「「ハ〜〜〜〜〜」」
両者からそれはそれは深く長いため息を吐かれた名前は、思わず肩を縮こまらせた。
月一で定例となった女子会。大抵はみきこがネタを持ってくるのが定番だが、そういえば、と名前が口を開いたことで風向きが一気に変わった。
理鶯さんの様子が何だかおかしかったんですよね、と話し始めた頃合いは興味津々といった風だったみきこと佑は、何故か今は深く眉間に皺を刻んでいる。みきこに至ってはぐぅ……!と呻いて両手で胸元を押さえる始末だ。
「何か外せない用事があったのかな……さっきからどうしたんですか?みきちゃん、佑ちゃん」
「どうしたのっていうか……」
「そりゃあ……ねぇ?」
何事か目配せし合うみきこと佑に首を傾げると、がしり、とみきこに両肩を掴まれる。驚きに目を見開くと、やけに神妙な面持ちで此方を真っ直ぐに見据えていた。
「いいですか、名前チャン。人間の三大欲求って、ご存知?」
「食欲と、睡眠欲と……性欲、ですかね」
「ザッツライ。男性はね、特に最後の項目に対する欲求が、お強いのです」
「……なるほど」
「単刀直入に申し上げます」
ゴクリ、と息を呑む。最大限に眉を顰めたみきこが深呼吸の後口を開く。
「毒島さん、大変我慢されてらっしゃいます」
「我慢……」
「イエス」
重々しく吐き出された言葉。向かいに座る佑も腕を組んだままウンウンと深く頷いていて。
我慢。何を?……性欲を。……せいよくを?
途端に首までのぼせ上がるのが鏡を見ずともわかった。24年生きてきて、これ程までに己の恋愛経験の少なさを呪ったことはないだろう。
「やーっと理解したか、にぶちんめ」
デザートのシフォンケーキを3口で食べ終えた佑は、ストローを咥えながら呆れたようにそう言った。「毒島さんが手を出しづらいのわかるわ……」とはみきこの談。
「あの、でも、き、キスされただけです」
「そーれを我慢してると言っとろうが!家に来て風呂上がってキスだけ!?小学生か!?」
ビシリ、と鼻先を指され名前はウッと言葉が詰まる。
「キスされて、ソファに倒されたかと思ったら、突然帰り支度始めちゃったんでしょ。このまま一緒にいたら襲っちゃうと思ったんだよ」
向かいから納得づくの顔をした佑から投げられた言葉。混乱しながらも思案しようとする気配が伝わったのか、ヒートアップしかけたみきこから力が抜けるのが分かった。ぽす、と肩を掴んでいた手は頭に乗せられそのまま撫でる様に動かされる。
「佑の言ってることが正解だと私も思う。毒島さんの行動とか言動とか、もっかい思い返してご覧?」
優しい言葉にもう一度先日の記憶を攫い直す。
理鶯はやけに片付けに拘っていた。風呂から上がった際、不自然に目を逸らされた。キスの深さも長さも今までの比じゃなくて、このまま食べられてしまうのでは、とその勢いに慄いた途端、行為は中断され。
『どうやら小官はまだ鍛錬が足りなかった様だ。どうか今、この場を引くことを許して欲しい。……貴女のことを、大切にしたいんだ』
――これらがもし全て、本当に我慢しているからなのだとしたら。
「ど?」
「困ったことに……佑ちゃんの前提で考えたら……何一つ違和感がありません……」
「でしょう」
やっぱりみきこと佑はウンウンと深く頷くばかりで。それが余計に名前の胸の内に生まれたばかりの焦燥を掻き立てた。
「ど、どうしましょう……」
迷子さながらの表情で困り果てた様に呟く名前に、みきこと佑は先程とは打って変わって慈愛に満ちた眼差しを注ぐ。
「こればっかりはなぁ……名前、抱かれたことないよね?」
コクリと頷く。
「毒島さんとするの、こわい?」
またもコクリと頷く。けれど。名前は感情を整理する様に一つ深呼吸をする。
「こわい、ですけど……それは経験の無さに起因するからであって。理鶯さんに、我慢はしてほしくないです……」
うん、これは紛れもない本心だ。ゆっくりと吐き出された言葉にふわりとみきこの眦が緩んだ。
真顔で此方を見つめていた佑の雰囲気が和らぐのが伝わってきて、名前はホッと息を吐く。
「ならさ。丁度良いモノがあるんだよね」
ニヤリと上げられた口角に名前とみきこは不思議そうな顔をするものの、みきこは直ぐに佑と同じように意味あり気な笑顔をのせ。
取り出された3枚の細長い紙に、名前の大きな瞳は更に見開かれることとなる。
ーーーーーーーーーーーーーーー
せり出された吐息と喘ぎは、夜の闇に溶けていく。
緩やかにグラインドしていた腰は脚を絡めたことにより性急さを増す。比例するように室内の湿度がじわりと上がっていくのを産毛の先で佑は感じ取っていた。
常ならばしっかりとセットされているグレーヘアーも今は無造作に下されていて。顎先から汗が伝うのを勿体無く思い持ち上げた指先で掬えば、ガシリと掴まれた挙句ねっとりと舌を這わされる。
ふわふわと遊ぶ毛先の狭間から色香を漂わせる白銀に鋭く射止められ、ナカをはしたなく締め付けてしまうのが分かった。
(まだ知らないんだよな)
こんなに、愛しくて、温かくて、気持ちの良いことを。そう言ったらきっと、恥ずかしがり屋の彼女は暫く口をきいてくれなくなってしまうかもしれないけれど。
