ」やらと、続々と船内に戻っていこうとするハートの海賊団のメンバーたちの会話の中に、ふいに何か甲高い音が混じったのをナマエの耳が捉えた。

 思わず立ち上がり、その音に意識を集中させる。一拍置いて再び聞こえてきた音に、ナマエはハッと息を飲んだ。
 恐らく子どもの泣き声。島からは少し距離があるし、ポーラータング号には子どもは乗っていない。となれば答えは一つであろう。急いで敵船に顔を向ければ、パチパチと火の粉を飛ばして燃え盛り出した炎が視界に入る。その瞬間、己の心音がどくんと跳ね上がり、一気に血の気が引いていくのが分かった。荒くなる呼吸を必死で抑えながら目をこらせば、一瞬煙の中に小さな人影が見えた。


「ナマエ?どうしたんだ」
「っ、行かなきゃ・・・!」
「おいっ待て!」


 気がつけば身体が勝手に動いていた。慌てて静止するジャンバールの声を振り切って、ナマエは走り出す。少し距離があるがまだ間に合う。ナマエは助走を付け渾身の力で船の縁を蹴り上げると、そのまま敵船に何とか飛び移った。
 途端に灰色の煙が視界を覆い隠し、前が見えなくなる。口元を手で抑えながら手探りで先程影が見えた場所にたどり着けば、予想通り甲板で倒れている幼い子どもの姿があった。足に鎖が付けられている姿を見るに、奴隷として扱われていたか、はたまた誘拐されてどこかに売りに出されるところだったのだろう。意識は無いもののかろうじて息はあるようだった。
 くらくらし出した身体に鞭を打ち、幼い身体を抱きかかえると、ナマエはすぐに踵を返す。まだポーラータング号とはそこまで距離が空いていないはずだ。己の行動を見て、きっとジャンバールが船長室に戻っていたローを呼びに行ってくれているだろう。一縷の望みを託して煙の中を走り抜ければ、背後で大きな爆発音が鳴り響く。あっと思った瞬間には、ナマエはそのまま爆風によって船外に放り出されていた。

 浮遊感とともに視界が180度ひっくり返り、青々とした海の色だけが目に映る。何とか守らなければと、ナマエは子どもの頭を抱えるようにして抱きしめた。そのままざぶんと頭から勢いよく海に入水すると、真っ赤な炎から一変して真っ青な水が身体を包み込む。
 必死でもがいて海面に上がろうとするも、服がまとわりついて身体が上手く動かない。もがく度にぶくぶくと沸き立つ細かな泡の向こう側に現れた二つの影。その姿がシャチとペンギンのものだと理解した時には、二人はすでにこちらにたどり着き、ナマエと子どもの腕を掴んでいた。
 助かったという安堵感とトラウマによる過呼吸を我慢した代償が現れたのだろう。思わず海水を飲み込んでしまい、ナマエは薄れる意識の中、己の脳内で何かが煌めいたのを感じた。



Sabo route 01



 「おれ、サボって言うんだ!お前エルマーさんの娘なんだろ?よろしくな!」


 ふいに目の現れた短い金髪の少年に、ナマエは警戒心を丸出しにして距離を取った。けれども彼はひとつも意に介していないようで、にししと歯抜けの笑顔を見せたまま近寄ってくる。
 確か先日、自分と同い年くらいの子どもをドラゴンが拾ってきたという話を風の噂で聞いていた。革命軍にはたまにこうして戦争孤児が紛れ込む。けれどそれは一時保護だけのもので、しばらくすれば孤児院に入れられたり、里子に出される者がほとんどだった。そのため本部に常在している子どもいえば、半年ほど前に母親を亡くして父親に引き取られ革命軍にやってきたナマエくらいしかいない。


「名前、ナマエって言うんだろ?」
「・・・」
「おれ、革命軍に入ることになったんだ!よろしくな!」


 悪政や圧政に苦しみ、世界政府に虐げられる人々を救うために戦うヒーローたち。何も知らない人達には、革命軍の姿はそう映っているのだろう。
 母を助けてくれなかった父の姿が脳内にチラつき、ナマエは唇を噛むと目の前の少年を睨みつけた。


