兄が死んだ。
訃報が届いたのは例年より梅雨入りが早く、長きに亘り鬱屈した空模様が続いていた日のことだった。
ジトリと湿気を含み重たくなった制服が纏わり付き、帰宅を急かす担任の声が遠くなる。低気圧のせいか午前から鈍く響いていた頭痛は、今や割れんばかりの強さへと変貌を遂げていた。
後のことは、あまり覚えていない。身元の確認のために校舎を飛び出した頃から雨足が強まり、そこから三日三晩嵐のような天候が続いた。
一際大きな雨音が鳴り響いたことでハッと意識が戻る。罠の様子を見てくるとテントを出て行った理鶯さんは、まだ帰ってきてはない様だ。一人きりのテントの中。先程から強まる一方の雨脚に、否が応でも思い出されるのは胸を抉り取られる様な過去の記憶。
ダメだ。これ以上はいけないとこめかみに鈍痛が襲いかかる。もっと、もっと楽しかったことを。
――思い出すのは、遙か遠い過去の優しい記憶。
『名前は花が大好きなんだな。ほら、恥ずかしがってないでこっちを向いてごらん』
あれは母の七回忌だったか、食事会の後に原っぱに遊びに行ったことがあった。普段はいない船乗りの父がいることが嬉しくて、兄と二人はしゃぎながら転がったり、追いかけっこをしたり。手先が器用だった兄は咲いていた花々で冠を作り、私の頭に授けてくれた。
『にあう?』
『うん、とっても。妖精さんみたいだよ』
朗らかに笑う兄の目元が赤くなってたのが不思議で、そっと手を伸ばす。
『にぃちゃ、いたい?』
『……痛くないよ。ねぇ名前、名前はいなくならないでね』
『うん! にぃちゃと、おとさんと、ずっといっしょ!』
それまでどこか不安そうだった兄は、私の返事を聞いてパッと花が咲く様な笑顔を見せる。
ぎゅう、と苦しいほどに抱きしめられた身体。遠くで呼ぶ父の声。お日様が暖かくて、眩しくて。いっぱいの花の香りに包まれて、ただ幸せを感じられたひと時。
(――ずっと一緒って、約束したのにな)
ツンと痛くなる鼻先に、慌ててかぶりを振ったところで突如鳴り響いた轟音に思わず腕を掻き抱いた。どうも近くに落ちたらしいそれに恐怖で口元が引き攣る。
雷を怖がっていた自分を優しく抱きしめてくれたあの腕は、もういない。
せめてもの抵抗に自分用にと用意された柔らかなブランケットを頭から被り、耳元を力一杯抑える。早く過ぎ去れ、早く過ぎ去れとひたすらに念じていると、不意に手の甲を掠めた温度にびくりと肩が震えた。
「すまない、脅かすつもりはなかった。小官のいぬ間に何かあっただろうか」
「理鶯さん……!」
寒いか?5月とはいえまだ冷えるからな、なんて見当違いなことを言いながら雨具を脱ぐ彼に張り詰めていた気が緩む。
さぁこれを、と差し出されたマグカップを受け取ると入っていたのは温かなココア。以前好きな飲み物を伝えたことを覚えていてくれたのか、はたまた偶然か。何にせよありがたいことには変わらないのでゆっくりと口元に運ぶ。
「ありがとうございます、雨がひどいので少し心配していました」
「む、このぐらいどうと言うことはない。しかしこの雨で帰るのは厳しいだろう……貴女さえよければ、今日は泊まって行くといい」
どうだろうかとこちらを伺う眼差しにこくりと頷くと、少し驚いた顔で目元を瞬かせる彼。どうしたのだろうと思い首を傾げると、ゆっくりと目元に伸ばされる指先。
「やはり何かがあったのか。目元が赤くなっている」
「あ、いやこれは……」
「すまない、心細い思いをさせてしまっただろうか。無理にとは言わないが、小官に話せることなら話して欲しい」
「いえ、あのですね、っ!」
真剣な眼差しでこちらを見つめる彼に訂正をしようとした瞬間、轟く雷鳴。
ひゅっ、と無意識に引き絞られた喉から空気が漏れたのが分かった。身体の先からじわじわと失われていく温度に感覚すら危うくなる。こわい、こわい。兄を連れて行ってしまった日の雷鳴が脳裏を掠めた刹那、ぐいと身体を引き寄せられる。
トン、トンと一定のリズムで背中を優しく叩かれている。包み込むように回された腕の中で、一拍置いてようやく抱き締められている事実に気がついた。
「理鶯、さん……?」
「あぁ」
再びの雷鳴。意思に反してビクつく身体は、先ほどよりも強い力で抱き締められた。
「先程ここから離れた場所に避雷針を立ててきた。怖がる必要はない。必ず貴方を守ると誓おう」
静かに、けれど力強く囁かれた低音に涙腺の緩みを促された。堪えきれず溢れた滴は、重力に従って彼の胸元を濡らす。優しいリズムと伝わってくる確かな体温。きっと今ここが世界で一番安心できる場所なのだ。そう思ってしまいそうなくらいの、とびっきりの優しさに包まれ自然と瞼が下がっていった。
「りぉ、さん」
「おやすみgood girl、良い夢を」
久しぶりに見た夢は、暖かな初夏の色していた。