Sabo route 03



 革命軍に入団してから、ナマエは濃密な日々を送っていた。マコモの元で働きながら勉学に励み、休みの日はサボや新たに加わったコアラとともにたわいもない遊びをして楽しみ、夜は父と家族としての大切な時間を過ごす。そんな穏やかな時を過ごしていれば、あっという間に月日が経っていた。
 そして十五の時、初めて任務に帯同を許可されたことで、ナマエは世界の現状を目の当たりにすることとなる。悪政や圧政により病気や怪我で苦しんでいる人がたくさんいるという事実が、勉学への意欲をさらに駆り立てたことは言うまでもない。
 十八になって、看護の知識を蓄え薬剤師免許を取得すると、マコモの右腕として任務に赴くことも多くなった。そしてその傍らには、同じく飛躍的に成長を遂げ、革命軍で五本の指に入る実力者とも言われるようになったサボの姿があった。


「ナマエ、サボがどこにいるか知らないかい?」
「しーっ。サボならここにいるよ」


 空が茜色に染まる夕暮れ。緩やかに波間を進む革命軍の船の医務室を覗いた父・エルマーに、ナマエは人差し指をたてて声を潜める。
 ナマエが目配せしたその先には、壁際に置かれた二人がけのソファーの上で、水色のブランケットをまとって丸くなるサボの姿があった。スースーと規則正しく寝息をたてる様子を見て、エルマーは柔らかい笑みを浮かべると、デスクで作業をしていたナマエの元に歩を進める。


「さきほど見張り番の者からサボが戻ってきたと聞いたから探してたんだ。怪我でもしたのかい?」
「ううん。特に怪我はないよ。ただだいぶ疲れてて、へろへろのままドラゴンさんのところに報告に行こうとしてたから、ちょっと休んだ方がいいって私が引き止めたの」


 船がバルティゴから出発したのが一週間前。そして単独任務のため、仲間たちと別行動をしていたサボが船に戻ってきたのがつい一時間ほど前であった。ナマエが医務室で薬草の整理をしていたところ、ガチャリと音をたてて扉が開き、サボが顔を覗かせたのだ。
 『ただいま』と声を上げる彼の無事を喜んだ一方で、顔色の悪いサボがそのままドラゴンの元へ行こうとしていたため、ナマエは思わず手を引いて引き止める。
 土埃にまみれた衣服の様子から、自室に戻る前にここに立ち寄ったのだろう。仕事人間のサボのことだから、これからドラゴンのところへ報告に行って、そのまま今後の計画について長時間話し込む可能性は大いにある。


『少し休んでから行ったほうがいいよ。一時間くらいしたら起こしてあげるから』
『いや、でも・・・』
『もうっ!そうやって無理してこの間倒れちゃったじゃない。忘れたの?』


 先日の自分の前科を思い出したらしい。サボは大人しくコートとシルクハットを脱ぐと、ナマエにそれらを差し出した。
 よほど疲れていたのだろう。吸い込まれるように大人しくソファーに転がったサボがすぐさま寝息をたて始めたため、ナマエは静かにブランケットをかけてやったのだった。


「そうだったのか。サボがそうやって素直に言うことを聞く相手はお前くらいだな」
「そう?一番はマコモさんだと思うけど」
「あれは聞くと言うよりもマコモ爺の恐怖政治だよ」


 確かに幼い頃から、マコモに逆らったことで痛い目に合わされているサボを何度も見てきていた。子ども相手に太い注射針をチラつかせながら凄むマコモの姿は、好々爺とは対極の人間であろう。もちろんぶっきらぼうなだけで、ちゃんと優しい一面があるのは知ってのことだが。
 ナマエが思わず「確かに」と吹き出せば、釣られたようにエルマーもくつくつと笑い声を漏らす。そしてそのまま、彼の視線がちらりとナマエの胸元に移動した。涼やかな瞳が、青色に輝く石が一粒ぶら下がったネックレスを捉える。


「そのネックレス」
「え?」
「よく付けているね。自分で買ったものかい?」
「いやっえーと、その・・・この間の誕生日にもらったの」


 エルマーからの指摘に、ナマエは思わず声を裏返す。ナマエの胸元で光を放つネックレスは、半年ほど前に十八歳の誕生日プレゼントとしてサボからもらった大切なものだ。毎日肌身離さず付けているためか、それはもはやナマエの身体の一部のような存在になり始めていた。


