06.4 Until now I have been looking for you.


(例え出会ったのが今でなくとも)


 身支度を整えて家を出るべくドアノブを捻る。ガチャリ、と音を立てて開いたドアの向こうは生憎の曇り模様で、昨晩流し聞いた天気予報を思い出した名前は暫し逡巡した。
(確か夕方から雨降るかもなんだよね)
 今のところ西の空を見た限り大きく崩れそうな気配はないが、備えあれば憂なしだろうと気に入りの折り畳み傘を手に取りバックに仕舞い込む。
 
 今日は漸く理鶯と会える日で、雪との約束の日でもあった。
 先日久方振りに会った雪は、外見こそ変わったものの優しい笑顔は昔のままで。学生時代、付き合っていた頃を思い出し、否が応でも鼓動は高鳴りを覚えた。――けれど。名前は思い直す。どんなに雪との過去をなぞったところで、誰よりも鮮烈に心奪われた恋人の前では、過去の思慕など霞に等しく消え去ってしまうのだった。ただ今はその理鶯への気持ちでさえ、露呈した理鶯の過去の恋人達の存在によって揺らいでしまっているのも事実だけれども。
(それでも、ちゃんと。終わらせなきゃ)
 まだ、何も返せてはいないのだ。人を想う幸せを教えてくれた雪に、感謝と、あの日口にできなかったお別れを。そうして初めて、理鶯との気持ちに向き合えることが出来るのだと。チクリと痛む胸を押さえて名前は静かに瞳を閉じた。
「……よし」
 次に前を向いた時、名前の顔から一切の迷いは消えていた。
 
 待ち合わせの5分前。シブヤ駅のシンボルマークである忠犬の前は、休日ということもあり大いに賑わっていた。
(雪くん来てるかな……)
 今日の格好は道中で伝えてあるから、多分見つけてもらえるだろう。一目惚れして買った鈴蘭のようなスリーブのレーストップスにローゲージのふっくらとしたニットカーディガン、下は甘さを抑えるためにスキニージーンズ。夜は久々の理鶯とのデートだからと気合を入れて、珍しくヒールも卸した。自分の格好を改めて見直し、よし、と頷くと、ぽんぽんと肩を後ろから軽く叩かれる。
 雪だと思い満面の笑みで名前は振り向くが、そこにいたのは見知らぬ男だった。
「…?人違い、ですか?」
 言いつつぽかんと見上げれば、男は途端に破顔する。
「っはは、面白いねおねーさん。その服似合ってるね、これからデート?」
「え、あの、違いますけど…」
「んなら俺とデートしようよ。勿体無いよそんなに可愛いのに」
 男は口元こそ笑みを浮かべているが目元は粗暴な光を宿していた。品定めをするかのような視線に身を竦めて抵抗するが、ぐいぐいと勢いに押されてついには肩まで抱かれてしまった。ジャラリと音を立てる無数のピアス、首から見える毒々しいタトゥーに恐怖で名前は固まる。ぐっと抱かれた肩に力を入れられもうだめかと思ったその時、視界いっぱいに黒が広がった。
「はい、そこまで。人のに手ェ出すなよ」
 左上から聞こえた低い声に顔をそろりと向ければ、男との間に腕を突き出した雪がいた。そのまま腕を回され抱き寄せられれば、男は意外にもあっさりと名前を解放する。
「なんだよツレいんじゃん。冷めたわ」
 ギロリと雪が睨め付けると、途端に興味が失せたとばかりに捨て台詞を吐いて男は立ち去った。ほぅ、と息をつくのと同時に上からも安堵の溜息が聞こえて思わずそちらを見上げれば、随分と近い位置に雪の顔があってピシリと綺麗に名前は固まる。
「大丈夫だったか?ごめんな怖い思いさせて…」
「ゆ、雪くん、近い」
「へ?…っあごめん!」
 ガバ、と音が出るほど腕を突っぱねられて距離取られる。先程とは似ても似つかぬ慌てぶりに名前は瞳を丸くした後ころころと笑い声を上げた。
「って、笑い過ぎじゃありませんか名前サン」
「ふふ、ごめ、ごめんね、ありがとう」
 腕を軽く小突かれつつ一頻り笑ったところで、さて、と名前は雪に改めて向き合う。今日が、過去の日の続きとなる様。一つ深呼吸をしてから微笑めば、そこにはあの日と同じ三本の皺を刻んだ笑顔の雪がいた。
 
