07


 ナマエは北の海のよく雪が降る小さな島で幼少期を過ごした。産まれた時から島で診療所を開く母との二人暮し。仕事の都合で遠くに住んでいると聞かされていた父の顔は写真でしか見たことがなかったが、毎年届く誕生日カードとプレゼントから父の愛情は感じていた。
 ナマエの母が亡くなったのが九歳の夏。その日から前後約一年間、ナマエの記憶はまるで綺麗に切り取られたように欠如している。当時の診察記録によれば、心的外傷によって引き起こされた健忘で、恐らく母の死を目撃したためであろうと推察されていた。
 そのためどうやって革命軍の父親の元に来たのかも、さらにはサボとどのようにして友人になったのかもナマエの記憶にはなかったのだ。


『なぁナマエ!あっちで焼き芋もらえんだって!行こうぜ!』


 秋風が肌寒い季節。革命軍にきて一年半ほどたったある日、サボに誘われ、幼いナマエは彼の後について行く。
 そういえば先程、イワンコフたちが大量の芋を荷車で運んでいたのを見かけたところだった。本部の中庭に入れば、ちょうど視界にイワンコフの大きな頭が写りこむ。


『おーいイワさん!おれらにも分けてくれよー!』
『あら?いいけどヴァナタたち、ちゃんと晩飯も食べなさいよ!?』


 サボが無邪気にそう聞けば、イワンコフは火バサミを掲げながらこちらに振り返る。イワンコフの巨体に隠れていた焚き火は想像していたよりも大きく、たくさん積み重ねられた落ち葉からは二メートルは優に超える火柱がパチパチと音をたてて揺らめいていた。
 燃え盛る炎を目にした瞬間、ナマエの頭に鈍痛が走る。『ナマエ』と弱々しく自分の名を呼ぶ母の声が聞こえた瞬間、身体中の血の気が引き、ナマエはそのまま意識を失った。

 その後もナマエの身に何度か同じことが起きた。それには共通項があり、大きな火を見た時、または母を追憶するものに触れた時であった。そのため、それを知った父は母に関連するものを全て処分してしまったようだった。


『サボは記憶がないことが怖くない?』


 初めて船で任務に帯同することになった十五の夏。全てを焼き尽すような戦火を目の前にして久方ぶりに倒れてしまったナマエは、世話を買って出てくれたサボにそう問いかける。
 たった一年といえどもごっそりと抜け落ちた記憶。その間に何があったのか、何を自分は思っていたのかを知りたいと思う反面、思い出してしまえばそれと引き換えに何かが変わってしまうのかもしれない。
 そんな空白の期間の存在を、ナマエは時々恐怖に感じることがあった。


『そうだな・・・。もしかしたら、なんでそんな大切なことを忘れちまってたんだって、いつか後悔する日が来るかもしれねぇって思うことはあるな』


 こちらの問いに、サボは少し間を置いてそう答える。そしてナマエの額に手を当て熱がないことを確認すると、彼はそのままナマエの寝るベッドの縁にゆっくりと腰掛けた。


『けどな、おれは過去を取り戻せない分、今を後悔しねぇように生きていくつもりだ。それにもし過去を思い出して何かあったとしても、今のおれにはおれを信じて支えてくれるかけがえのない仲間ができた。だから全然怖くねぇよ』


 そんなサボらしい光ある答えに、ざわついていたナマエの心の中は少し落ち着きを取り戻した。
 いつだってサボは手を引いて前を向かせてくれる存在だ。いつしか彼の存在が自分の中で大きくなっていることを、ナマエは自覚していた。


『そうだね。サボのことを放っておくような人なんて、この革命軍にはいないよ』
『おいおい、なんで他人事なんだよ?その筆頭がナマエなんだからな?おれに記憶が戻って何かあった時は頼んだぞ』
『え?私・・・?』
『当たり前だろ?何年一緒にいると思ってんだよ』


 思わず目を丸めてサボの顔を見れば、彼は少し不満そうに口を尖らせる。自分と同じようにサボは自分を一番信頼してくれているのだと嬉しさを噛み締めながら、ナマエがこくりと頷けば、サボは満足気に笑った。


『お前が何か思い出して辛い時は、おれが絶対支えてやるからな』


 そう言うとサボは布団から出ていたナマエの右手を握る。陽だまりのようなサボの温かさに安心したのか、ゆるゆるとした眠気に誘われ、ナマエは『ありがとう、サボ』と呟きながら瞼を閉じた。
 朧気になっていく意識の中、歌が聞こえてくる。優しい歌声。小さい頃から聞きなれた北の海の子守唄だ。懐かしい母の声と被さるように、歌声の中に時々少年の声が紛れ込む。