「ブルーサファイアかな?とてもいい色だ。何だか誰かさんを彷彿とさせるね」


 そう言って、エルマーは楽しげな笑みを浮かべる。恐らく贈り主が誰なのか勘づいているのだろう。少しおどけたように、けれど柔らかさを含む父の表情を前にして、ナマエはもう白旗をあげるしかなかった。
 恋心を悟られてしまったのではというこそばゆい感情を振り払うように「綺麗でしょ?すっごく気に入ってる」とナマエが開き直れば、エルマーはきゅっと目尻に皺を寄せる。


「あぁ、よく似合ってるよ」
「ありがと」
「・・・ナマエ」
「なぁに?」
「それをくれた人は、お前にとってどんな存在だい?」


 ただただ真っ直ぐな問いかけに、ナマエは目を瞬かせながら小さく息を飲む。一拍置いて光り輝くブルーサファイアを指先でやんわりと包み込むと、そのままゆっくりとエルマーの顔を見据えた。
 

「いつも私の背中を押してくれる、かげかえのない大切な人だよ」


 迷いのないナマエからの答えに、エルマーは目を伏せると「そうか」と柔らかく笑みを零す。安心したような、はたまたどこか寂しそうな──様々な色を含んだ表情を浮かべながら立ち上がると、彼は未だソファーに丸まったままのサボを顎で指し示した。


「さてと。私はひと足先にドラゴンのところに行くとしようか。起きたらサボにも来るように伝えてくれるかい」
「うん、分かった」
「頼んだよ。じゃあまた夕飯の時に」


 颯爽と去っていく父の後ろ姿を見送って小さくため息を吐くと、ナマエは腰掛けていた椅子から立ち上がりソファーの方へと近づいた。
 サボが寝始めてからあと少しで一時間が経つ。あと十分ほどしたら起こした方がいいだろうか。そんなことを考えながら、いつの間にか彼の顔にかかっていたブランケットをどけてやろうと布の端を掴んだ瞬間、ナマエははたとその動きを停めた。
 窓から差し込む夕陽のせいなのか、稲穂のように柔らかい金色の髪の毛の間から覗き出ているサボの耳が、心做しか赤い気がする。


「サボ」
「・・・」
「・・・起きてる?」


 反応はない。しかし寝ているかどうかを確かめようとナマエがぐいっとブランケットを引っ張ってみたところ、サボの手にしっかりと握られているのか、それはビクともしなかった。


「・・・〜っ!絶対起きてる!」
「・・・グーグー」
「も、もしかしてさっきの話聞いてた!?」


 ナマエの問いかけに、サボは子供騙しのようないびきをたて続ける。どうやら狸寝入りを決め込むつもりらしい。先程までの父親との会話を聞かれていたかもしれないという羞恥心から、ナマエもヤケになってサボが顔を埋めているブランケットを引っ張り続けた。
 けれど当然力でサボに敵うはずがない。最終的にバランスを崩したナマエは、そのまま勢いよくソファーのほうに引き寄せられてしまう。ソファーの角にぶつかると思わず目を瞑った数秒後、ナマエの額にごつんと何かが当たったものの、恐れていた痛みはいつまでもやってこなかった。
 恐る恐る目を開くと、目の前には焦ったような表情をしたサボの姿。彼の胸に抱きとめられていることを理解した時、ナマエの顔は真っ赤に染まっていた。


「っぶねぇ〜・・・大丈夫か?」
「う、うん」
「悪りぃ。おれもふざけ過ぎた。怪我しなくて良かった」


 どうやらぶつかる前にサボが受け止めてくれたらしい。気がつけば、ソファーに寝転ぶサボの上に覆い被さるような形になってしまっていた。分厚い胸板と頭上から降りてくる安堵したような吐息が、ナマエの中にじわじわと侵食していく。
 ほんの数年前までは同じくらいの背格好だったはずのに、いつの間にこんなにも違うものになっていたのだろうか。肌から感じる温もりがナマエの鼓動を早めることは簡単であった。
 何年も前から密やかに暖めてきた気持ちが伝わらないよう、ナマエは礼を述べて慌ててサボの上からどこうとする。しかしナマエを包み込む腕は解かれることがなく、むしろぎゅっと力が籠ったような気がした。