ふわりと花の様に微笑む友人が脳裏を掠めた途端、一際強く打ち込まれて堪えられなかった喘ぎがまろび出た。
「考え事たァ随分余裕だな……」
徐々に高められていく身体に否応なく思考は疎らになっていく。……後はもう、溺れていくだけだった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
『温泉に行きませんか?』
恋人の家を訪問してから数日、寝る前の何気ないやり取りの最中不意に打ち込まれた爆弾に理鶯は片手で口元を抑えた。よもや二人きりではと身構えたが、聞けば名前の友人カップル達と一緒に、ということらしかったので一先ずは胸を撫で下ろす。
けれど。
(……もし、同じ部屋だったとしたら、)
今度こそ我慢が効かないかもしれない。どう伝えようか思いあぐねていると、ぽこん、と続けてトークが更新された。
『その、予約したのはみきこちゃんなので実際どうかは分からないのですが、』
『客室を、3つ予約したそうです』
行くのは6人、客室は3つ。自身を落ち着かせる様にゆっくりと息を吐き出した理鶯は、通話ボタンをタップする。1コール、2コール、3コール半で呼び出し音は鳴り止んだ。「……もしもし、」と愛しい人の声が耳朶を擽る。
「名前、先に言っておきたいことがある」
「小官は軍人だ。故に動じない自信はあったのだが、今では揺るぎそうだ」
電話口の向こうからは静かに耳を傾ける気配。理鶯は再び口を開く。
「言いづらいのだが、同じ部屋でいつもと違う貴女を見て反応してしまうかもしれない。しかし、無理矢理そういう事をするつもりはないので安心してくれ」
「恥ずかしいところを見せてしまったらすまない」
一旦そこで言葉を切る。聞こえるはずのない呼吸音まで拾ってしまいそうなくらいの静寂が二人を包んでいた。破ったのは、名前が先だった。
「理鶯さん、」
「なんだ?」
「我慢、してますよね」
震える声で押し出された言葉に、理鶯は言葉を失う。図星以外の何者でもなかったからだ。
「正直な気持ちをお聞かせ願えますか。……私は男性ではないから、わからないのです」
訥々と、所々つっかえながらも紡がれた鈴の音に、理鶯は胸を鷲掴まれる思いがした。
「正直にか」
口から溢れたそれに電話口の向こうで頷く気配がする。ほんの少しだけ息を吸った理鶯は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「正直に言えば男とは、愛しいものと居れば反応してしまう。自分だけのものにしたくなるし、深く愛し合いたいと思う」しかし、と強く言葉を区切る。「それで貴女を傷付けることになるのは本意ではない。相反しているようでもこれは貴女に対する愛だ。……わかるだろうか」
は、い。
喉に詰まった言葉が這う這うの体で踊りでた、とばかりにひっくり返った返事が返ってきてフッと理鶯は頬を緩ませた。
「ただ、小官は貴殿の為に堪えることも愛だと思ってる。これはお互いの同意と愛がなくてはならないし、初めてなら尚更。……いいや、何度でも大切にすべきだ。焦ることはない」
「まってまって下さいなんではじめてっ、初めてって、誰から聞いたんですか佑ちゃんですかみきこちゃんですか、なん、」
ひゅっと息を呑む気配がしたと思えば、勢いよく打ち出された言葉に理鶯は思わず瞠目する。一息に吐き出した名前は焦りすぎて噎せ込んでしまった様で、けほけほと咳をしているのが伝わってきた。
「いいや小官の勘だが。すまない、もう誰かと経験があったか。経験していたとしても、大切にする」
「……その、どちらが、いいですか」
落ち着くのを待って返答すれば、ややあって気まずそうに言葉を返される。発言の意図が読めずにいると、再び口を開いた名前に理鶯は胸を軋ませることとなった。
「初めてが良ければ、そうしますし、面倒であれば……なんとかします」何とか。鼓膜を震わせたそれが脊髄を通り過ぎる前に無意識に理鶯は口を開いていた。
「名前」
「もう俺意外に触れさせないでくれ」
随分と縋るような声音になってしまった自覚はある。けれど懇願してでも、何としてでもそれだけは避けたかった。
「……もうも何も、誰にも触らせたことなんてないです。ごめんなさい変なことを言いました、やめましょうこの話」
一人称が剥がれたそれを、名前は正しく受け取ってくれたのだろう。蚊の鳴くような声で返事をしたかと思えば、誤魔化すように声を張る名前に愛しさが湧き上がる。
「それでは、最初も最後もこの小官に」
「っ、お部屋、詳細分かったらまた連絡しますね」
早口でそう告げた恋人に理鶯は苦笑する。今は名前に気持ちをゆっくりと整理させるべきだろう。大丈夫だ、幾らでも待ってみせる。そこまで考えた後は、殆ど無意識に言葉が転がり落ちていた。
「小官は狩りが得意なんだ」
電話口の向こうでふるりと震えた空気は、期待と恐怖、どちらによるものだったのだろう。仔兎が美味しく頂かれるまで、あと少し。