「なら、私の家に来ませんか?」
そんな一言から始まった初めての御宅訪問。しかし家を訪れてから数時間も経たない内に、理鶯は自身の下した安易な決断を後悔することとなるのだった。
事の発端は、つい先日起きた騒動。
雪と名乗る男が現れたことで、愛しの恋人に元彼がいることを知った理鶯は、正直な所気が気ではなかった。雪がまだ名前を想っていると知ってしまっては尚更だ。
佑から引き渡された後有無を言わさず恋人をベースに連れ込んだ理鶯は、まるで赤子を抱く母親かの様に名前を抱き締め離そうとすることは無く。
とっぷりと日が暮れた頃合いで、大人しく腕に収まっていた名前がおずおずと身じろぐ気配を感じた。
「あの、理鶯さん。私明日もお仕事なんです、そろそろ帰らなきゃ」
ぽすぽすと控えめに背中を叩かれるが拘束を緩めてやるつもりなど理鶯には毛頭無かった。代わりにじっと顔を見つめれば、名前は困った様に頬を染め同じ様に見つめ返してくる。
「……小官が、初めてだと思っていた」
「え?」
「恋人が、いたのだな」
微かな葉擦れさえも聞こえてきてしまいそうな程の静寂。混乱が落ち着いた自身の内に渦巻くのは、身の内を喰い尽くさんばかりの独占欲。己にそんな感情があるなんて。情け無いことこの上ないが、押し出される様にまろびでた本心は止まらない。
訥々と紡がれる言葉を名前は黙って聞いてくれた。
「……はい。もう何年も前のことで、お付き合いしていたのはほんの少しの間でしたけど」
どこか懐かしむように視線を外す名前に理鶯はどうしようもなく焦燥感を駆られる。自分だけを見ていて欲しくて、他の誰かの入る余地など与えたく無くて。掬い上げる様に唇を塞げば、驚いた様に見開かれた瞼が自身を捉えるのが分かり理鶯は内心でほくそ笑む。
幼稚で、歪んだ嫉妬心だ。分かってはいるものの受け入れてくれる名前がいじらしく、愛おしく。甘えてこんな時間まで引き留めてしまっている。
(ソルジャーが聞いて呆れるな)
ため息と共に唇を解放すれば、名前は頬を赤らめながらも何か逡巡している様だった。少し間を置いて此方を伺う様に見上げてくる。
「理鶯さん、は、一人で女性の家に遊びに行ったことは?」
「幼い頃なら。一人暮らしをしている叔母の家によく世話になった」
――なら、私の家にきませんか?
告げられた言葉の意味が理解できず、パチリと瞬く。すると名前は照れたように笑って言葉を重ねてきた。
「私も、お家に恋人を招いたことはないんです。だからこれなら二人とも初めてかなって」
先程の言葉の意味を汲んだ上で考えてくれたのだろう。理解すると共に胸が軋むほど湧き上がる愛しさに言葉が詰まる。
「……お邪魔しても?」
「ふふ、勿論。あ、でも今日はダメですよ!折角なら準備させて下さい」
勿論といらえれば、嬉しそうにふわりと笑う名前。先程までの沈んだ気持ちは何処へやら、満足気に微笑んだ理鶯は歌う様に囁く。
「ならば今日のところは大人しく家に帰そう。次の休みはいつだろうか?」
「次は木曜日です、また連絡しますね」
ふむ、四日後か。言いつつ抱き締めたまま立ち上がる。急に抱き抱えられたせいか腕の中から小さく悲鳴が上がるが、そんなのは抗議の内にも入らない。歩けますから下ろして、なんて胸板をぽすぽすと叩いてくる手を取り唇を落とせば、途端に静かになった名前を抱え意気揚々と下山していく。
手土産は何にしようか、どんな服装で行くべきか。小さく手を振りながらマンションの扉が閉まるのを道端から見届けた理鶯は、実に軽やかな足取りで帰路に着くのだった。
それから三日が経った水曜の午後、時刻は17時を回った頃だろうか。理鶯は神妙な面持ちで恋人が営むフラワースタンドの前にいた。
何故木曜でないかというと、誘いを受けた翌日に届いたメッセージが起因している。
生憎狩りの最中で直ぐには気づかなかったが、テントに戻ると端末の画面には名前からの通知を知らせる表示が浮かんでいた。緊急性は無さそうだが真っ先にトーク画面をタップする。
『良ければ木曜ではなく、水曜に我が家に来ませんか?』
こちらを覗き込むくまのスタンプと共に送られて来たメッセージに思わず頬が緩んだ。定休日がズレたのだろうか? 構わない、と深く考えず了承の返答をする。