「へぇ、結構いい雰囲気の店だな」
 ぐるりと店内を見回す雪に名前はくすりと微笑む。そういえば、雪はインテリアも好きだったと思い出したからだ。
「でしょう。よく作家の先生……あ、さっき紹介したみきこちゃんの恋人さんなんだけどね。その人もここにくるみたい」
「なるほど、確かに執筆も捗りそうだ」
 言いつつメニューを開く雪は目尻をふわりと緩ませて名前に視線を投げた。
「先に注文をしようか。名前はコーヒー苦手だったよな。ココアで大丈夫か?」
「ふふ、雪くん覚えててくれたんだね」
 純粋に好みを覚えていてくれたことが嬉しくて笑い返すと、どこか自嘲するように口元を形作った雪は視線を落とす。
「当然。……忘れたことなんてないよ」
 その表情に微かな翳りを感じて声を掛けようとするものの、雪は直ぐに頭を振って視線を店の奥へと外してしまう。すみません、と雪がよく通る声をあげると直ぐにウェイターであるみきこが注文を取りに来た。ご注文をお取りしますとペンを持つみきこの視線が明らかにそわついていて、名前は苦笑する。
「このハーブティーをひとつと、ココアをお願いします。後、季節のクリームパスタって何ですか?」
「今日はですね〜、サーモンといくらのクリームパスタです。結構美味しかったですよ」
「はは、勤めてる方のお勧めなら安心だ。僕はそれにしようかな、名前は?」
「じゃあ私もそれで」
「かしこまりました、ごゆっくりどうぞ」
 みきこが下がっていくのを眺めていると、じっと雪からの視線を感じる。何?と同じく視線だけで問い返せば、くしゃりと雪は破顔した。
「いーや?……昔から可愛かったけど、綺麗になったなと思ってさ」
「!?」
 突然の褒め言葉に顔が赤くなるのを感じた。せめてもの抵抗に頬を抑えるものの、クツクツと笑う雪には無意味な様で、むむ、と名前は唇を軽く噛む。
「そーゆー照れ屋なとこは変わんないな」
「もう、揶揄わないで」
「はは、ごめんごめん」
 カラン、とお冷の氷が音を立てる。コップの表面の結露を爪先で軽くなぞり、そういえばと名前は口を開いた。
「名刺見たよ、雪くん夢叶ったんだね」
 パチリと目を丸くした雪は嬉しそうに目を細める。ほろりと温かさが滲む眼差しが擽ったい。
「うん。今は各港を拠点にパイロットをしててね。あ、パイロットって言うのは……」
「分かるよ、水先案内人、でしょう?」
「流石。親父さんからの入れ知恵は強いなぁ」
「ふふ、何たって雪くんに船のこと教えてたの私なんだから」
 ふふんと茶目っ気を混ぜて胸を張れば、弾ける様に雪は笑いだす。じゃあ名前が僕の師匠だな、ご指導ご鞭撻の程お願いします、なんて同じ様に戯けて返されるものだから名前もつられて笑い出してしまった。
 
「名前」
 笑い声が落ち着いた頃合いで、静かに名を呼ばれた。その声音にハッとして雪の顔を見ると、真剣な眼差しが真っ直ぐに注がれていて。
「お兄さんが亡くなった時、何もしてやれなくて本当にすまなかった」
 刹那、悔いる深いコーヒー色の瞳が過去の日の雪に重なる。兄を亡くした日から幾日も経たないうちに父方の祖母に引き取られることが決まった。葬儀と引越しの準備に追われ、ロクにさよならも言えないまま、それっきり。
 もう会えない、とやっとのことで絞り出した言葉が、あの日の彼にどう届いたかはわからない。ただ理不尽と後悔、そして悲しみに塗りつぶされた眼差しだけが、強く突き刺さっていた。
「……気にしないで。私たちまだ学生だったし、誰にもどうにも出来ないことだったんだよ」
 仕方ないと、言い聞かせるしかなかった。喪失感に押し潰されそうだった過去。別離を告げた後、ゆっくりと掴まれた腕を離された瞬間が鮮明に甦った。同時に刺された様に胸が痛む。
「それでも、あのまま名前の手を離してしまったことは悔やんでも悔やみきれなかった」
「雪くん……」
 時間薬とはよく言ったものだ。絶えず貫くような痛みも、あれほどまでの苦しみも、いつの間にか平穏に暮らせるほどに癒してしまう。けれど、雪が抱いた後悔は依然として薄まってはいないようで。注がれる眼差しが何よりもそれを雄弁に物語っていた。
「けど、今は違う。もう家庭の事情で引き離されることも、君が傷つくのをただ拳を握りしめて見てることしか出来ないなんてこともない。……だから、名前。もう一度僕と、」
「お待たせしましたー!季節のクリームパスタです!お熱いのでお気をつけて召し上がって下さい!!」
 突如ハリのある声でみきこが注文の品を運んできた。雪は突然のことにぽかんとみきこを見上げたが、ややあって苦笑しながら皿を受け取った。
 どうぞ、と出されたパスタには大振りのサーモンがごろごろと入っていた。フェットチーネにはとろりとしたクリームソースが絡まりつやつやと輝いており、ぐぅ、と腹の虫が目を覚ます。
「美味しそう……!」
 すっかりパスタに気を取られた名前は、またもハっとして照れながら雪に顔を向ける。
「ご、ごめんね。まだ雪くん話してたのに」
「いや、折角だし先に頂こうか。……どうやらガードは手強そうだしね」
 苦笑しつつも小声で付け足された言葉の意味を問おうとしたが、雪の視線は既にパスタに向いている。ならばと同じように名前もいただきます、と手を合わせたのだった。
 
