「写真を撮らせてくれないか」
そう言われたのは、6月に入ってから直ぐのことだった。梅雨入りの前の貴重な日差しを受け、水やりを終えたばかりの軒先のゼラニウムが煌めいていた。
「写真、ですか」
「あぁ。左馬刻からカメラを譲り受けてな……もし良ければだが、貴女を最初の被写体にしたいと思った」
衒いなくそう告げる彼の横顔を眺める。日差しを受け彼のふわふわとした赤毛は燃えるような色を宿し、彫刻のように深い彫りより真っ直ぐに伸びる鼻梁からはまるで美術館にいるような気にさせられる。澄んだ蒼い瞳から感情を読みとることは叶わなかったが、彼はひどく穏やかな空気を纏っていた。
「私で良ければ」
「……!本当か、感謝する」
彼の初めてになれる。嬉しさにぽろりと了承が零れれば、彼はこちらを向いて嬉しそうに表情を緩ませた。同時に、重なる左手。すり、と指の間を撫でられ絡められる長い指先に顔に熱が集まるのが分かった。
あの日、桜が満開だった日。ただのお客さんだった彼との距離が縮まってしまった日。あれ以来、変わらぬ頻度で訪れる彼は、時折こうして触れてくる様になった。アメリカではこれが普通なんだろうか?なんて頭を過ったりするけれど、貴女にしかしないと言われた言葉が忘れられなくて。
どうして私だけなんですか、貴方にとってどんな意味を持つ行為なんですか。……特別だって、自惚れてしまってもいいんですか。聞きたいことはいつもぐるぐると追いかけっこをする感情に飲み込まれて、音になる前に霧散してしまう。残るのは、ただ顔に熱を集めながら彼の一挙手一投足に翻弄される私だけで。だから、このまま甘い波に攫われまいと投げかけた話題で、まさかこんな思いをするなんてこの時の私は毛程も思ってなかったのだ。
ピピ、と鳴り響くアラームを手探りで止める。昨日散々冷やしたせいか瞼の腫れは微々たるものだった。
(あぁ、良かった)
鏡に映った己を眺めながら、蘇ってくるのはまだ一日も経ってない記憶で。
「そういえば、理鶯さんはどうして不便な場所でサバイバル生活をされているんですか?」
何の気のない問いかけのつもりだった。しかし心の何処かでずっと引っ掛かっていた問いでもあった。答えは返ってこず、ただ、問いかけた瞬間彼の纏う空気がピンと張り詰めた物になったことだけがまざまざと分かった。
「……ここでは少し、憚られるな。中にお邪魔してもいいだろうか」
「?……えぇ、勿論です」
離された右手に残る温度は、吹き抜けた風によって直ぐに攫われてしまう。何故かそれをとても悲しく感じてしまう自分がいた。
蒸らし終えたポットから漂う豊かな茶葉の香りが室内を満たす。花を売るスペースとは別で、レジの奥の扉の向こうに喫茶ルームが広がっていることを初めて知った彼は、目を丸くしたあとそれは嬉しそうに目を細めた。
「お招き頂き感謝する。ここは貴女のプライベートルームなのだな」
「お昼過ぎになると、ここの喫茶ルームも常連さん向けにたまに解放しているんです。とは言っても殆ど趣味の様なものなんですけど」
左馬刻さんもいらっしゃいます、と続けると、ふむ、それは……妬けてしまうな。なんて至極真面目にいらえるものだから笑ってしまった。
出来上がったばかりの紅茶を彼に差し出す。今日は香り高いアールグレイにエルダーフラワーをブレンドしたものだ。ほぼ2mある男性が小さなカップを手に取る姿がなんだかアンバランスで微笑ましくて。笑みを溢しながら向かいのソファに同じ様に腰掛けた。
「……小官が元軍人だという話は以前したな」
「ええ。海軍さんだったんですよね」
「言の葉党による先のクーデターで軍が解体したことは貴女も知っているだろう。……小官は、軍の再興を信じている。故に今もこうして一人諜報活動を続けているんだ」
一拍、全てを遮断したかのような感覚に陥る。カップを取り落とさずに済んだのは、ただの偶然でしかなかった。軍の、再興?
