Sabo route 04


 部屋に現れたローから開口一番告げられたのは、「無茶しやがって」というため息混じりの一言であった。そのあとどんな説教が続くのかと身構えたものの、彼は聴診器を手に取って、そのままナマエの身体に異常がないか診察を始めていく。


「・・・怒らないんですが?」
「怒られてェのか?」
「えーと・・・そういう訳では」
「言いたいことはたくさんあるが、診察が終わってからだ」


 結局はお小言を頂戴するのか。そんな苦い表情が全面に出ていたのか、傍で見ていたシャチとペンギンがケラケラと笑い声をあげた。


「キャプテンの説教は容赦ねェからな」
「いや〜でも元気そうで良かったよ」
「・・・本当に、助けてくださってありがとうございました」
「いやいや、当然の事だから気にしないでよ。おれらもナマエちゃんに助けてもらった恩義があるしさ」
「うんうん!あっそうだ。助けた子もナマエちゃんのこと心配してたから、あとで連れてくるね」


 気遣い無用と明るく振る舞う二人には、ただただ頭が下がるばかりだ。そのまま診察を受けながら皆と雑談をしていれば、粥を作り終えたのか、お盆を片手にイッカクが顔のぞかせる。「もしかしてお説教まだ?」とからかうように肩を竦めるイッカクにナマエが苦笑いを浮かべれば、ローは聴診器を片付けながら顎をくいっと前に動かした。


「飯食わせていいぞ」
「アイアイ。ほーれナマエ、イッカク様特性の卵粥だよ。熱いから気をつけな」
「ありがとう。いただきます」


 手を合わせてレンゲで粥をすくえば、美味しそうな香りともに、とろりとした卵が黄金色に輝きを放つ。温かい食事を口にすることで、強ばっていた身体がじんわりと解けていくようであった。
 温かな人たちと、そしてそれに付随する居心地のいい空間──。自分の存在意義と希望を思い出させてくれた人々への感謝を噛み締めながら、ナマエは潤んだ目元を隠すよう微笑んだ。



Sabo route 04



「海軍本部に着いたら、この船を降ります」


 ナマエがローにそう言葉を発したのは、皆が部屋を去り、彼と二人きりになってしばらくしてからだった。
 今回の無謀なナマエの行動を詫びることから始まり、まだ完全とは言えないが失われていた記憶が戻ったこと。そしてそれによって自分の夢や目標を再認識したこと。そんな様々なことをナマエはローに伝える。
 今までの伏し目がちな様子とは異なり、しっかりと前を見据えて言葉を紡ぐナマエの話を、ローはただ黙って聞いていた。


「ローさんをはじめ、ハートの海賊団の皆さんには本当にすごく感謝してます。海賊って怖い存在だと思ってたけど、想像していたのとは違って親切で優しくて・・・。だからみんなと一緒に海賊をやるのもいいかなって、一時は考えたりもしました。でもきっと・・・このまま優しい場所に居続けたら、私はいつまでもそれに甘えて弱いままになってしまう」
「・・・」
「病気や怪我で苦しむ人たちを助けて、そして人々を笑顔に変えれるような・・・そんな人間になるのが私の目標なんです。そのためにもきちんと前を向いて、自分の足でしっかり立てるように強くなりたい」


 医者として、信念を持って救いの手を差し伸べてきた母のように。革命軍として、数多の人々のために道を切り開いてきた父のように。それはきっと、海賊というカテゴリーの中では叶えることは難しいことだろう。
  色恋沙汰で革命軍から逃げ出した自分が、今更都合の良く夢を語るなんて馬鹿げていると、後ろ指を指されて笑われるかもしれない。けれど、前を向いて歩いていく大切さを思い出した今、這いつくばってでも一から歩み出してみようという気概がナマエの中で芽生えていた。


「だから、過去にもきちんと向き合いたい。あのレポートについても、貴方が知っていることを聞かせて欲しいんです」


 全ての思いを一気に吐き出したナマエは、息をつくと目の前のローの様子を伺う。彼は小さくため息をついた後、組んでいた腕を解くと手をかざして、青い膜と共に手元に何かを出現させた。
 何重にも重なる古びた紙の束──。一ヶ月前にローの部屋で見つけた『珀鉛病』について書かれたレポートが、己の中の記憶とリンクする。
 ナマエの脳裏には、薬草を調合する自身の隣で、机に向かって羽根ペンを走らせる母の横顔が蘇っていた。そう、そのレポートはかつて母が命をかけて執筆したものだったのだ。


「・・・お前に返す。察しの通り、これはお前の母親が書いたものだ」


 重みのあるレポートを受け取ると、ナマエはぱらりと紙をめくって中身を検めた。くせのない整ったその字は、思い起こせば紛うことなき母のものである。確かにそこにある母の存在を噛み締めながら、ナマエはゆっくりと紙に染み込んだインクの文字列を撫ぜた。


