「あのね、あのね、けんちゃん。」

今よりずっとずっと小さい頃、俺の隣にはいつだって一人の女の子がいた。

正確にいうと、隣ではなく後ろ。その子は泣き虫だったから、怖いものがたくさんあったから、そんな彼女を守るように俺の立ち位置はそこだった。

だけどチビで背の順でも一番前だった俺はいつだって怪我をして、結局その子を泣かせていた。

「けんちゃんはね、王子様なの。」
「じゃあなまえはお姫様だね」
「なまえにはにあわないよ」
「どうして?」


だけどそれは俺が卒園して引っ越すまでの事。

「よわむしだから」

泣き虫だった、彼女。弱虫だった、彼女。小学生になっても中学生になっても、そんな彼女のことが頭から離れなかった。

「けんちゃん、なんで笑うの?」
「なまえはよわくていーよ。おれが助けてあげるから。」
「ずっと?」
「うん、おっきくなってもずっと。」


初恋だったんだと思う。そしてきっと今現在も続いてることなんだと思う。

だからそんな約束を今でも覚えていて、その約束を果たすためにこの学校に通ってる。

「―――嶋、水嶋ってば!」
「ああ、ん?なに?」

肩を揺するミノルの声に脳内を覚醒させられる。周りを見回すとまだここは中庭で、興味津々な表情で野球部の奴等が俺を見つめていた。

「だーから!おまえなまえちゃんとどんな関係!?って聞いたの!」
「びっくりしたよなー。いきなり「なまえ!」だもん。」

んなもん焦るに決まってんじゃねーか。
野球部のグラウンドに行く最中ミノルとキャッチボールしてたら後ろの教室になまえの姿を見付けて目を奪われていたら、案の定ミノルが投げたボールがガラスを突き破った。断じてわざとじゃないんだけど、正直嬉しかったりして。

「でもさ、あの近寄りがたさってか男慣れしてないつーか、…いいよな。」
「うわ!坂野、今の言い方くそキモい!」
「うっせーよ!だって俺米倉さんよりなまえちゃん派だもん」

坂野の思わぬ発言に、少しイラっとした。なまえちゃん派ってなんだ、なまえちゃん派って。

「俺もだな。ミノルはドMだから米倉派だろ?」
「たりめーじゃん。」
「なんなの?そのナントカ派って。」
「はあ?水嶋いまさらなんだよ。1年の時から男子は二つに分かれてたろ?」
「米倉咲子派とみょうじなまえ派。」
「あの二人高校1年のときから一緒にいんじゃん。どっちもかわいーし、人気すげーのなんの。」
「でもタイプが二人とも違って、米倉さんはやっぱきつめというか…」
「引っ張られたい感じだよな。はい女王様ついていきます、みたいな。」
「マジ蹴られてえー…」
「ミノルみたいな変態が好きになる感じ。」

まあ、確かに米倉はしっかり者できっちりしてるイメージがある。去年委員会で遅刻した時めちゃくちゃ怒られた覚えがあるしな。

「そんでもってなまえちゃんは、もうほんとあの通りだよ。」
「大人しくって、お人形さんみたいに座ってるだけ。笑ったとこ見たことねえもん。」
「話しかけてえ男共もたくさんいんだけどさ、」
「俺、こないだプリント渡そうとしただけで怯えられたもん。まあ、そこがたまんねーんだけど。」
「米倉とは反対で「守ってあげたい」って感じだよな。」
「嫌だ!」
「「「はあ?」」」

って、俺なに言ってんだ。

「や、こっちの話。気にすんな」

守ってあげたい感じ、かあ…。
確かになまえは昔からそうだった。天然のゆるいパーマが掛かった髪は何処か子犬を連想させるし、怯えた時の瞳なんて子犬そのものだ。内気で弱気で臆病で、そんな自分をなまえは嫌っていた覚えもある。

そんななまえを守るのは俺の役目だと思っていた。

「でもさ、みょうじって生徒会長と付き合ってんだろ?」
「はあ!?」
「うわ!だから水嶋さっきから何なんだよ!」
「いや、それ…」
「有名じゃん。よく生徒会室に二人でいたりしてるらしいよ。」
「まあ、嘘かほんとかわかんねーけど。同じクラスの女子が言ってた。」

生徒会長って…拓巳だろ?
あいつと、なまえが…?

「ありえねえ。ぜってえありえねえ。」

だけど、

「拓巳。」
「はは、呼び捨てね。それで、家まで来て何の用?」
「なまえの高校、知ってんだろ?」


だけど、

「教えてあげてもいいよ。だけど、」

だけど、

「なまえは過去の事、覚えてないと思うけど?」

あり得ない、と思えるのはなまえが過去を覚えている前提の話で、今となってはわからない事ばかりだ。

「おまえらあああああ!」
「げ!ツッキーじゃん!」
「やべ!あれマジギレ!?」
「すげー速さでこっちくんだけど!逃げる!?走る!?」

なまえの事はたくさん覚えていた。小学生、中学生、春夏秋冬、毎日、毎日、なまえのことばかりを考えていたから忘れるはずがなかった。

なまえの好きなもの、怖いもの、笑いかた、泣きかた、全部、全部。だけどそれは全部過去のなまえで、今のなまえのことを俺は何も知らないってことに気が付いた。

「おまえらはアホかああああ!」

偏差値の高いこの高校に入学するために似合わない勉強を必死にしてそれでもギリギリ入学で。入学してすぐ君らしき君を見つけたのに、どう声をかけるか戸惑って。そうしてる内に2年になって、クラス分けのボードを見て自分の名前と一緒に彼女の名前を探した。

そして同じ2−Bに名前を見つけた時、声をかける時の言葉も見つけた。


「───────やっと会えた。」



だけど彼女は、俺を覚えてなんかいなくて。首を傾げた彼女は酷く可愛かったけど、酷く悲しかった。

「フジコ先生に俺が嫌われたらどーしてくれんだ!」
「諦めろって!フジコちゃん「関係ありません」ってはっきり言ってたしな。」
「そーそーツッキーは今まで通り風俗嬢に相手してもらいなさい。」
「ばかやろー金かかんだろ!教師ってのはな儲からねえんダーティーロトンスクリュードライバー!」
「ぎゃー!」
「やべえ!ミノルが死んだ!」

だけど、だけど、だけど。
彼女は持っていた。約束の証。

「ツッキー!!!!」
「ああ?水嶋おまえも食らいたいのか?ダーティーロトンスクリュードライバー。」

何年も思い続けたんだ。何年も待ったんだ。そうそう諦めきれるものなんかじゃない。拓巳と付き合ってる、はいそーですか、なんてそんなの無理。

「なあツッキー。知ってる?」

過去を思い出して欲しい、とかたくさんあるけど、なによりもまず先に今ある彼女との距離を縮めるのが先決だ。
あんまり使いたくねえ手だけど、これしかねえ。

「人の恋成就させると、それを知った神様がお礼として自分の恋の手助けをしてくれるんだって。」
「なんだ、おまえ。やけに乙女チックで気持ち悪いぞ。」
「だからさ、俺に協力すればフジコちゃんと両想いになれるかもよ?」
「なに!?マジか!?」

初めて感謝するかもしれない。こんな簡単な嘘で釣れる担任に。

「マジマジ。する?協力。」
「おう、何すんだ?」
「簡単だよ。」

今の俺は“けんちゃん”じゃなくて“水嶋くん”だけど、あの立ち位置に戻れるようにもがいてみよう。

「ただ、席替えすればいいんだ」

もういちど、彼女の前に立って、彼女の笑顔を守れるように。
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