 パスタは見た目を裏切ることなく美味しかった。少食の名前を慮ってか毎回量を調整してくれるみきこの気遣いに感謝しつつ、ホットココアが入ったティーカップを手に取る。口に含めば、じわりとその暖かさが身体に広がる。落ち着いた深みのある甘さに心も解けていく様だった。
 ――今なら。きっと今なら、話せる気がする。
「雪くん、私ね」
 ティーカップをカチャリとソーサーに置く。雪は静かにこちらを見つめていた。深呼吸を一つ。
「短い間だったけど、雪くんと一番近くで一緒に過ごせて楽しかった。初めて出来た恋人が雪くんで良かったって思ってる」
「名前……」
 雪が驚きに瞳を見開き、そして細められた。不思議と心は穏やかに凪いでいて、唇は本心を歌う様に紡ぎ続ける。
「……お兄ちゃんがいなくなって、いきなり転校することになって。ちゃんとお別れの挨拶も、お礼の言葉も言えなくて凄く後悔していたの。雪くん、私のことを恋人にしてくれてありがとう」
 あぁやっと言えた、とホッと胸を撫で下ろした。静かに聞いていた雪は、ゆっくりと頷いた後、視線を下に外す。
「……名前は今、恋人がいるのか?」
 唐突に投げられた質問に、理鶯が頭に思い浮かんだ。けれど同時に、つい先日のやり取りも脳裏を掠める。少し間を置いてコクリと頷いた名前を見た雪は、何かを覚悟するかの様な面持ちで、そうか、と頷いた。
「どんな人か、聞いても良いかな」
「……元軍人で、背の高い大きな人。ご飯を作るのが上手で、人混みが苦手で。穏やかで暖かくて、優しい人」
 ぽろぽろと理鶯を表す言葉が零れ落ちていく。話せば話す程に好きなところばかり浮かんできた。本質が見えていて、意外と表情豊かで。礼儀正しく、自分の信条がブレない、己とは似ても似つかない完璧な人。
「元軍人……」
 呟いた声に視線を向けると、雪は顔を僅かに顰めていた。
「あ、うん……今は軍の復興に向けて、色々と活動しているみたい」
 それとなく口をついた言葉に、雪は今度こそ顔を顰めた。どうしたのだろうと見つめていると、雪は眉根を寄せたままゆっくりと口を開く。
「……君が、名前が幸せならそれでいいと思ってたんだ。久しぶりに会えて欲が出たのは事実だけれど、それでも恋人がいるなら身を引こうと思ってた」
「雪くん……?」
「けれど、相手が軍人なら話は別だ。あまつさえ軍の復興?冗談だろう。……もうお兄さんのことは話したのか?」
 雪の瞳には普段の姿からは想像もつかないほどに燃える様な憤りが宿っていた。気遣わしげに付け足された言葉にゆっくりと縦に首を振る。
 雪は瞳を大きく見開いた後、カップに添えたままだった名前の手を掴んだ。
「本当に君のことが大切だったら、軍の復興なんて考えないはずだ」
 何も、言えなかった。重ねられた手に静かに視線を落としていると再び雪は言葉を重ねる。
「……それでも、その軍人が好きなのか」
 その男に愛されていなかったとしても、と言外に告げてくる雪に、勿論、と答えた理鶯がフラッシュバックする。――そうだね、きっとそうなんだろう。どこか諦めた様な笑みを浮かべた名前は漸く口を開いた。
「好きですけど、どうでしょう。……彼からしたら、誰でも良かったのかもしれませんね」
 それはきっと、私じゃなくても。家庭の事情がなければ、戦果が悪くなければ。理鶯は今でも過去の恋人達と付き合っていたはずだ。もしかしたら結婚だってしていたかもしれない。
「……なら、僕と」
 雪が重ねた手に力を込めた刹那、横から伸びてきた腕によって突如掴まれた手が離される。見覚えがありすぎる黒い指抜きのグローブ。呆けた様に見上げれば、苦しそうに歪められたアクアマリンと視線が合った。
「誰でも良いわけが無いだろう!!」
 浴びせられたのは聞いたことのない声量。ラップバトルでだってここまで叫ぶ理鶯は見られないかもしれない。何故ここに、どうして。聞きたいことは山程あるのに一つとして言葉にならなかった。呆気に取られていると、解放されたばかりの手を握られた。
「俺が愛しているのは貴女だけだ、」
 苦しげな表情のまま、絞り出す様に理鶯は言った。ゆっくりと片膝を突き、握った名前の手を祈る様に眼前に掲げる。
「信じてくれ、お願いだ……小官を、俺を……選んで欲しい」
 じっと見つめられ、告げられた言葉に名前は答えることができなかった。
 ――どうして、どうして。過去の人達だって同じ様に愛していたんでしょう?私じゃなくても良かったはずでしょう。でも、それなら。なんで目の前の彼は、こんなにも苦しそうなの。
 困惑の最中、じわりと視界が滲むのが分かった。
「時間を、ください……」
 涙腺が決壊する前に、何とかこの場を離れたくて。震える声でそれだけを口にした名前は、席を立ち逃げる様に駆け出した。握った手は呆気なくすり抜け、微かに残った温度をただ見つめることしか理鶯には出来なかった。
「困ると泣きそうになる癖、変わりませんね」
 声の主の方を向けば、雪が静かに理鶯を見つめている。宣戦布告、と受け取るべきか。逡巡した理鶯は、静かに頷くだけだった。
「……そうだな、」
「……僕は、これで」
 そう言い席を立った雪は、慌てるみきこを捕まえ会計を済ませると、静かに店内から去っていった。


