名前に会えなくなってから、一週間が経った。
息つく暇もなかった日々も漸く落ち着きを見せ始めた頃合いで、デートの時間をずらして欲しいと連絡が入ったのは昨晩のこと。聞けば大切な用事が出来たというので、少々残念ではあったが、後3日もすれば愛しのかの人に会えるのだと思えばそれも瑣末なことだった。
(――だが)
束の間の休憩が与えられた理鶯は名前とのトーク画面をそれこそ穴が開くほどに眺めていた。デートの時間調整の後に名前から来た文面とそれに対する己の返答に思わず眉根を寄せる。
(何か、間違ってしまったのだろうか)
突然の過去の恋人についての問いかけに、暫く考え込んでしまったのがいけなかったか。正直もう、当時の恋人らに向けていた想いなど定かではないのだ。勿論付き合っていた当時は其々を愛していたし、誓って不実なことはしていない。
けれど、今となっては名前に対するそれと比べてしまえばまるで児戯に過ぎなかったのだろうというのが理鶯の本音だった。
(小官は、貴女以外見えていないというのに)
常より有り余る程に溢れる愛は、未だ伝え足りてないのだろう。画面に映る通話には至らなかったと意味する表示がそれを如実に表していた。
いけない、と頭を振れば窓辺に飾られたコスモスに気が付いた。レモンイエローのそれはどこか名前を思わせる様で、思わず写真を撮る。
コメントを添えて送信したところで、左馬刻から声が掛かった。あぁ、と返事をし愛用のライフルを背負い直す。
(帰ったら、余さず伝えよう)
この胸の内から溢れてやまない愛を。温度を、慈しみを。その為にも、目の前の責務を正しくこなす必要がある。
さぁ、ここからは作戦行動の時間だ。
次に前を見据えた理鶯の瞳には、力強い兵士の意志以外何一つ残されていなかった。
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ブブ、とスマホが震えたことに気がつき手に取る。表示を見れば理鶯からで、名前はヒュッと息を飲み込んだ。
恐る恐るトーク画面をタップすれば、そこにはシンプルだが質の良い花瓶に挿してあるレモンブライトの写真と、コメントが添えられていた。
『詳しい場所は言えないが、任務先で見つけたものだ。花を見かける度に貴女のことを思い出す』
『どうか帰りを待っていてくれ』
……昨晩のことを、責める文はどこにも見当たらなかった。どこまでも慕情が滲む文面に、嬉しさと同時に強い自己嫌悪が胸を渦巻く。なんて返そうか暫く迷った後で、数度画面をタップし、トーク画面を閉じた。
物思いに耽りそうになったところでそうだ、と思い出した様に別のトーク画面を開いた名前は、そのまま電話をかけ始めた。通じぬままコール音が五回聞こえ掛け直そうかと思ったが、電話を切る寸での所で繋がったそれにホッと胸を撫で下ろす。
「みきちゃんごめんね、今大丈夫だった?」
「へーきへーき!ごめん今洗い物してたんだ!」
電話口の向こうからは快活な友人の声が聞こえて思わず口元が綻んだ。作業中であろうみきこの手を煩わせるわけにもいくまいと、早速本題に入る。
「みきちゃんのとこの喫茶店、日曜って営業してたよね」
「してるよー!おっ、さては毒島さんとデート? デート?」
「ふふ、残念ながら違います。良かったら二名で一三時に予約できないかなって思いまして」
「なーんだ、ざんねーん。予約出来ると思うよ、今店長に聞いてみるね!あ、ランチでも女子会プランあるけど使う? 今おすすめなんだ〜」
「あ……うーんと、それは使えないかな……」
にこやかに話すみきこの言葉にうっと言葉を詰まらせれば、僅かに電話口の向こうの気配が変わった気がした。気の所為だろうか。
「あ、なるほどなるほど……うん、今聞いたら予約出来るみたい、その日私も出勤日だしお待ちしてるね〜!」
「わ、ありがとう助かります!みきちゃんに会えるの楽しみにしてるね」
予約できたことに安心した名前はそれじゃあと通話を切った。電話口の向こう側で何かが始まろうとしていることは知る由もなく。
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「……」
「御友人からですか?」
手元に握ったスマホを見つめたまま動かない恋人を訝しむ様に幻太郎は視線を向けた。
「うん。……幻太郎さぁ、名前分かるよね」
「あぁ、花屋の主人の。彼女からでしたか」
「あの子、確かお父さんが船乗りで、滅多に帰ってこないらしいんだよね」