「・・・っサボ、もう大丈夫だから」
「・・・ん」
「ねぇ聞いてる?」
「ナマエ」


 透明の水にぽとりとインクを垂らしたように、澄んだ声が耳に響き渡る。弾かれるように面を上げれば、熱を帯びたサボの瞳が視界に入った。
 まるで時が止まり、二人だけの世界になってしまったかのような空間。ゆっくりと近づいてくる彼の鼻先に、ナマエが思わず息を止めかけた次の瞬間だった。


「ナマエ〜!この間もらった薬なんだけど、追加で欲しくてさ〜」


 伸びやかな声と共に、コンコンと扉をノックする音が静寂な部屋に響き渡った。
 音に気を取られて腕の力が緩んだ隙に、ナマエは勢いよく起き上がるとするりとサボの腕の間から抜け出す。そしてそのまま何事も無かったかのように扉を開けると、平然とコアラを迎え入れた。


「ヘンルーダの軟膏のこと?」
「そうそう!あと鎮痛剤も・・・って、サボくん帰ってたんだ!おかえりなさい」
「・・・あぁ、ただいま」


 いつの間にやら彼も身体を起こしていたらしい。ソファーにどかりと腰を下ろしたサボは、不貞腐れたように頬杖をつきながらコアラに手を挙げる。


「ドラゴンさんのとこにはもう行った?」
「まだ。今から報告しに行く」
「じゃあついでにこの書類渡しといてくれない?」


 右手に薬のケース、左手に書類の束を持っていたコアラは、ナイスタイミングと言わんばかりににっこりと笑顔を浮かべた。やれやれとため息をつきながらサボは立ち上がると、椅子にかけてあったコートとシルクハットを回収しつつ扉の方に近づいてくる。
 彼は今、どんな表情をしているのだろうか。鳴り止まない心音から直視することが出来ず、目を伏せてサボが通り過ぎるのを待っていれば、横切る瞬間に大きな手がこちらに伸びてきてぽんぽんとナマエの頭を撫でた。


「おれも同じだよ」


 はっきりとした口調で紡がれたのは、たった一言だった。サボはそれだけ告げるとコアラから書類をかっさらい、足早に医務室を去っていく。「サボくんと何かあった?」と少しにやけ顔で尋ねてくるコアラの問いかけに、ナマエは慌てたようにふるふると首を横に振った。


「何にもないよ」
「ふーん・・・そっかぁ〜」
「ご所望の薬だけど、ヘンルーダの軟膏と鎮痛剤だけでいい?」
「うん。鎮痛剤はね、ん〜五回分はもらっときたいかな」


 薬を取るためにキャビネットを開けながら、ナマエは先程サボから告げられた言葉を噛み締める。恐らくあれはナマエが父との会話で発した言葉への返答だろう。
 ナマエの言う「かけがえのない大切な人」とは、二つの意味を指していた。一つは当然「友人」として、そしてもう一つは言わずもがな「想い人」としてだ。これまでのサボの行動から、もしかすると彼も自分と同じ気持ちなのではという邪な考えがむくむくと湧き出てくる。
 けれどナマエ自身、今すぐどうこうするつもりは毛頭なかった。サボに想いを告げることで、今までの関係が壊れてしまうかもしれない可能性がある限りは、怖くて一歩が踏み出すことができなかったからだ。『同じだよ』という彼の言葉は、果たしてどんな意味を指しているのだろうか。それを本人に直接問いただす勇気が、ナマエにはまだなかった。

 そんな出来事からまた季節が巡り、ナマエとサボが十九歳になった春うららかな頃──あの事件が起きた。
 大規模な任務中にサボをかばったエルマーが銃弾に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。最後の肉親であった父を失ったことで沈みかけていたナマエの心を、重い十字架を背負うことになったサボがすくい取り、そこから二人の奇妙な関係が始まった。
 もう少し早く、自分に素直になって真正面からぶつかっていれば──。
 前を向いて、一人でも立ち上がる力を持ち合わせていれば──。
 笑いあって共に過ごす、穏やかな未来が待っていたのかもしれない。