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 尚も呆然と立ち尽くす理鶯の傍を疾風の如く佑が駆け抜けていく。
「名前は私が何とかする!毒島さんは頼んだ!」
 振り向き様にそう言い残した佑は、脇目も振らずトップスピードで駆け出した。
「頼まれたんじゃ、仕方ねェよな」
「やれやれ。高くつきますよ」
 ぽすり、と両脇から肩を叩かれる感覚。理鶯、と左馬刻と銃兎に名を呼ばれて、ようやく肩から力が抜ける。
「……やはり、彼女は誰にも渡せない。気持ちが伝わってないのなら、届くまで伝え続けるのみだ」
 例え、その過程で傷つけてしまうとしても。先程見た名前の泣きそうな顔を思い浮かべる。まるで迷子の様な、初めて見る顔だった。
 それでも、彼女が失う恐れを抱かなくなるその日まで。いや、その先までも惜しみなく愛を注ぎ続けると、二度目の告白の日に誓ったのだ。
 静かに噛み締める様に呟けば、左側に立った左馬刻からバシンと強めに背中を叩かれる。分かってんじゃねェか、とでも言いたげな素振りに理鶯は苦笑した。
「彼女と、話がしたい」
「ええ、そうですね。まずはそこからです」
「まぁ取り敢えずは、あの馬鹿みてぇに脚の速い女に任せようや。空却の姉貴だ、悪い様にはしねぇだろ」
 二人の言葉に頷きつつ、理鶯は名前の手を掴んでいた左手を見つめる。次は、抱き締められたら良い。そうして彼女に受け入れてもらえたのならば、溢れる程の愛を捧げよう。
 ――そして、もう二度と。離しはしない。
 固く握りしめた拳に、そう決意を乗せより一層の力を込める。過ぎ去った過去の愛は、今こうして彼女と出会うために存在していたのだろう。
「Until now I have been looking for you.」
 ずっと貴女を、探し続けていたんだ。




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