『おやすみ、ナマエ』


 そう呟いたのは誰の声だったのか。



07


 ナマエが倒れてから一時間半あまり。ローは心を無にしたまま、ただナマエが眠るベッドの縁に腰掛けながら彼女の様子を眺めていた。
 貧血だとすぐに気づき両下肢を挙上させたことが功を奏したのか、顔色は元に戻り、ナマエはすやすやと規則正しい寝息をたてている。本来であれば、さっさと自室にでも移動させて他の船員に経過観察を任せればいいものを、ローは今それができない状態にあった。
 ナマエの右手によって強く握られたローの左手。意識を失う直前に、ナマエが縋るようにこちらに手を伸ばしてきたのを思わず取ってしまい、そこからずっとこの状態である。
 女のか細い手など毛ほどもないはずなのに、ローはその手をぞんざいに振り払うことができなかった。その理由を彼女はきっと知る由もないだろう。


「・・・お前は、どうして」


 深くため息をつきながらローが空いた手で頭を掻きむしれば、ふいにナマエがううんと呻きながら寝返りを打つ。そして口をゆっくりと開いたかと思うと、吐息と共に小さく言葉を零した。


「・・・サ、ボ」


 何度かニュースや手配書で見た事のあるその名を持つ人物の顔が、一瞬ローの脳裏を過ぎる。情報を繋ぎ合わせるように頭を働かせていれば、ドンドンと部屋の扉をノックする大きな音が静寂な室内に鳴り響いた。



「キャプテンー!ナマエ見てねェ?部屋にもどこにもいなくてさー!」


 声の主であるベポの呑気な声に、意識を覚醒させてきているのか、繋がった先のナマエの身体がもぞもぞと動き出した。緩んだ隙に繋いでいた手を丁重に解くと、ローはおもむろに立ち上がる。そして「ここにいる」と外に声を掛けてやれば、勢いよく扉が開き、目を丸々とさせたベポが顔を覗かせた。


「え!?・・・っていうか、なんでナマエがキャプテンのベッドで寝てんの!?」


 混乱するのも当然である。下手をすれば、男女のあれやこれやでもあったのかと疑われてしまうような状況下だ。
 ベポに事情を説明しようとローが口を開いたと同時、ナマエがはっと小さく息を吸い込みながら目を覚ました。


「おい、大丈夫か?」
「・・・ロー、さん・・・わたし」
「恐らく貧血で倒れた。気分はどうだ?」
「・・・少し、怠いくらいです」
「吐き気は?」


 身体を起こそうとする背中を支えてやれば、ナマエは朧気ながら首をゆるりと横に振る。ひとまずは心配なさそうだとほっと一息つくと、ローは眉を八の字にしておろおろとした表情で二人の顔を交互に見るベポに目を向けた。


「ベポ、前にシャチが脱水した時にドリンクの作り方を教えただろ。あれ作ってこい」
「え!?あっ、あの塩と砂糖とレモン汁のやつね!アイアイキャプテン!」


 会話からなんとなく状況を察したのか、ベポは慌てて部屋を飛び出していった。それを目を瞬かせて見送るナマエを見ながら、ローは椅子を引きずって持ってくるとベッドの横にそれを置いてどかりと座る。そして断りを入れ、ナマエの脈を測り瞳孔のチェックを行った。
 脈も正常に戻っており、特段何も異常はない。本来であればただの貧血という診断を下して話は終わっていたはずだ。しかしながら違和感が残る状況を鑑みて、ローはゆっくりとナマエに問いかけた。


「貧血は持病か何かか?」
「いいえ・・・。持病というよりは、突発的なもので・・・」
「原因は分かってるのか?」


 ローの言葉に、ナマエは少し目線を泳がせた。ナマエが船に乗ってまだ一ヶ月ほどである。踏み込むのが早すぎたかと一瞬思ったものの、船医としては見過ごせないのがローの本音であった。


「船に乗る人間の健康状態の把握はおれの責務だ。説明できる内容なら言え」


 卑怯な言い方だが、こう言えば素直に白状するだろうというローの思惑通り、ナマエは観念したかのように目線をこちらに戻した。


「私、幼少期の記憶が一年ほどないんです」
「・・・」
「母の死を目撃した心的外傷によるものだと言われています。恐らくその時に関連して、母に関するものや大きな火を見ると今日みたいなことになってしまうみたいで・・・」


 まるで欠けていたパズルのピースがかちりと綺麗にハマったような感覚だった。一度口から出かかった言葉をローは必死に飲み込む。そんなローの様子を、ナマエはただ真っ直ぐと見据えていた。
 あのレポートは一体何なのか、母に、自分に何か関係があるのか。口にはしないものの、そう問うてくるナマエの瞳に、今のローは答えを与えてやることができなかった。


「お待たせー!作ってきたよ!」


 幾ばくが続いた二人の無言の攻防を打ち破ったのは、相も変わらずベポであった。勢いよく扉を開けると、彼は片手にローの指示通りに作ったドリンクを持って部屋に飛び込んでくる。その姿を見るや否やローは颯爽と立ち上がると、「少しずつ飲ましてやれ」と言って部屋を後にした。
 室外に出ると同時、ローは他人に分からないほどの規模で能力を使うと、手中に例のレポートの束を収める。たった数十枚の紙の束が、今はまるで鉛玉のように感じた。
 話すべきなのは今ではないというのは、ただの自分への言い訳か。みしりみしりと音が鳴る廊下を歩きながら、ローは自分の弱さを呪った。