05. After the rain


(雨上がり)


 昨晩は酷い雨だった。
 生憎の空模様で星を確認することは出来ないが、今はおそらく4時を回ったところだろう。雨音も幾分落ち着いてきたとはいえ、日課のトレーニングは諦めた方が良さそうだ。
 何より、腕の中の暖かなぬくもりを離すわけにはいかない。昨夜、雛鳥の様に震える彼女を無意識に腕へと迎え入れてしまった。控えめながら体をこちらに預けてくれた時に芽生えた明確な庇護欲。その感情は強い使命感となって、夜が明けた今においても拘束を緩めるには至らなかった。
 すやすやと安心しきった顔でこちらに身を預ける彼女に、思うところが無いわけではない。男にこんなに簡単に、とはした側の己が言えた話ではないが、ほんの少し残念に思う。意識してはくれないのか、と。
 身勝手な感情が脳を支配しそうになる予感に嘆息を一つ。目も冴えてしまったので、未だ腕の中で眠る彼女を眺めることにした。
 柔らかな角度を描く眉、ほんのり色付くまろい頬に、ツンと主張する小さな鼻。少し開いたあどけない唇からは、気持ちよさそうに寝息が漏れている。
 長いまつげに縁取られた大きな瞳は今は閉じられているが、彼女の瞳を見るのが一等好きだった。
 彼女のために用意した厚手の柔らかなブランケットは、まるで赤子のくるみの様に彼女を覆っていた。
 ……ブランケット越しでなく、直に彼女を迎え入れていたら、ここまで胸中穏やかに眠りにつくことは出来なかっただろう。そうでなくとも、意識を夢の世界に飛ばした後の彼女に対して理性を働かせ続けるのには、かなり苦労したのだ。
 おおよそ彼女には聞かせられない様な考えを巡らせていると、ふふ、と半ば溶けたような微かな笑い声。薄く笑みを浮かべている彼女に、ホッと息をつく。良かった、もう怖くはないのだな。
「名前、夢をみているのか」
 柄にもなく嬉しくなり、思わず彼女の柔らかな頬に手を滑らす。陶器のように滑らかで、真綿のようにふんわりとした触り心地のそれに、腹の奥で獣が唸る。
 これ以上はダメだ、待ったをかける心情とは裏腹に、指先は朱く色づいた口元をなぞり。
「……お兄ちゃん……」
 不意に彼女の唇から溢れた言葉に咄嗟に距離を取る。
(今、何を)
 自分は、意識のない彼女に、何をしようとした。
 鼓動が激しく胸を叩く。一旦落ち着こうと、抱き締めていた腕を離しゆっくりと彼女から身体を引いた。
 自制が効かぬことなど、過去に一度たりとてなかった。軍の解体から気が緩んだか。猛省と自戒を込めて拳を固く握りしめていると、悲しげな色を含んだ彼女の声が微かに聞こえた。
 見やれば、先程とは打って変わって苦しげに眉根を寄せる彼女の姿。まだ起きてはいないようだが、思わず彼女の名前を呼びかける。
「名前、どうした。大丈夫か」
「……って、待って……置いてかないで…おにい、ちゃん……」
「名前!」
 肩を掴んで軽く揺さぶれば、ゆっくりと大きな瞳が開く。薄らと涙の膜が張った潤んだ視線が暫し彷徨った後、こちらを捉えた。途端安心したようにホッと息をつく彼女。
「理鶯さん……ごめんなさい、私、今夢を……」
「気にすることはない。急に魘され始めたので起こしてしまったが、良かっただろうか」
「はい。ありがとうございます……助かっちゃいました」
 えへへと笑う彼女に安心しホッと胸を撫で下ろす心地だったが、引っ掛かっていたことを尋ねる。
「名前には、兄弟がいるのか」
「え……あぁ、私何か言ってましたか……」
「先程うわ言のようにお兄ちゃん、と呼んでいた。盗み聞く形になってしまってすまない」
「ふふ、良いんです。……理鶯さんが言う通り、私には兄がいました」
 過去形で終わったその言葉に彼女を見やれば、つい、と交わる前に逸らされてしまう眼差し。
「……すまない、軽率だった。誰にでも秘密にしておきたいことは一つや二つはある、無理に話してくれなくても大丈夫だ」
「……いえ、良いんです。理鶯さんになら……聞いて下さいますか?」
 ゆっくりとこちらに向けられた眼差し。貴方の唇から紡がれるなら、どんな話だって聞こう。了承の意を込めて微笑めば、ぽつりぽつりと記憶を辿るように彼女は話し出してくれた。
 
 歳の離れた兄がいたこと。父は船乗りでずっと家にいないこと。母は自分を産んですぐに亡くなってしまったこと。境遇も相まってか、それはそれは仲睦まじい兄妹であったこと。……第三次世界大戦の折に、戦火に巻き込まれ兄が亡くなってしまったこと。その時に続いた嵐のせいで、今でも雷が苦手なこと。
「……よくある、つまらない身の上話です。この年になるのに雷が苦手なんて、本当は恥ずかしいんですけどね」
 髪に手をかけ困ったように笑う彼女は儚さで満ちていて。このまま消えてしまうのではないか、と馬鹿げた想像をしてしまうくらいには不安になるものだった。思わず彼女の手を取る。
「そんなことがあったのなら、苦手で当然だ。すまない、小官がもっと気を配るべきだった」
「ふふ、理鶯さん、謝ってばっかりです」
「む……」
 クスクスと笑う彼女に釣られて頬を緩めれば、ふと向けられる真剣な眼差し。
「理鶯さん、聞いてくれてありがとうございました。少しだけ、胸のつかえが取れた気がします」
「……あぁ。貴女の気持ちを少しでも晴らせたのなら僥倖だ。喉が渇いただろう、ハーブティーでも淹れよう」
 立ち上がり、テントの入り口に手をかける。刹那、差し込んでくる日差しは初夏の色をしていて。
「わぁ!空、とても綺麗に晴れましたね」
 なんだか嬉しい、と頬を染めて傍に立ち微笑んでくる彼女に、どうしようもなく愛しさが募る。
 この笑顔を守りたい。この先どんな苦難や悲しみが貴女を襲おうとも、薙ぎ払える唯一の剣でありたい。
 
 あぁ、と頷き、静かな、けれど確かな決意と共に彼女の肩を抱く。青々とした五月晴れの空が、どこまでも続いていた。




- 6 -

*前次#

ページ:


戻る

topへ