ム"ーッ、ム"ーッ
長めのバイブ音で目が覚める。
寝ぼけ眼で画面を見れば、着信相手は理鶯からだった。一気に眠気が覚めた名前は慌てて通話ボタンをタップする。
「お、おはようございます」
「おはよう名前。すまない、まだ寝ていたか?」
「いえ、むしろ助かりました。昨日夜更かししちゃって……」
「……そうか」
咄嗟にありのままを伝えてしまい、しまった、と内心で焦る。昨日の今日だ、気まずい沈黙が二人の間に横たわるのをありありと感じた。
「その、昨日の話だが」
「あっ気にしないで下さい!すみません、あの時は酔っていて。おかしなことを言っちゃいましたね」
勝手に聞いておいて勝手に傷つくだなんて、幾らなんでも面倒だと分かりきっている。遮る様に名前が声を出せば、何か言いたげだった理鶯は押し黙った。再び訪れる沈黙。
「あの、他に要件はありますか?」
「暫く、会えなくなる。左馬刻の仕事の手伝いが入ってな」
「そうですか、気をつけて下さいね」
左馬刻の仕事。ヤクザの手伝いという部分が引っ掛かるが、幾ら左馬刻でも理鶯を危機に晒す様な真似はしないだろうと信じたい。
「あぁ。……代わりといっては何だが、来週の日曜は空いているだろうか」
「はい、その日はお店も閉めていますし、問題ありませんよ」
「名前とデートがしたい」
直球の誘いに、否が応でも鼓動は高鳴る。はい、と小さく応えれば、電話口の向こうからは良かったとホッとした雰囲気が伝わってきた。
「詳細はまた追って連絡しよう」
「ふふ、お待ちしています」
それじゃあ、と告げて電話を切る。通話記録が残されたトーク画面を見て、静かに息を吐く。酷い話だ、暫く会えないと言われたことに寂しさよりもどこか安心してしまう自分がいたのだから。
(デートまでに、いつも通りにならなきゃ)
理鶯に恋人がいた。当たり前の事実を事実として認識してしまった今、どうしたって気にしてしまう自分が心底嫌になる。ささくれ立った気持ちを抑える様に、勢いをつけて名前はベッドから抜け出した。
思い出してしまうのが嫌で、夢中で掃除をすればあっという間に時間は過ぎていく。花瓶を置いている台の足裏まで拭いたのだ、一つのチリも残さず磨かれた店内はこのまま年を越せそうな程に綺麗になった。
名前は満足げに腕を組んで頷いたところで、ハッと気づく。今日は新規の客からフラワーアレンジメントを頼まれていたのだ。
(今何時だっけ!)
咄嗟に壁掛け時計を見上げれば、時刻は丁度短針が三を指すところだった。良かった、まだ時間はある。電話で注文を受けた際に取ったメモを見つつ、頭の中で組み立てていく。折角なら、取っておきの組み合わせを。口角が緩むのもそのままに、名前はよぅしと気合を入れて腕まくりをする。
周年祝いだというそれは、長持ちする様に生花ではないもので、淡いグリーンとピンクを基調にとのことだった。メインの花はプリザーブドで華やかに、色々な種類の紫陽花や芍薬、プロテアなどのドライフラワーもミックスしアレンジしていく。くすみ感があるブルーグレーのペイントが施された土台にセットし、サテンのリボンを巻けば完成だ。
(うん、可愛くできた)
折角なら、スワッグも作ろうと思い立ち幾つかのプリザーブドフラワーを手に取る。ガーランドにするのも良いかもしれない。いつかは天井をドライフラワーで埋めようなんて構想を練りながら手を進める。
カラン、とドアベルが鳴ったのは、三つ目のスワッグが完成した頃だった。
「……名前……?」
いらっしゃいませというより先に紡がれた己の名に、手元からハッと顔を上げる。視線の先には、ドアノブを握ったままこちらを見つめる人がいた。
一瞬常連さんかと思ったその人は、黒いスーツに身を包んだ男性だった。癖のある栗色の髪、撫で肩気味の立ち姿。――視線が交わった瞬間に、名前はこのまま落ちてしまうかと思われる程に瞳を見開いた。忘れるはずもない、こちらを見つめる優しい色を宿した双眸。
「……雪くん……?」
微かな囁きは、微笑みを返されたことで確信に変わる。そのままくしゃりと泣き出す寸前まで表情を歪めた彼は、ズンズンと距離を詰めあっという間に両腕で名前をかき抱いた。
「会いたかった……!!」
「っ、」
突然の抱擁に身を強張らせた名前に気づいた雪は、ごめん! と直ぐに謝罪とともに慌てて彼女を解放する。
瞳を白黒させていた名前も、そんな雪の姿にほっとしクスクスと笑い出した。
「本当に、雪くんなんだね」
「覚えててくれたんだな……嬉しい」
「忘れるわけ、ないよ」