***


 ずいぶんと長い夢を見ていた気がする。じんわりと熱くなった目をゆっくりと開けば、そのままつーっと一筋の涙が頬を流れていく。
 もやのかかった視界が晴れたナマエの目の前には、見慣れた木目の天井が広がっていた。二ヶ月ほど前からナマエの住処となっているポーラータング号の隔離部屋。そのベッドに寝かされていた身体は水には濡れておらず、綺麗な寝巻きに着替えさせられていた。
 額にのっていた濡れタオルを掴み、ナマエはゆっくりと身体を起こす。一体どれくらい眠っていたのだろう。そして助けた子どもは無事なのだろうか。窓の外に広がる深い海の色を見ながらぼんやりと思考を巡らせていれば、ふいに部屋の扉がガチャリと音をたてて開いた。


「だからさ〜キャプテンがはっきり言わないと絶対無理だって!」
「でもキャプテンの性格的に、多分何も言わないと思うんだよなぁ」


 入ってきた白い巨体とスレンダーな女性。何やら怒った口調のイッカクに対し、ベポは眉を下げて困ったような表情をしている。互いに顔を見合せていた二人は、会話が途切れた瞬間に視線をこちらに動かす。そして目覚めたナマエの姿を目にするや否や、ぴたりと動きを止めたかと思えば、数秒後には揃って大絶叫をあげた。


「ナマエが起きたーーー!!!」
「わーーーん!!良かった〜〜〜!!」


 目玉が飛び出してしまいそうな勢いであんぐりと口を開けたかと思えば、二人はすぐにおいおいと泣き出しナマエに飛びついてきた。両サイドから白と黒のふわふわに覆われて、視界には美しいコントラストの風景が広がる。


「ばかばかばかー!一人で飛び込むなんて無茶して!!」
「ほんとにそうだよー!下手したら死ぬとこだったんだぞー!!」
「ご、ごめんなさい」


 左右から揉みくちゃにされながら、ナマエは慌てて謝罪をする。あの時は身体が勝手に動いたとはいえ、無謀なことをしてしまったという自覚は大いにあった。きっと色んな人たちに心配と迷惑をかけてしまったのだろう。
 ローやペンギンたちを呼びに行くと足早に部屋を出ていったベポを見送りながら、ナマエが「子どもはどうなったの?」とイッカクに問えば、彼女はナマエを安心させるように柔らかい笑みを浮かべた。


「大丈夫。あんたが助けた子は特に怪我もなくて無事だよ。身寄りがなくて、海賊に捕まって人身売買されちゃったらしくてね・・・。とりあえず保護して、このまま一緒に海軍本部に連れてくことになったよ」
「そっか・・・。良かった」
「あんた、丸二日も起きなかったんだよ。みんな凄く心配してたんだから、もう二度とあんな無茶はしないでね」
「・・・うん。本当にごめんね」


 先程とは打って変わって、真剣な表情をするイッカクの言葉に、ナマエがゆっくりと首を縦に振った次の瞬間。ふいにぎゅるるると、ナマエの腹の音が盛大に鳴り響いた。
 子どもの無事を知り、強ばっていたものが一気に抜けてしまったらしい。目をまん丸にさせたイッカクはすぐに吹き出すと、けらけらと軽やかな笑い声をたてた。


「やだっすんごい音!ナマエの腹の虫はいつも正直ね。待ってな、お粥用意してきてあげる」
「ありがとう、イッカク」
「どういたしまして。でもその前に、キャプテンからのお説教があるはずだから気張りなよ〜」


 ひらひらと手を振りながらイッカクが去っていけば、部屋には再び静寂が訪れる。ふと視線を横に動かせば、ベッド横に並ぶサイドテーブルには、サボからもらったネックレスが置かれていた。
 恐らく着替えの時に誰かが外してくれたのだろう。丁重にハンドタオルの上に置かれたそれをすくい取ると、ナマエは己の首に付け直す。

 何がきっかけかは分からない。けれど、失われていたはずの幼い頃の記憶が夢の中で蘇り、バラバラになっていたパズルが完成するように、元ある記憶にかちりとはまった感覚がナマエの中で確かにあった。
 幼い頃から幾度となくサボに救われていたこと。自分がこうなりたいと目標を掲げていたこと。そして、逃げずに前を向いて歩いていくことの大切さ。たくさんのことを教えてくれた彼に、見守ってくれていた父と母に、そして自分に恥じないような生き方をしていきたい。そのためにも、恐らく何かを知っているであろうローと、きちんと話さなくてはいけないはずだ。

 コンコンとノックされた扉の音に面を上げると、ナマエは真っ直ぐと前を見据える。その目にはもう、迷いの色は少しもなかった。