「失礼します。」
いつもより少し早く学校に来て、まず先に学級日誌を取りに職員室の扉を開いた。
月本先生の姿を探すが見当たらず、デスクを探すと思ったよりも簡単にデスクも先生の姿も見つけれた。高く積まれた週刊少年ジャンプ、おやつの食べカス、たぶん鼻を噛んだティッシュ。何個もある飲みかけのマグカップ。それらが散らかるデスクにうつぶせて(凄まじい鼾をかいて)寝ているのが、月本先生だった。
…っていうか外で野球部活動してなかったっけ?どうして顧問の先生が職員室で寝てるんだろうか。
とりあえず先生の背中を指先でちょんちょんと突くと、思った以上に体がビクっ!と跳ねた(なんかすごく怖いもの見た…)
「あ…あの、おはようございます」
「んん〜ああ、…みょうじか?」
目をごしごし擦って、眠たそうな瞳に私を映す。
「学級日誌を取りに来たんですが、」
「日誌な、えーっと、どこだっけな。」
先生がデスクを漁る度、パラパラと食べカスの音、積んだ漫画の落ちる音、その漫画が隣のデスクに落ちて至極迷惑そうな佐藤先生の視線が月本先生に振りかかる。が、先生は一切気にせず(というか気づいておらず)3段目の引き出しにお目当てのものを見つけ出した。
「あった、あった。ほらよ。」
「ありがとうございます」
渡された学級日誌は、まだ新学期が始まって間もないというのにコーヒーらしき染みがあり、なんとも彼らしい。
「―――――あ、そういえば、」
急に先生が何か思い出したように私を見てニヤリと笑った。それは昨日見たのと、同じような笑みで。
「水嶋はどうした?」
「え…?水嶋君は野球部だから部活があると思って…」
「ったくあいつは何してんだか。部活なんてそんなつまんねえことしてんなよな。せっかく俺がチャンスやったつうのに。」
「チャンス…?」
「あーいや、こっちの話。いや、しかしだな。みょうじ、男同士の話をしようじゃないか。」
「先生…あの私、一応女です」
「ああ、そうか。まあいい。ちょ、こっち来い」
強引に腕を引っ張られて、近づかされると先生はこっそりと私に耳打ちで聞いた。
「おまえ、好きな奴いるか?」
す、好きな奴…?
「…はい?」
「だーから、好きな奴だよ。ラブダーリンだよ。俺が聞いた話によると、おまえ3年のなんつったけ…ほら、生徒会長」
「佐藤拓巳?」
「そう、そいつと付き合ってんのか?」
「いえ、ただの幼馴染です。」
たっくんと付き合ってると誤解されるのはよくあることだ。けどまさか先生にも誤解されてるとは思わず、内心びっくりとした。
「マジでか!」
いきなり声のボリュームが上がり、先生の声は職員室中に響いた。そしてぎろり、と睨む学年主任の目にさすがの月本先生も気づいたのかひとつわざとらしい咳払いをする。そして満面の笑みを浮かべ、また小さな声で私に言った。
「みょうじ。ひとつ良い事を教えてやろう。」
「…なんですか?」
「水嶋はいい男だぞ。」
それだけ言うと私の肩をポンポンと叩いて、先生は鼻歌を歌いながらフジコ先生のデスクに歩いて行った。
***
「失礼しました。」
職員室の扉を閉める前にそう一礼して、静かに閉めた。
「水嶋はいい男だぞ。」
月本先生は、なんで私にそんな事を言うのだろうか。
そりゃあ水嶋くんはかっこいい男の子だと思うし、優しいことも知ってる。
だけど何で私に…?
ああ、もしかしたら月本先生は私が思っているよりももっと良く出来た先生で、私が男子生徒とうまく接すれないことを知った上で言ったのかもしれない。
だけど何で水嶋くん限定なんだろう?
でも、そう、たぶんきっと先生は水嶋くんに絶大なる信頼を置いてるのかもしれない。いや、待てよ。でもやっぱりなんでそんなことを私に言うんだろう。
考えれば考える程わけがわからなくて、もうほんと
「なまえ!まえ!」
そんな声が聞こえたと思ったら、急に体を後ろへと引っ張られる。瞬間香ったすこし甘い匂い、そして背中にぬくもりを感じた。
「あっぶね、」
どきん、と心臓が飛び跳ねたのは、首を向けたすぐそこに水嶋くんの顔があったからで。
声があんまりにも耳元で聞こえたからで。後ろから抱き締められてるような姿だったからで。
「え!えっ!?みみみみ水嶋くん!?」
「ちょ、前見て。前」
「まえ?…わっ!」
そう言われて前を見れば、そこ一面壁だった。もし水嶋くんが止めてくれなかったら、もちろん直撃してたんだと思う。
「ほんと危なっかしいね。」
くすくす笑って、私から離れる水嶋くん。
背中にあったぬくもりが離れたことに息を下ろしたのにも関わらずまだ心臓はうるさいまま。きっと顔も赤いまま。そんな顔を見られたくなくて少し俯きながら、水嶋くんにお礼を言った。
「あ…ありがとう、助かりました。」
「んーん、いいよ。学級日誌もう取りに行っちゃった?」
「あ、うん。水嶋くんは…まだ部活中?月本先生なら職員室にいたよ」
水嶋くんの格好はまだ練習用のユニフォーム姿で、こめかみに汗が伝うのが見えた。
「部活中は部活中なんだけど、さっきグラウンドの横を通るなまえの姿が見えて日誌取りに行くのかなーって思って追ってきたんだけど、遅かったみたいだね。」
…月本先生が言った言葉は本当だ。水嶋くんは本当に優しくていい人。朝からこんなに素晴らしく和やかな気持ちになれたのは初めてかもしれない。
「う、ううん。ただ水嶋くんが野球部だってこと知ってたから、部活ない私が取りに行くべきだと思って…」
「そっか、ありがとう。」
にっこりと笑って、こめかみの汗を腕で拭う。そんな仕草すら爽やかにみえて、輝いてみえて、仕方がなかった。
「じゃあさ、なまえは日誌係で、俺は黒板消し係にしよう」
背の低いなまえじゃ高いとこ届かないしね、なんて少し意地悪そうに笑う。
この笑いかたを見るのは何回目だろう。優しく笑うときと、ちいさな悪戯っ子のようにわらうとき。
「じゃあ俺、部活戻るね。」
そう言って去ってゆく水嶋くんの背中が、どうしてだろう。
ちいさな頃よく見つめていた、彼の背中と重なって見えた。
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