私もずっと、会いたかった。そう続ければ、ぐっと息を呑み込む気配。視線を上げると小さく頭を振った雪は店内をぐるりと見回した。
「名前はここで働いてるのか?」
「うん、小さいけどここが私のお城です」
「!そうか……夢が叶ったんだな。凄いよ」
「ふふ、ありがとう」
「本当に凄い、良く頑張ったんだな」
雪があんまりにも優しく笑ってそう言うから。名前はじわりと思わず涙腺が緩みそうになるのを堪え、そういえばと雪がここに来た理由を尋ねる。
「雪くんはどうしてこのお店に……?」
「そうだ、お世話になってる取引先の周年祝いでね。フラワーアレンジメントを頼んであるはずなんだけど……」
「わ、お客様って雪くんだったんだ!」
こちら、如何でしょう。おどけるように準備していた品を差し出せば、雪は瞳を丸くした後思いっきり破顔する。
(あ、目尻が)
笑った時に目尻に三本皺が寄る癖がそのままでいることに気づいた瞬間、名前は強烈な郷愁に身を焦がされた。――そうだ、私達、付き合ってたんだ。ほんの少しの間だったけど、夢や幻なんかじゃない。私、ずっとこの人のことが、好きだった。
「……お気に召してもらえたようで、何よりです」
誤魔化すようにエプロンを握り笑顔でそう呟けば、咄嗟に腕を掴まれる。え、と顔を上げれば、そこには真剣な顔をした雪がいた。
「名前。名前と話がしたい」
痛くない程度、けれどギリギリの力加減で腕に力を込められる。
「僕達、きっと沢山しなきゃいけない話があって、それは今更なのかもしれないけれど。でも、大人になった今だからこそ出来る話もあるんだと思うんだ」
深いコーヒー色の瞳が真っ直ぐに注がれていた。気がつけば、本音は声になって転がり落ちていて。
「うん。私も雪くんとお話がしたい。……たくさん、たくさんしたい話があるの」
名前の言葉を聞き届けた雪は、またあの三本の皺が生まれる笑顔で頷く。会計を済ませた後、それじゃあまた、とドアをくぐっていった。
カラン、とドアベルが鳴った瞬間、ほぅと全身の力が抜けるのを感じた名前は思わずレジカウンターに肘をつく。両手には、今しがた受け取ったばかりの雪の名刺が握られていた。
(株式会社、優凪海運……)
海運、海運。父が船乗りだと話した時、それは嬉しそうに笑う雪の姿が思い出された。雪もまた望む職業に就けたのだろう、ふっと笑みが溢れる。
そのまま名刺を裏返せば、走り書きで携帯の電話番号が記されていた。書かれた数字の癖にすら、雪との記憶は鮮やかに呼び起こされる。
(だめだ、今はもう)
優しい記憶も、全て過去の話なのだから。そう言い聞かせつつ、名刺を仕舞い込む。
初めに視線が交わった瞬間から、跳ねつづねる鼓動には気が付かないフリをして。深呼吸しつつ作りかけだったスワッグに手を伸ばした。
それから数日。
暫く会えなくなる、と告げられた日以来理鶯からの連絡は途絶えていた。本当に忙しいのだろうと思いこちらからの連絡も控えている。……ほんの少しの気まずさも番号を打つ手を遠ざけてしまっていた。
そんなことを思い返しつつ、さて、と名前は花材を手に取っていく。先日作ったスワッグはSNSに掲載した途端あっという間に売れてしまったため、追加注文分を捌く必要があった。
昼食を摂るのも忘れ没頭していれば、カラン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいま……雪くん!」
「やぁ」
片手をヒラリと上げた雪はこちらに近づくと何かの袋を差し出してきた。受け取って中身をみれば、地方の有名スイーツの様だった。
「わ!これ西都の方でしか売ってないやつじゃ……?」
「そ、チーズプリン。好きだろ?」
「うん! でもいいの?」
「甘味好きのクルーがいてね、毎回買ってくるからもう僕はいいんだ。良かったら貰ってくれると助かるな」
「ありがたく頂戴します……!」
嬉しさの余り捧げ物の様に掲げれば、大袈裟だな、と雪は楽しそうに笑った。が、直ぐにその表情はツンとしたものに切り替わる。
「それより、何で名刺渡したのに連絡してこないんでしょうね? 名前さん」
「むむ」
「裏面、気付いてないとか言わせないぞ」
何たって目の前で書いたんだからな。そう続ける唇を尖らせたその表情は久しく見ないもので、思わず口元が綻んだ。
「あ、笑ったな」
「ふふ、ごめんね雪くん、何て電話かけたらいいか分からなくて」
「……恥ずかしがり屋なとこは、そろそろ直した方がいいんじゃないか」