「・・・どこでこれを?」
「たまたまこのレポートを秘密裏に保管していた医者と関わることがあって、譲ってもらった。お前の母親とは、実は幼い頃に会ったことがあってな。その時に『珀鉛病』についてのレポートを執筆していることを聞いていたから、すぐにアリアさんが書いたものだと勘づいた」
「そう、だったんですね・・・」
「過去の記憶に関わるもんだったから、下手に明かして刺激していいかどうか判断できなかった・・・悪かったな」


 ローがまさかずっと昔に自分の母親と関わっていただなんてと、ナマエは思わず目を瞬かせる。当初は偶然かと思っていたこの出会いは、実は母が繋いだ必然だったのだろうか。
 ばちばちと胸で弾けるように湧き上がる衝動がある一方で、ナマエの中に疑問が顔をのぞかせる。記憶違いでなければ、自分は母について詳しくローには話していないはずだ。なのにどうして、彼は自分がこのレポートの執筆者の娘だということが分かったのだろうか。


「あの・・・もしかして小さい頃、私も母と一緒にローさんに会ってますか?」


 父に連れられ革命軍に来た以後の記憶は、ほとんど蘇った。しかし母が亡くなった前後の記憶は、父から聞いた話と自身の記憶を断片的に繋ぎ合わせただけで、はっきりとは戻っていない。未だ空白のある部分に、もしかすると自分も彼に会っていたのだろうか。ぽつりと湧き出た疑念をナマエがローにぶつければ、彼の瞳がきゅっと小さく揺れる。
 しかしそれはほんの一瞬の出来事で、瞬きした次の瞬間には、すでにいつもの表情に戻っていた。


「・・・いや。アリアさんに写真を見せられて、お前についての話を聞いていただけだ。おれが医者になりたいと話したら、自分にも"ナマエ"という一人娘がいて薬剤師を目指してるってな。お前とは・・・直接会ったことはねェ」
「そう、ですか・・・」
「お前と薬屋で会った時、名前が同じで面影もあったから、もしかしてとは疑ってはいたが・・・。まさか本当にアリアさんの娘だったとはな」


 小さく笑い声を漏らすローの返答を聞いて、ナマエは彼と出会った当初のことを思い出す。確かに薬屋に訪れたローが伝票に目を通した時、少し奇妙な反応をみせていたことは記憶に残っていた。
 なるほどと合点がいく一方で、先程一瞬見せたローの表情が僅かに引っかかる。胸の奥でざわめくものを感じながら、無意識のうちに目の前の男に何かを問おうと口が勝手に開くも、言葉が続かない。
 そんな不思議な感覚に苛まれ、視線をさ迷わせるナマエを一瞥すると、ローは腰掛けていた椅子に深く座り直す。ぎしりと木の軋む音ではっと我に返ったナマエがローを見れば、彼は「とりあえず」と話を再開させた。


「海軍本部についたら、ガキは海軍に引き渡して保護してもらうつもりだ。お前はどうする?一緒に保護してもらって元の島に戻るか?」
「・・・いえ。できれば海軍には関わらないように、どこか近くの島で降ろしてもらいたいです」


 ローからの問いかけに、ナマエはゆるゆると首を横に振る。元革命軍だという素性がそう簡単にバレることはないだろうが、念には念を入れておきたい。
 そしてレポートのことを──母についてのことをきちんと話してくれ、行きずりとはいえ、居場所を与えてくれた彼にもう隠し事はせずにいたい。続きを待つように黙って視線を送ってくるローに、ナマエはゆっくりと向き直った。


「・・・私も、ローさんにお話しないといけないことがあります」


 その言葉を皮切りに、ナマエは自身のこれまでのことを語り出す。幼い頃に母を亡くした後、革命軍にいた父の元に引き取られ、そのまま革命軍で育ったこと。そして自分自身も革命軍の医療班の一員として働いていたこと。さらに、とあることをきっかけに退団することになり今に至るということ。
 あらかたの概要を伝え終わると、ナマエは最後にローに向かって深々と頭を下げた。


「辞めた身とはいえ、ずっと正体を明かさずにいてすみませんでした」
「・・・いや、元はと言えば巻き込んだのはこっちだからな。それに、何となく予想はついてた」
「・・・そうなんですか?」
「シャチとペンギンを海軍から逃がす手伝いを進んでしたり、躊躇無く傷の手当てができたり・・・他にも色々あるが、街の薬局で働く普通の薬剤師にしては修羅場に慣れすぎていたからな。おまけに身元を誤魔化そうとしている素振りも見えた。海兵でも海賊でもねェとなると、消去法で革命軍にでも関わりがあるんじゃねェかと睨むのが筋だろう」
「確かに・・・そうですね」
「最終的に確信したのは、以前お前がレポートを手にして倒れた時に、譫言で『サボ』と呟いたことだ」
「・・・え」
「あまり聞かない珍しい名だからな。世界情勢に目を向けている人間は嫌でも勘づく。無意識とはいえ、今後は気をつけろよ」


 思いもよらぬローからの指摘に、ナマエはぎゅっと唇を噛みながら、反射的に首に繋がるネックレスに触れる。それと同時、彼の視線がナマエの胸元で揺れる青い宝石に注がれた。