が、その後届いたメッセージにより理鶯は端末を取り落としかけることとなる。
『実は建物の点検があって、その日の営業時間は15時までなんです。なので、良かったらお泊まりしに来てください』
ぽこん、とハートを飛ばすくまのスタンプ。名前がご機嫌な時に送られてくるものだ。
たっぷり5分、理鶯は固まった。戦場での迷いは命取りに繋がる。しかしここは今のところ敵襲の気配のないベースキャンプで、画面の向こうにいる相手は目に入れても痛くないと感じるほどに愛おしい恋人だ。
……良いのだろうか。常ならばこれはそういうコト=\―つまり、身体を重ねることへの許可だと受け取れるだろう。けれど、他ならない名前のことだ、額面通り受け取るには些か時期尚早だろう、と理鶯は結論づけた。
返信を打とうとした一瞬、雪が脳裏を過ぎる。一等ウブな恋人だから、てっきり自分が初めてだと思っていた。けれどもしかしたら抱かれるのも初めてではないのかもしれない。
(どちらにせよ、大切にすることに変わりはない)
頭を振った理鶯は思い直す。過去は関係ないとまでは言い切れないが、名前とのこれからを紡ぐのは己なのだから。
『了解だ、是非邪魔させていただこう』
自身の打ち込んだ返信を眺めていると、カランと音を立てて頭上のドアベルが揺れる。ドアノブを握った名前は驚いた風に目を見開くが、一瞬後には思い切り破顔する。その大輪の花のような笑顔に理鶯は釣られて笑みを浮かべた。
「びっくりした、お待たせしちゃってすみません。声をかけて下さっても良かったのに」
「いや、ちょうど今来たところだ。もう点検は終わったのか?」
「はい!店仕舞いももう済んでるので、鍵をかけたら行きましょうか」
戸締りをする名前から自然な動作で荷物を奪い取る。慌てて手を伸ばしてくるのを制し腰に手を回せば、諦めたように笑った名前は大人しく身体を預けてくれた。
ガラス張りの二重扉。二つめの扉はオートロックになっていて、いつもはその手前で別れている。少し間をおいて3階の通路から現れた名前が小さく手を振り玄関に入っていくのを、道端から見届けるのが理鶯のルーティンとなっていたからだ。
オートロックにキーカードが翳されるのを理鶯は静かに眺める。ピピ、という電子音の後にガチャリ、とロックが解除された。すかさずドアに手を掛けエスコートすれば、「なんだか不思議な気分」と可笑しそうに名前は笑った。
「さぁ、こちらです」
辿り着いたのは305号室。日当たりの良い角部屋が恋人の暮らす家。流石にここでエスコートをするわけにはいかず後ろで大人しくドアが開くのを待つ。
「どうぞ、上がってください」
ドアを開け此方を振り返った名前はにこやかに微笑む。
「あぁ」失礼する、と声をかけて一歩踏み入れた。促されるままに洗面台で手を洗い、室内に通される。
ホワイトとベージュを基調とし、ゴールドの差し色がきいたインテリア。花が好きな恋人らしく、玄関にもリビングにも様々なスワッグやプリザーブドフラワーが飾られている。
家具もシンプルだが質の良い物を好む名前の拘りが随所に現れていて、理鶯は頬が綻ぶのを感じた。ソファに腰掛けたところでリビングに戻って来た名前に声をかける。
「良い部屋だな」
「ふふ、本当ですか?」
「あぁ、小官は余りインテリアには明るくないが、貴女らしい可憐で洗練された部屋だと思う」
照れた様に笑う名前は麦茶を差し出しつつ嬉しそうに礼を言う。
「好きなものを集めただけですけど、そう言って頂けて嬉しいです。理鶯さん、お腹減ってませんか? もし良ければお作りしますが……」
「そうだな、是非小官に作らせてくれ」「だめです」「む」
間髪入れずに飛んできた拒否の言葉に唸れば、突き出した唇を戻す様にふに、と白い指先が当てられる。
「まだちゃんとご馳走したことなかったはずですよね?私の手料理」
「それは……」
綺麗に引き結ばれた唇の端を悪戯っぽく上げた名前は、「食べたかったら待て、ですよ」と瞳を細めた。一々可愛らしい仕草に脈打つ速度が上昇するのを感じた理鶯は、早々に諦め微笑みながら肩を竦める。良い子だと言わんばかりに指を離した名前は理鶯の頭をひと撫でしてキッチンに向かっていった。
時間にして10分程だろうか、食卓には早くも湯気を上げた色とりどりの品目が並ぶ。