「私はただここに住んでるだけ。革命軍のメンバーじゃないし、革命軍に入るつもりなんてないから」


 吐き捨てるようにそう告げると、ぽかんと口を開けたままの少年を置いてナマエは走り出した。抱えていた薬草の本を落とさないようにぎゅっと握りしめ、自然と零れてきた涙を拭う。
 母が亡くなった経緯は、記憶からさっぱり抜け落ちていた。気がつけば北の海から革命軍に連れてこられており、久方ぶりに再会した父から母が死んだことを告げられたのだ。革命軍の医師であるマコモの診察によれば、母を喪失したショックによって記憶の健忘が起きたのだろうという診断であった。
 さらには記憶の欠損は今も尚続いている。母の死を目の当たりにした日からぐらぐらと綱渡りをしているように心が安定せず、日常的でないセンセーショナルな出来事の記憶がほとんど定着しなくなってしまったのだ。
 どうせあの少年の事も明日になれば忘れているだろうし、彼も今日の自分の態度に腹を立てて今後は気安く近づいてこないだろう。
 もう誰も大切な人は作りたくない。記憶になくとも、失う怖さを心の奥底で覚えてしまっているから。

 しかしそんな考え虚しく、次の日食堂で昼食を摂っていれば少年がナマエの前に再び現れた。もちろんナマエの記憶に彼は残っていない。にこにこと人懐っこい笑顔でナマエの前の席に座ると、少年は手を合わせて「いただきます!」と行儀よくナイフとフォークを手に取った。


「あっ、おれサボ。昨日お前に挨拶したんだけど、忘れてると思うから一応言っとくな」
「・・・」
「エルマーさんに聞いたんだけど、記憶がなかなか定着しない病気?になっちまったんだってな。大変だな、困ったら助けてやるから何でも言えよ」


 本当によく回る口だ。勢いよく食事をかき込みながらも少年はナマエの方へ言葉を投げかける。昨日も会話を交わした様であったが生憎覚えていない。さらには記憶にないと言えどもこちらの態度は一貫して変わらない。
 食事の乗ったままのトレイを手に掴むと、ナマエはおもむろに席から立ち上がった。


「あれ、もう食わねェの?」
「・・・私に関わらないで」


 そう言い放った次の日の朝。ナマエの部屋の扉には「サボだ!よろしく!」という貼り紙とともに、少年の顔写真が切り抜かれて貼られていた。
 そこから彼はしつこかった。毎日ナマエの前に現れては、へこたれることなく声をかけ絡んでくる。扉への貼り紙も毎日のルーティーンのように行われ、ナマエがそれを剥がして丸めてゴミ箱に捨てるのも同じく日課となっていた。
 しかしながら同じ行動が一ヶ月も続けば、もはやセンセーショナルな出来事ではなくなったのだろう。気がつけば少年の顔と名前は自然とナマエの中に定着した。不思議なもので、さらに一ヶ月経つ頃にはナマエの中で少しずつ壁が取り払われ、ささやかではあるが彼──サボとコミニュケーションを取るようにまでなっていた。


「なぁ、ナマエ。怪我したから手当てしてくれ!」
「・・・マコモじいちゃんのとこに行ったらいいじゃん」
「やだよ!あのじいさん当たり強いんだもん!こないだなんて、麻酔無しで縫われそうになったんだぞ!」


 化粧直しに勤しんでいるイワンコフの横でナマエが医学書を読みふけっていれば、ふいにサボが駆け寄ってくる。イナズマあたりに稽古をつけてもらっていたのだろうか。彼は竹刀を腰に携え、擦り傷だらけの左肘をナマエの前に突き出してきた。
 ご丁寧にも救急用具の入った箱を持参してきており、ナマエは渋々本を閉じるとサボに向き直って怪我の具合を観察する。


「あらサボ、ヴァナータもうナマエに覚えてもらえたの?早かったわね」
「そうなんだよ!すげェだろ!」
「粘り勝ちね。ヴァターシそういう男は嫌いじゃないわよ」


 頭上で交わされる二人の会話を右から左に聞き流しながらも、ナマエはサボの傷の手当てを施していく。朧気に母もこうやって怪我人の手当てをしていたという記憶が蘇り、少しナマエの心が軋んだ。
 そんなナマエの様子に気づいていないサボは、丁寧に貼られた絆創膏を見て、まるで太陽のように眩しい笑顔を浮かべる。