わざとらしく溜息を吐いた雪は、仕方ないな、と苦笑して肩をすくめる。そのまま悪戯っ子の様な顔をしてこちらを見つめた。
「今週の日曜、時間空けてくれるなら許して進ぜよう」
「むむ」
「チーズプリン」
「む……!」
「っていうのは冗談で。欠員が出た影響で東都にいられる時間は余り長く取れないんだ」
「日曜……」
ふと脳裏に理鶯とした約束がよぎるが、この機を逃せば次いつ会って話せるか分からない雪の方に軍牌が上がった。
デートの時間は夜にずらしてもらおう、理鶯さんだってきっと疲れているだろうしと勝手に頭の中で算段をつける。
「わかりました、じゃあ日曜で」
「よし!」
小さくガッツポーズを決める雪につい口元が綻んでしまう。偶に子供っぽくはしゃぐところも、変わってないのだろう。
「時間とお店は私が決めてもいいですか?」
「うん、お願いします。電話しづらいならSNSの情報も渡しとくから、今度こそちゃんと連絡してな」
念を押してくる雪に笑いながら頷けば、絶対だぞ!とダメ押ししてくる姿に思わずころころと笑い声が転がり出る。そのまま二人で一頻り笑った後、常連さんが来店したことでこの場はお開きとなった。
夜、トークアプリを起動する。
いくつか通知を遡って、理鶯の名前をタップすれば、通話記録の直ぐ上に前回のトーク記録が表示される。名前はツキンと胸が痛むのを感じた。
今日、雪と会ってちゃんと分かったのだ。雪のことは確かに好きだったが、理鶯に向ける想いと共に過ごしている日々は自分にとって掛け替えのないものなのだと。恋と愛とは別物だとはよく言ったものだが、今ならはっきりとその違いがわかる。過去の恋は過去の恋で、一緒にいて楽しかったとしても、気持ちが戻ることはないのだ。
ならば、きっちりと終わらせなければ。過去を清算して理鶯に向き合うことが、自分が唯一できるけじめなのだと、名前は強く静かな眼差しで手元を見つつ心を決めた。理鶯との予定を調整すべく指先を画面に乗せる。
『理鶯さん、お忙しい中すみません。今週の日曜のデートなんですが、大切な用事が出来てしまったため夜からでも大丈夫でしょうか?』
時刻は22時を過ぎた頃だが、直ぐに既読がついた。スタンプを送る間も無くぽこん、と新規メッセージが表示される。
『承知した。用事が終わったのなら迎えにいこう、ディナーを共にしようか』
『ふふ、楽しみです』
『小官もだ。待ちきれないな、早く貴女に会いたい。愛している』
そこで、ふと気づく。理鶯はいつも、愛していると事あるごとに告げてくれていることに。
(理鶯さんはどうして私を選んでくれたんだろう、私のどこが……?)
愛されている自覚はある、間違いなく。けれど理鶯の物言いに大袈裟だと思うこともまた事実だった。ハーフだからかな、なんて今まではかわしてこれたけれど、もしかしてこれが理鶯にとっての普通なのだろうか。
自身が選ばれた理由が皆目検討がつかない名前は、急に不安に襲われた。やめておけばいいのに、と頭の片隅で止める自分を無視して指先はするすると画面を滑る。
『理鶯さん、過去のことでもう一つ、質問してもいいですか』
『うん、何だろう』
『お二方のこと、愛してましたか』
祈る様な思いで返信を待つ。実際は数分も経っていないはずだが、永遠にも感じられた。
――馬鹿馬鹿しい。これ以上理鶯を困らせて自分は何がしたいのだろう。
ごめんなさい、やっぱり答えはいりませんと打っている最中にぽこん、という音と共にトーク画面が更新される。
こくりと息を呑み込み、ゆっくりと視線を上げた先で、名前はストンと表情が抜け落ちるのをぼんやりと感じ取った。
『勿論』
肯定の二文字はぐるぐると脳内を駆け巡り、視界を暗くする。同時にかくりと膝が折れ、窓枠に額をぶつけた。
「いた……」
ずるずると座り込んだ名前は、額と目元を圧迫するように強く抑える。それでも、僅かに開いた指の隙間からは留めどなく熱い雫が溢れた。
(そうだよ、だって、理鶯さんだもの)
わかってた。わかってたのだ。理鶯がどこまでも誠実な人間であることくらい。その彼が見初めた相手だ、中途半端な気持ちで付き合う訳がないことだって、少し考えれば簡単に辿り着く答えだと。
――それでも、期待してしまったのだ。愛してるのは自分だけだと、同じ気持ちでいてくれたのなら。
(やっぱり、私じゃ無くても、)
その先は辛過ぎて心の中でも形にすることは出来なかった。喉が焼ける様に熱く、胸は切り裂かれたように激しく痛む。殺しきれなかった嗚咽が押し出される様に情けなく響く中、着信を告げるバイブレーションだけがいつまでも響いていた。