「・・・何が原因で革命軍を辞めたかなんて、野暮なことを聞くつもりはねェ。だがな・・・誰かに頼って生きることが悪だなんて、決めつけるな」
「・・・っ」
「お前が誰かに手を差し伸べられるような人間になりたいと思ってるのと同じだ。お前が弱っている時は、周りに頼って誰かの手にすがってもいいんだ。それだけは理解しておけ。おれもそうやって・・・色んな人達に救われたおかげで、今ここに存在している」


 ゆらゆらと波打つ海面のように揺れるその瞳は、何を回顧しているのだろうか。ローから告げられた言葉に含まれた色はきっと、彼が経験してきた様々なことが深く影響しているはずだ。
 こんなにも強くて前を向いている人間であっても、他人にすがることがあるのだという事実。それは、強くならなければと頑なになっていたナマエの肩の荷を少しだけ軽くした様な気がした。
 助言を噛み締めるように強く頷くナマエの様子を見て、ローは少し安心したように息をつく。そしてズボンのポケットから小さな白い紙切れを取り出すと、ナマエの方に差し出した。


「これ・・・ビブルカードですか?」
「知ってんのか?」
「はい。私も持ってるので」
「それなら話は早ェ。おれのビブルカードだ。持っていけ」
「え?」
「もし気が変わって海賊になる気が起きたり、今後何か助けが必要な時にでも使ったらいい」
「いや・・・。でも・・・」
「さっきの言葉、聞いてなかったのか?」
「ゔ・・・分かりました」


 上から降り注ぐ圧にナマエはすぐさま白旗を揚げ、大人しくビブルカードを受け取った。それを見て、ローは満足そうに口の端をあげる。そんなたわいも無いやりとりが、強ばっていた二人の間の空気をほんのりと柔らかくした。
 たった二ヶ月という短い付き合いではあったが、彼の優しさは十分に伝わっていたし、ハートの海賊団と過ごした日々が自分の中で分岐点となったと言っても過言では無い。
 もし何かあった時は頼っても良い場所があるという心強い印。それを握りしめながらナマエは、ローの美しき灰色の瞳を心に刻んだ。


 それから四日後──。ポーラータング号は海軍本部にほど近い島の港に姿を現した。
 前夜、ナマエのお別れ会と称して開かれた宴会でしこたま泣いていたイッカクとベポが、再びおいおいと泣いてナマエにしがみつく。「元気でな」「いつでも戻ってきていいからな」と肩を叩いてくれるペンギンやシャチ、そして他の団員たちとも一人ずつ別れの言葉をかわすと、最後にナマエは少し離れた場所でこちらの様子を伺っていたローの元へ歩を進めた。


「本当にお世話になりました」
「・・・あぁ。道中気をつけろよ」
「はい。私も、皆さんのご安航を祈っています」


 ローの声を耳にすれば、別れが一気に現実味を帯びてきた。先程まで必死に我慢していたはずが、涙腺がじわりじわりと緩み出し、ナマエの頬を光の粒が次々と伝い出す。「すみません」と慌てて顔を伏せて誤魔化せば、ふいにローの手が伸びてきて、骨ばった太い指がナマエの目元をなぞった。
 弾かれたように面を上げれば、すぐ目の前には腰を折ってこちらを覗き込むローの整った顔がある。いつもは鋭さを放っている彼の瞳が、今は柔らかな色を含んでいた。


「・・・相変わらず、お前はすぐ泣くな」


 苦笑いと共に小さく零れたローの声。船に乗ってから、彼の前でナマエがこうして涙を流したのは今が初めてのはずだ。なのに、どうして。やはり彼とは昔どこかで会ったことがあったのだろうか。
 紡がれた言葉の意味を反芻しながらローに問おうとすれば、彼はそれを遮るようにコートのポケットから何かを取り出した。白い小さな紙切れ──命の紙・ビブルカード。「お前も持っているなら念の為もらっておく」とローに言われ、昨夜渡したばかりのナマエのものだ。


「永久の別れじゃねェんだ。この紙がある限り、互いの無事も分かるし、会おうと思えばいつでも会えんだろ。だから泣くな」
「・・・っはい、」
「だがな。次、もしお前がおれの前に現れた時は・・・その時は、問答無用で連れていく」
「・・・え?」
「こちとら海賊なんでな。三度目はねェ。覚悟しとけ」


 そう告げると、ローはぐいっと自分の帽子を深くかぶりなおし、ベポたちの方へと歩き始める。そして、すれ違いざまにナマエの肩をポンっと叩いたと同時、その薄い唇からぼそりと言葉がこぼれ落ちた。


「お前の幸せを願ってる」


 囁くような、けれどしっかりと意志のこもった声色。ローとナマエ、それぞれの新たな出発を祝うよう、雲ひとつない晴れやかな空を吹き荒れる暖かな風に乗って、彼の気持ちは確かにナマエの耳に届いていた。
 じんわりと心に染み込んでいくその一言を、目を潤ませながら噛み締める。感謝の念を抱きながら溢れた雫を拭うと、ナマエは新たな決意を胸に、静かにその一歩を踏み出した。