「流石だな!ありがとうナマエ!」


 手をぶんぶん振って再び稽古場に戻っていくサボの姿を見送って、ナマエは小さくため息をつく。ふいに横からイワンコフの手が伸びてきて、ぽんぽんとナマエの頭を優しく撫ぜた。


「トゲトゲしたはりねずみガールはヴァターシの好みだけど、優しくて素直な貴方も素敵だと思うわ」
「イワさん・・・」
「無理しなくていいのよ。少しずつ取り戻していけばいい。回り道も案外乙なもんよ」


 見た目とは相反して繊細な心を持つ彼──否、彼女はそう言ってウインクを飛ばしてくる。
 気がつけばナマエが革命軍に来てから、すでに季節が三つほど過ぎていた。白い土に覆われ草木が少ないこの土地では四季が感じずらいが、風の匂いから夏の訪れまであと少しだろう。
 自分もいつまでも子どもではいられない。ゆっくりでもいい。色々なものにきちんと向き合っていかなければと、かけられた優しい言葉を噛み締めながら、ナマエはただ小さく頷いた。



***



「またしばらく任務で帰って来れない。皆の言うことをよく聞くようにな」
「・・・はい」


 エルマーの言葉を受けて、ナマエは船に乗り込む父親の姿を見送る。必要最低限の会話はするものの、ナマエとエルマーは親子らしい関係性を築けないまま、季節は更に二つ巡っていた。
 木枯らしが吹き荒れる中、カーディガンを羽織ったナマエは定期検診を受けるために医務室に向かう。遠慮がちにドアをノックすれば「入れェ」としわがれた声がし、同時に「いだー!!」と甲高い絶叫が響き渡った。


「男じゃろ!我慢せい!!」
「乱暴なんだよじいさん!もっと優しくしてくれよ!」


 扉を開ければ医務室のベッドに横たわるサボの横で、革命軍の医師であるマコモが彼に目くじらをたてていた。恐らく点滴を行っていたのだろう。腕にカテーテルを刺されたサボは、涙目になりながらマコモを睨みつけている。


「大人しゅうせんからじゃ!稽古のし過ぎでぶっ倒れる奴なんて聞いたことないわ」
「だってよぉ・・・」
「わしは便所に行くけぇ、動くんじゃなか!ナマエ、戻ってきたら診察するからそれまでこいつが勝手に抜け出さんか見張っとけ!」


 ぶつくさと文句を零しながら片付けを済ますと、マコモはナマエに声をかけて部屋を出ていった。不貞腐れたようにベッドに寝転がるサボをよく見れば、至る所が擦り傷だらけで右頬には青タンまでできている。
 また幹部の誰かに稽古をつけてもらっていたのだろうか。先日も中庭で父とサボが竹刀で対峙している様子を見かけていたナマエはちらりと彼を一瞥した後、ベッドの近くに置かれた丸椅子に大人しく腰掛けた。


「エルマーさんとイワさんたちの船、もう出ていったのか?」
「うん、ついさっき」
「はぁ〜おれも連れてって欲しかったなぁ任務!」


 いくら実力があったとしても、任務には十五を過ぎないと連れていかないと言われているらしい。早くてもあと五年はあるにもかかわらずぼやき声を出すサボの様子に、ナマエは思わず首を傾けた。


「なんでそんなに革命軍として働きたいの?」
「え?」
「怖くないの?」


 父だってそうだ。なぜ赤の他人のために、あんなに必死になれるのだろう。どうして傷ついたりしんどい思いをしてまで、正義の味方であろうとするのだろうか。
 ナマエの問いにサボは大きな目をぱちくりと見開いた後、ナマエと同じように首を傾け小難しそうな表情を浮かべた。


「怖いに決まってんじゃねェか。でも自由を手に入れるためには、ただ燻ってるだけじゃ何も変わんねェだろ。前を向いて自分で行動しなきゃ」
「・・・そう、だけど。それなら自分のためになることだけすればいいじゃん・・・。なんで人のために、自分を犠牲してまで戦うんだろうって思って・・・」
「うーん・・・。じゃあさ、ナマエは何のためにずっと薬学の勉強してるんだ?家族とか友達が病気で助けたいからって訳じゃねェだろ?」