「実は昨晩作っておいたので、温め直すだけなんです」そう言い手際良くカウンターキッチンから食器類を取り出す名前の姿を理鶯は飽きもせず見つめていた。暇潰し用にと差し出された本にも点けられたテレビにも目をくれない理鶯に、やりづらさを感じた名前は何度かチラリと視線を送るものの、慈愛に満ちた表情で微笑み返されるとどうにも言い出せないのだった。手伝いを断られてしまったんだ、これくらいは許してもらわねば。抗議を口に出したところで大方そんな風に返されることは明白で。
これが最後の一品だ。全ての準備を終えた名前はホッと息をつきつつエプロンを外す。理鶯さん、と声をかければソファから立ち上がりダイニングテーブルを見回した理鶯は嬉しそうに瞳を細めた。
「……凄いな、まるで料亭に来たみたいだ」
「お待たせしてごめんなさい、頂きましょうか」
頂きます、と両手を合わせた理鶯に続いて名前も手を合わせる。メインは作り置きしておいた大振りのつくね。大葉とチーズの二種類でどちらも特製のタレが染み込んでいる。出来は上々だ。副菜にはレンコンと豚バラの甘辛炒め、冷奴のじゃこ乗せを用意し、汁物には今が旬の鮭と秋野菜のすまし汁を。良く出汁が効いているそれを飲めば、ほぅ、と思わず吐息が漏れた。
ふと理鶯を見る。無言で黙々と箸を進めている最中で、余り表情は読めない。
「あの、理鶯さん。無理して食べなくて大丈夫ですからね。あれだったら買い置きもありますから」
……もしかして口に合わなかっただろうかと心配になり声をかけたが、漏らされた感嘆の溜息に不安は一瞬にして掻き消えた。
「すまない、夢中になってしまった。買い置き?はは、名前も冗談を言うんだな」
言いつつ再びメインに箸を伸ばした理鶯はパクリ、と残りの半分を一息に口に含んだ。咀嚼し、嚥下する。実に嬉しそうに笑った理鶯は、アクアマリンを細めて此方を見つめる。
「絶品過ぎて世界中に自慢して回りたいくらいだ。小官のために作られたとあれば尚更」
「……理鶯さん、もしかして酔ってます?」
「かもしれない」
照れ隠しに口をついた言葉に涼しい顔で理鶯は嘯く。アルコールなんて飲んでないくせに、とは口に出せないまま、顔を赤らめた名前もまた食事を再開した。
洗い上げた皿を手に取りいっそのこと丁寧過ぎるくらいに水滴を拭き取っていく。絶えず鳴り響いていた水音が無くなった室内は、時折カトラリーが触れ合う音がするだけで、静寂に満ちていた。
先にシャワーを浴びた理鶯は、食洗機に任せると言う名前を押し切って後片付けの真っ最中だった。洗い物をするついでに磨き上げたシンクはピカピカと新品の様な輝きを放っている。
玄関が開いた時、リビングに足を踏み入れた時、ボディソープを泡立てた時。名前が纏う香りの片鱗を立て続けに浴びた理鶯は、何かをしていないと落ち着かなくなってしまっていた。気を抜けば忽ちあらぬ箇所が反応してしまう予感がしたからだ。
と、最後の皿を拭き終わった所でガチャリとドアが開く。引き寄せられる様に視線を向けた理鶯は、直ぐに手元に視線を落とすこととなった。
暑い、なんて言いながらパタパタと顔を仰ぐ名前。施された化粧はさっぱりと落とされ、まろい頬は上気し赤みが差している。
「お風呂上がりました、お片付けありがとうございます」
「あぁ」皿はここでいいか、なんて言いつつさりげなく身体ごと明後日の方向を向く。だが冷蔵庫から何かを取り出しとてとてとカウンターの向かいにきた名前は、カウンターに肘をついて下から此方を覗き込んできた。
「理鶯さん。悪いことしませんか?」
にんまりと微笑んだ名前の手には氷菓と缶チューハイが握られている。いっそ蠱惑的なまでの雰囲気に一も二もなく頷けば、嬉しそうに手を取られソファーまで導かれる。ピタリと寄り添って腰掛ければ、自分から誘ったくせに恥じらう様に名前は身じろいだ。
「これ、佑ちゃん達に教えてもらったんです。アイスボックスと混ぜたら美味しいんだよって」
カラリ、とグラスを氷菓で満たし、その上からトクトクと同じ柑橘系のチューハイが注がれる。もう一つのグラスにも同様に氷菓を入れた名前は、チューハイではなく特徴的なラベルが貼られた瓶の中身を注いだ。スミノフか。
こんな時でも発揮される甘いものが苦手な己への気遣いに、理鶯は胸が温かくなるのを感じた。