開きそうになる記憶の蓋を無理矢理に押し込める。だめ、彼がまだ喋っている。いつもなら心地よく響くバリトンは、身体を通り抜けて足元を這うばかりで何一つ意味を拾えなかった。
「……というわけで、小官は軍を再興してみせると決めている。必ずだ。……名前?」
名を呼びかけられたことで弾かれた様に顔を上げる。笑え、笑え。
「……理鶯さんなら、きっとできます」
必死の甲斐あってか、自然にいらえることができたと思う。
「……顔色が優れない様だな、無理をしていないか?」
「いえ、何ともありませんよ」
「……貴女がそういうのなら」
流石に顔色までは取り繕えず、気取られてしまった様だが不承不承という体で納得してもらえたことにホッと息を吐く。話を変えよう、彼の前でこれ以上ボロを出すわけにはいかない。
「お写真、いつにしましょうか」
「!今すぐにでも、と言いたいところだが店があるだろうしな、貴女に合わせよう」
「でしたら明日は如何でしょう。定休日ですし、丁度予定も入ってませんので」
「ふふ、あぁ。場所は小官に任せて貰えないだろうか」
そのままトントン拍子に話は決まり、準備があるからと彼は上機嫌で帰っていった。店のドアが閉まった瞬間、張っていた気が緩まったのか気がついたら蹲っていた。長い、長いため息が肺から漏れ出る。折れる膝を叱咤し何とかその日一日の仕事を終え帰宅したが、自宅に戻ってしまうともうだめだった。
(軍の再興、だなんて)
蘇るのは兄と最後に会った日。彼もまた軍属で、志願兵だった。父の反対を押し切りこの国の平和を守ると意気込んで青空の下旅立って行った兄は、ドッグタグと片腕だけを残しこの世を去った。遺言はおろか、末期の水さえ、取らせてはもらえなかった。
「うっ……く」
殺しきれない嗚咽が喉の奥からまろび出る。震える吐息と頬を幾重にも伝う生暖かい雫が、酷く煩わしかった。そうして、泣いて、泣いて。
アラームのリマインド音でハッと意識が戻る。理鶯さんとの待ち合わせにはまだ余裕はあるが、準備は早くするに越したことはないだろう。ぼんやりとした頭のままお気に入りのワンピースを手に取り、メイクを施す。折角ならネイルもしようとボトルを手に取ったところで、不意に彼の言葉が頭に蘇った。
『貴女には、眩しいレモンイエローがよく映えるな。とても好ましく思う』
無意識に握りしめていたそれは、普段なら選ばないはずのレモンイエローで。微かに戦慄いた唇から、は、と息が漏れた。
夢中になる前に、分かって良かった。彼はきっとどこまでも軍人で、私はただの平凡な一般人で。いつかは海に還ってしまうその人を想い続けるなんて馬鹿げてる。……望まなければ、欲しなければ、失うものなんてない。二度とあんな思いはしなくて済む。
レモンイエローを棚に戻し、代わりに桜色を指先に咲かせる。自覚した瞬間に終わる恋なんて笑えないなぁ。自嘲の笑みを形作る唇に色を乗せ、待ち合わせのみなとみらいへと足を向けた。
「こちらだ、名前。ふふ、愛らしいな、とても良く似合っている」
「わ、お待たせしてすみません、理鶯さん……?」
果たして待ち合わせの5分前に到着したが、彼は既にその場にいた。声を掛けられるまで気づかなかったのは、いつもの軍服ではなく私服を纏っていたからだ。モデル顔負けのスタイルで着こなされる服達はどこか誇らしげで。高鳴る鼓動を戒める様に強く拳を握りしめた。
「仕事着以外の貴女は初めて見るな……小官は幸せ者だ」
目元を染め嬉しそうに笑う彼は行こうか、と流れる様に手を差し出しエスコートをしてくれる。これじゃあまるでデートの様で。努めて平気なフリを装って彼に身体を預けた。
船着場にはクルーザーやボートが繋がれ、その先にはファンネルカラーが特徴的な国内有数の巨大客船が停泊しているのが見えた。
「あ、UW旗が上がってますね!向かいの客船が出港するのかな」
思わず声を上げると、彼が目を丸くして此方を見ているのが分かった。
「……分かるのか?」
「意味は御安航をお祈りします。ですよね。返答旗はUWT」
ふふんと胸を張れば、途端に破顔する彼。片手で顔を覆う様にしてクツクツと笑う姿は初めて見るもので、今度は此方が目を丸くする番だった。
「返答旗まで知っているとは畏れ入った。そうか、貴女の父上は船乗りだったな」
「こう見えて昔からお船や海の話は熱心に聞いてたんですよ。私も船に乗る!って言った時は大反対されちゃいましたけど」
懐かしいなぁ。なんて零しながらえへへと笑えば、カシャリと鳴り響くシャッター音。驚いて彼を見やれば、いつの間に取り出したのだろう、小さめの一眼レフが手に握られていた。
「もう!撮るなら言ってください」
変な顔してなかったかな、なんて恥ずかしさで熱くなる頬を両手で包む様に隠せば、ややあって噛み締めるように溢される言葉。
「……好きなものを話す貴女を、残したいと思ったんだ」
そうして、手元のカメラから上げられた眼差しは、とても愛しげで。
「貴方の好きなものと、小官の好きなものは同じなのだな。……とても、嬉しい」
真っ直ぐに落とされる言葉は、容赦なく鼓膜を突き抜け鼓動を震わせて。取るに足らない些細なことだ。そんな些細なことが、同じ様に嬉しいと感じてしまう。
(あぁ、やだなぁ)
これ以上、好きになんてなりたくないのに。諦めなきゃいけないのに。きゅ、と指先を握り込んで顔を上げれば、再度鳴り響くシャッター音。
「!」
「今日は最後まで付き合ってもらおう」
悪戯っ子の様な顔でそう告げる彼に何も言えなくなってしまう。手招く彼に従い傍に寄れば、今しがた撮ったばかりの写真を見せてくれた。
そこに写っていたのは、頬を赤く染めながらも幸せそうな雰囲気を隠しきれていない自分の姿。見る人が見れば、レンズの先にいるのがどんな人物かなんて言わなくても分かってしまうだろう。
学生時代、同じ様な顔をした友人を何人も見てきた。いつもそれが羨ましくて、けれど臆病な自分にはきっとずっと縁のないことだとも思ってて。
(恋してる、顔だ)
私、理鶯さんの前でこんな顔をしてるんだ。自覚と共に息苦しさと痛みが胸を襲う。心の何処かでずっと気づいていた、気づかないフリをしていた。きっと私、一目見た時から貴方のことが。
その先を言葉にすることは、この先も叶わないけれど。もしいるのなら、神様。
(ただ好きでいるだけなら、赦されるだろうか)
どうか気づかれないように。刺す様な痛みと祈りの様な願いを小さな胸いっぱいに湛えて隣に立つ彼を見上げる。
遠くで、出航を知らせる汽笛が低く鳴り響いていた。