「へぇ、そうなんですね」
「非公式でファンクラブ出来るくらい人気だったけど、佑がガードしてたから親しい男友達がいるって話も聞いたことないし、親戚との付き合いもあんまりないって言ってたんだよね」
「ははぁ。……男と二人で逢瀬をするとでも連絡が入りましたか」
「……相手、毒島さんじゃないっぽいんだよねぇ……」
「でしょうね」
眉根を寄せ絞り出す様に零した言葉にそれはそうだろうと返事をすれば、みきこは何でわかったの!? と思いっきり顔を此方に向ける。
どうやら勢いをつけ過ぎた様で痛!と首を摩る姿におやおやと手にしていたどら焼きを渡せば、みきこはありがとう……?と首を傾げながら受け取った。いや受け取るんですね。幻太郎は思わず口元に笑みを浮かべた。
「貴女の様子と話振りからそのぐらいの察しはつきますよ」
「ねぇ、これってさぁ……」
「ま、男でしょうね。親戚も友人の線も薄いとなれば、特別な感情を抱いている相手なのは間違いないかもしれません。例えば、元カレとか、或いは次に乗り換えようとしている相手とか」
「あの子に限って後者は無いと思うけど……いや待ってでも元カレ?彼氏いたことあるの?あの純情培養乙女に?」
「さぁ?そこは小生の知る所ではありませんねぇ」
さて、小休止も終わったことですしと立ちあがろうとすれば、みきこは猫の様に幻太郎の腰に捕まりしなだれかかってきた。
「ねー幻太郎、毒島さんの連絡先知ってたりしない?」
「麻呂があのムキムキの連絡先なんて知るわけないでおじゃ〜。聞いた瞬間にミンチにされてしまうのがオチですよ。ま、嘘ですけど」
尚ももーと溜息をこぼすみきこの脇腹を突けば、ひゃんという鳴き声と共に腰に回された腕が解放される。
「もう一人、仲の良い友人がいたでしょう。そちらに聞いてみたらどうです?」
「佑? そーだねぇ……って幻太郎、どこいくの?」
「この後編集と打ち合わせがあるんですよ。夕方には帰りますので」
今度こそ立ち上がった幻太郎に行ってらっしゃいと手を振れば、戸締りお願いしますよという言葉と共にヒラリと片手で返される挨拶。一人になった室内で、みきこもまたどこかへと電話をかけ始めたのだった。
「あ、佑?実はさぁ……」
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今日の講義は二コマだけだしバイトも無いしで久々にバッティングセンターにでも行くかと佑は朝からウキウキしていた。が、遅めの昼食を食べ終わった段階でかかってきた電話の内容に思わず眉根を寄せることとなる。
「……って訳なんだけど、怪しくない?これ毒島さんに連絡した方が良いよね?」
そう話すみきこの声音には焦りと困惑がふんだんに混ぜ込まれていた。そりゃそうだ、普段の名前を見てれば晴天の霹靂もいいとこだろう。
「夢野先生は?毒島さんの連絡先知らないの?」
みきこの恋人である夢野幻太郎もまたディビジョンを代表するチームメンバーだった筈だ。面識があって然るべしだろうと投げかけた返答も、しかしながら不発に終わる。
「幻太郎にも聞いたんだけど、麻呂はムキムキの連絡先なんて知らないでおじゃ〜って言われちゃって」
はは、と佑は思わず笑いが溢れた。まぁ特段仲良さそうなわけでもないしそうなるか、と内心で納得する。と、なるとだ。遠回りにはなるが、確実な手段はこれしかないだろう。
「んぁー、分かった。毒島さんへの連絡は任せろ。ちょっとアテがあるんだわ」
「ほんと!?助かる〜!何か分かったら連絡して!」
「はいよ、んだらまたね」
通話が切れたことを確認し、別のトーク画面を開く。ピン留めしてあるそれは探さずとも直ぐに見つかった。
『空却ー』
よっと挨拶する猫のスタンプと共に送れば、即座に既読がつく。あいつめ、また修行サボってんな。
『んだよ』
『ちょっとどうしてもハマの人に連絡取りたいんだけど碧棺さんの連絡先まだ残ってる?』
『どうしてまた左馬刻に……ま、お前なら悪用せんだろうしえーわ』
話の早い従兄弟にニヤリと口角が上がる。
『とはいえちぃと待て、話通しとく』
『恩に着る』
ついでに恋人の顔が思い浮かんだ佑は、当然のように続きを打ち込んだ。
『センセに肉奢ってもらいな』
焼肉のスタンプを三つほど送ればやたら圧力のあるOKのスタンプが返される。同じものをもってるが、名前にそんなスタンプあるんだね……!? と慄かれたことを思い出してフッと頬が緩んだ。みきこは爆笑してたな確か。