「じゃあ、乾杯」カチリとグラス同士を合わせて一気に煽る。ウォッカの焼けるような熱さの後に柑橘の清涼感が追いかけてきた。なるほど、確かに美味い。ぺろりと口の端についたウォッカを舐め上げた理鶯は、隣でグラスを傾ける恋人に密やかに視線を投げる。
普段長袖のパーカーとタイトなスキニージーンズに隠されている素肌が、柔らかなコットンのルームウェアから覗いていた。ショート丈のボトムからは惜しげもなく滑らかな曲線を描く脚が晒されて、同じく半袖のトップスからは白く細い腕が伸びている。時折触れ合う腕の感触にどうにもたまらなくなった理鶯は、誤魔化すように再びグラスを煽った。
暫くしてこてん、と胸元に首を預けられる。アルコールが回ってしまったのだろう、名前、と声をかければとろんとした眼差しが此方をゆっくりと捉えた。
「ふふ、理鶯さん」
「あぁ。理鶯さんだ」
戯けるように返すところころと笑い出す名前。
部屋に入った時もそうだったが、ルームフレグランスに混ざって微かに香る名前自身の香り。抱き寄せ顳顬に鼻先をうずめれば、より一層強く香るそれに理性がぐらつく気配を感じる。
擽ったそうに笑った名前は、ふと「あ、」と声を上げる。どうした?と視線だけで問うと、名前は白魚の様な指先をゆっくりと自分の唇に添えた。
「あの、ここ、は、理鶯さんが初めてですから……」
おずおずと零された言葉。ガツンと、それはもう複数の鈍器でまとめて殴りつけられた様な衝撃が後頭部に、次いで全身に走った。
林檎のように染まった頬に手を当てると、不意に沈黙が降りる。
しじまを破ったのは、何がキッカケだったろう。カランとグラスの中身が音を立てた頃には、理鶯は既に喰らうように唇を重ねていた。慌てて身体の間に入り込んできた小さな両手を纏めて掴み、空いた手でしっかりと首筋を捉える。そうして角度を変えつつ何度も交われば、腕の中からくったりと力が抜けるのを理鶯は鋭敏に感じ取った。
「っふ、ぁ、ン……っ、」
鼻に抜ける様な感じいった声に、脳漿を掻き回される程の興奮を覚える。足りない、と呻く本能に従い小さな口内を蹂躙していくが、貪れば貪るほどに渇きは増していくばかりだった。
覆い被さる様に迫り、軽く力を入れれば驚くほど呆気なく名前の体は座面に背をつく。
唇を離し荒く息を吐き、獣性を隠そうともせず顔を覗き込むと、肩で息をした名前が蕩けた視線でぼんやりと此方を見上げていた。艶かしくつやめく唇は薄く開いて、色づいた首筋の下、誘うように浅く胸が上下する。
――これ以上は、もう。
「理鶯さん……?」
衣服の裾に進む手を止めたのは、不思議そうに此方を見上げてくる大きな瞳。酸欠で潤んだそれに一滴の怯えが滲んでいるのを見とめた理鶯は、ギリ、と奥歯を噛み締めて名前の身体を引き上げ隣に座らせた。
「っ、すまない。少し浮かれていた様だな、」
「いえ……」
グラスの残りを一息に煽った理鶯は席を立ったかと思うと、何やら身支度を整え始める。名前が呆気に取られ眺めている内に、あっという間に荷物を纏めてしまった。
「理鶯さん……?」
ここに来て漸く帰ってしまうのでは、と我に返った名前は慌てて理鶯に駆け寄った。
「帰っちゃうんですか……?」
何かしてしまったのだろうか、もう一緒に、いたくないのだろうか。滲む不安はアルコールのせいで緩みが早まった涙腺を最も容易く刺激する。と、鼻先まで出かかった雫を宥める様に頬にキスを落とされる。ふわり、と屈んだ理鶯に抱きしめられ、きゅうと胸が締め付けられるのが分かった。
「名前、小官はいつでも貴女と過ごしたいと思っている。勿論、今この時も」
だが、と言葉は続けられる。
「どうやら小官はまだ鍛錬が足りなかった様だ。どうか今、この場を引くことを許して欲しい。……貴女のことを、大切にしたいんだ」
内容を理解するまでには至らなかったが、どこまでも優しく、けれど苦しげに最後に足された言葉に名前はコクリと首を縦に振る。満足気に頷いた理鶯は、愛している、ともう一度キスを落とした後帰っていった。
ガチャリ、と音を立てて閉まったドア。暫し呆けたように立ち竦んでいた名前は、ゆっくりと寝室に向かう。片付けは明日にしよう。
アルコールによって誘われた眠気に逆らうことなく瞳を閉じれば、夢の世界へ飲み込まれるのは時間の問題だった。