 問い返してくるサボの真っ直ぐな視線に、一瞬ナマエはたじろぐ。が、浮かび上がってきた答えはひとつしかなかった。


「・・・病気や怪我で苦しむ人たちを助けて、その人たちに笑顔を取り戻して欲しいから」


 ぎゅっとスカートの裾を掴みながら、ナマエははっきりとした口調で告げる。
 医師として働いていた母はどれだけ大変で忙しくても、人々が助けを求める場所にすぐに駆けつけていた。絶望の表情を浮かべていた患者たちは、病気や怪我が和らいだり治った後は自然とみんな笑顔になっていく。それはまるで魔法のようで、たくさんの人に感謝される母はとても幸せそうだった。
 そんな姿に憧れを抱き、あんな風になりたいと幼い頃から勉強に励んでいたのだ。その想いは今も尚、変わることは無い。
 ナマエの答えに、サボはニッと満足そうに笑った。革命軍にきたばかりの頃に抜け落ちていた歯はすでに永久歯が生えており、短かった髪の毛も無造作に伸びてきている。短い時は気が付かなかったが、どうやら彼は少し癖毛らしい。金色のウェーブががった髪をゆらしたサボの表情は、少しばかり大人びて見えた。


「おれも一緒だよ。自分のために戦うのは当たり前だけど、おれ一人だけ幸せになっても意味がないだろ。みんなが笑顔で暮らせる世を作らなきゃ。じゃなきゃ、おれも心から笑えねェ」


 すとんと、ナマエの心の中にサボの言葉が降りてくる。その想いは、革命軍の皆も──そして父も同じなのかもしれない。
 何とも言えない感情が己の中で渦巻く中、医務室の扉が開きマコモが戻ってきた。彼はちらりとこちらを一瞥すると、聴診器を手にしながら「診察するから来い」とナマエに告げてパーテーションの奥に消えていく。
 慌ててついて行こうと椅子から立ち上がったナマエの腕を、ふいにサボが掴んだ。


「・・・なに?」
「たまには真正面からぶつかってみてもいいんじゃないか?」
「・・・」
「案外いい事あるかもしんねェぞ」


 告げられた言葉。そのままほころぶように笑うサボの手がするりと解かれた。
 ばくばくと鳴り出す心臓の音を飲み込みながら、ナマエはマコモの元へとゆっくりと歩き出す。
 以前の自分なら、これでいいやとただひたすら自分が傷つかないように殻に籠っていただろう。けれどいつまでもそうしてはいられない。やりたいことや夢があるならば、きちんと前に進まなければ。このままぐずぐずと腐ってなどいられない。
 汗ばむ手を握りしめながら、ナマエはパーテーションの奥で、机に向かってカルテを広げていたマコモに向かって恐る恐る口を開いた。


「あのっ・・・マコモ、じいちゃん」
「なんじゃあ」
「私・・・っ、薬草とか、薬のこととかもっとちゃんと勉強したくて・・・だからっその」
「・・・」
「私に、色々と教えてください」

 
 鳴り止まない心臓が、緊張のあまり口から飛び出てきそうであった。しんっと静まり返った部屋で、マコモがガリガリと羽根ペンを動かす音だけがやけに耳につき、ナマエは小さく息を飲む。それが数秒続いた後、彼の手がようやく止まったかと思えば、ビリッと何かを引き千切る音がした。


「明日から毎朝医務室に来んしゃい。手が空いた時に教えるけん。雑用も手伝えよ」


 振り返ったマコモから差し出された小さな紙切れを受け取る。『毎日十時、医務室、薬学勉強』と癖のある字で単語が羅列されたそれを握ると、ナマエは「お願いします」と勢いよく頭を下げた。
 恐らくこの出来事も明日になれば記憶から綺麗に抜け落ちてしまうだろう。けれど以前とは違い、それに憂鬱感や恐怖を覚えることはなかった。
 それはきっと、己の手が大事に握りしめている紙切れと、飽きることなく隣に立って、優しく背中を押してくれた人の存在があったからだろう──。
 記憶の箱の奥底にしまわれていたこの出来事は、その後のナマエの人生を組み立てた大切なピースの一つとなった。