『おー、後で詳しく聞かせろよ』
同じシリーズの了解! とこれまた圧の強いスタンプを送り返した所で目の前にコトリと皿が置かれる。見れば、皮を剥かれつやつやとした梨が四切れほど乗っていた。
「梨だ!」
「余らせちゃったからあげるわね、まー今日も佑ちゃんいっぱい食べて。腕が鳴るってもんね!」
「へへ、おばちゃんあんがと」
学内の誰よりも先に食堂のおばちゃんと仲良くなれた秘訣は、とにかく食べることだった。優に三人前は超えるおかずの皿をおばちゃんは鮮やかな手つきで片していく。
梨を齧っていると、ブブ、とスマホが鳴った。通知を見てニヤリと笑った佑はぺろりと口の端についた果汁を舐め上げる。
「おばちゃーん!ごちそーさまでした、またくんねー!」
「はーいよー」
最後の一つを口に放り込み梨の皿を返す。食堂を出た佑は先程の通知をタップしスマホを耳に当てる。数コール響いた後、間髪入れずにドスの効いた声が鼓膜を震わせた。
「んだテメェ。どこのどいつだ」
「おっ繋がった」
「あ?女?……あぁ、お前もしかして空却の言ってた姉貴か」
「間違ってないからいっか……そうですこんにちはー。祈里佑でーす」
正しくは従姉弟だが、まぁ姉みたいなもんだろうと勝手に佑は納得した。
「んで、俺様に用ってのは何だよ。くだらねぇ話題なら切るぞ」
「いや、今日は毒島さんに用事がありまして」
「あ?理鶯?」
「ていうのも名前の事についてなんですよ」
「……あいつに何かあったんか」
名前の名前を出した瞬間一段と低く響く声。その冷たさに意図せず背筋がぞくりとした。
「出来れば毒島さんとも直で話したいんですけど、可能ですか?」
「……明日なら理鶯も俺も事務所に戻っから聞けんぞ」
「お、ならそれでお願いします」
「んなら迎えよこすから場所と時間寄越せや」
「はーい、場所は……」
翌日、ヨコハマにある火貂組事務所内。
「つーことはだ。つまり、名前は明後日お前のダチの喫茶店で元カレに会う可能性がたけぇと」
「まぁ、そうなりますね」
持ってきたお土産のういろうのうち一箱を自ら開封し食べ始めた佑を見やった左馬刻は、煙草を咥えたまま深く溜息をついた。隣に座る理鶯は最初に挨拶を交わした後は只管に無言を貫いている。削ぎ落とされた表情は普段と変わらぬ様にも見えるが、決して心の内を読み取らせてはくれなかった。
「つーかよ、アイツ元カレなんかいたのか。俺様はてっきり理鶯が初めてなもんだと思ってたぜ」
顎で隣に座る理鶯を指せば、ういろうを咀嚼し終えた佑は頷く様に猫の様な双眸を左馬刻に向ける。
「最初はそう思ったんですけどね。けどよくよく考えてみれば、私らが名前と出会ったのって大学なんで、高校の時に彼氏が出来ててもおかしくないよなって」
名前可愛いし。と呟き再びういろうに手を伸ばす佑を見る。いやどんだけ食うんだ。さて、どうしたもんかとこちらも新しい煙草に手を伸ばせば、沈黙を貫いていた理鶯が不意に空気を震わせた。
「……小官は、彼女を手放すつもりは毛頭無い。だが、わざわざこちらとの約束をずらしてまで男と会うという事実を見過ごせる程寛容でも無い」
「約束をずらすだぁ?」
理鶯の言葉に眦を吊り上げれば、あぁ、と理鶯は珍しく項垂れる様に頷いた。
「明後日は、元々デートをする予定だったんだ。先日、大切な用事が出来たから会うのは夜からにしてほしいと彼女から連絡があった」
左馬刻はハッと鼻を鳴らしてローテーブルの上に脚をどかりと乗せた。そのまま幾分も吸っていない煙草をぐしゃりと灰皿に押し付ける。
「大切な用事ねぇ……良い度胸だ。俺らの理鶯を差し置いて会う野郎がどんなもんか、見極めてやろうじゃねぇか。オイ、手筈整えられっか」
いつの間にかういろうを食べ尽くしていた佑に視線を向ければ、心得たとばかりに吊り上がる口角。なるほど、肝の座りっぷりと話の早さは流石空却の姉貴ってとこか。
「みきこには私の方から話つけとくんで、30分前に喫茶店に集合しましょうか。住所これです」
「オゥ、サンキューな。理鶯、それでいいな?」
「あぁ。すまない、貴殿には世話になる」
礼儀正しく頭を下げる理鶯に佑はあっけらかんと笑った。
「気にしなくていーですよ。ただのお節介みたいなもんだし」
でもまぁ、と続けられた佑の言葉を聞いた理鶯は、今日初めて表情を崩す。
「名前は、毒島さんのことが一番大切だし大好きですよ」
推測ではなく断定の響きをもって告げられたそれは、不思議と確信させられる力を持っていた。