18. Watch and you’ll see, someday I’ll be part of your world.


(海と共に)


「名前。もし……歩けるようなら、少し外に出てみないか」
 夜半も大きく過ぎたとはいえ、まだ月が煌々と上っている時間帯。散々抱いてしまった後だ――それでも理鶯としては加減したつもりだったが――断られても無理はない。
 だというのにこの愛しい恋人は、ふにゃりと微笑んでこちらに手を広げてくるのだ。
「……キスしてくれたらいいですよ」
 請われずとも、幾らでも落とそう。擽ったそうに笑う声に止められるまで。口付けに耽ってしまったのは、可愛くねだる彼女が悪い。
 
 
 車を走らせて来たのはヨコハマから幾分か離れた砂浜。渚百選に選ばれたそこは、時間帯のせいか人気は無く、よせては返す波の音のみが静寂に寄り添っていた。
 少し過保護なくらいにこちらを気遣う理鶯に苦笑しつつ、名前は空を見上げる。
「流石にもう、スピカはこの時間帯だと見えませんね」
「真珠星か。今時期はちょうど日付が変わった頃合いに沈むはずだ、貴女にぴったりの星だな」
 一等好きな星は見えなくとも、海で見る星はベースのある山で見る星とは違った良さがある。えい、とつっかけてきた靴を脱ぎ捨てて砂浜を素足で踏みしめれば、砂の暖かさに何故か胸がいっぱいになった。
「ふふ」
 心配そうにしつつも、理鶯は口には出さず傍に寄り添って腰を抱いてくれた。その優しさが嬉しくて、そっと身を預ける。
「名前」殊更優しいバリトンが鼓膜を震わせた。「貴女は海が大好きなんだな」
「はい。理鶯さんと見る海が、とっても好きです」
 額にキスを落とされた。微笑みながらうっとりと理鶯を見上げると、彼は思いのほか静かな表情でこちらを見つめていた。しかし、その眼差しは切なくなるほどに優しい。
「覚えているだろうか。小官の瞳が、海のようだと言ってくれた時のことを」
 
 いつかの記憶が、春光と共に甦る。
 
 ――理鶯さんの瞳はね、横になって太陽を浴びると、春の海みたいにキラキラって光るんです。それが私、嬉しくて。理鶯さんの中に海があることが、不思議なくらい嬉しいんです。
 
 ……そうか。貴女の帰る海である事を嬉しく思う。
 
 私の?ふふ、そう……そっか……じゃあ私はきっと、ずっと海にいれるんですね。
 
 あぁ。この先ずっとだ。
 
 そう、確か、そんな言葉を交わした。名前はゆっくりと瞳を瞬かせた。
 ピロートークの、冗談に見せかけたつもりで。その実ひっそりと忍ばせていた愛の言葉。そうなればいいななんて、夢を見る少女の御伽噺みたいだ。素面で理鶯に告げるには重過ぎると、その内自分でも忘れていた、睦言だった。
「夢とも現とも分からない、微睡の中の会話だ。
 覚えてなくとも良い、ただ、初めて貴女の口から聞けた、未来の約束だった」
 潮騒に溶け込む低い声。理鶯の眼差しは穏やかに凪いでいた。直に朝焼けがくるのだろう。水彩に一つずつ筆を足す様に、じわじわと夜と朝の境界が滲んでいく。
「取るに足らない、それこそ記憶にも残らないほど、些末な事柄だったのかもしれない。けれど、小官は、それが嬉しかった」
「貴女の思い描く未来に己がいることが、どんなことよりも嬉しかった」
 だから、と理鶯は言葉を続ける。ごく自然に片膝を立て、砂浜に跪いた彼は、ゆっくりと視線を上げた。
「どうしてもこの佳き日に、形に残しておきたかった。小官の我儘を受け入れてくれるだろうか」
 まるで映画の中の出来事だった。いつのまにか小さなケースが理鶯の手に収まっていて。ゆっくりと開かれた先、横に並んだ6つの小さなダイヤモンドの中心に、碧く輝くアクアマリンが座っていた。
 取られたのは、左手。
 必然であるかのように、ぴたりと薬指に嵌ったそれは、淡く碧い光を反射している。海だ。彼の瞳に宿った海が、今この手に。
 はたり、と堪えきれず雫が落ちた。一度決壊してしまえば後は止め処無く、次々と滑り落ちる水滴は視界を歪めてはあっけなく過ぎ去っていく。
「これは、約束だ」
「名前。いつになっても構わない。貴女の心が決まるまで待とう。だが、心が決まったその時は、小官を……俺を、パートナーに選んでほしい」
 息が、胸が、詰まって言葉が出ない。出るのは涙と苦しげな声ばかりだ。理鶯の前で不恰好な姿なんて晒したくないのに。
 嗚咽を噛み殺して、真っ直ぐに彼を見つめる。二つの春の海は今、ゆらりと潤い満ちていて。
「ッ、……はい、喜ん、で」
 くしゃりと、碧が歪んだ。溢れる、と思った刹那強く掻き抱かれる。初めて聞く速度の鼓動が直に伝わって、余計に涙腺が刺激された。
「名前、名前……!!あぁ、愛している。貴女が小官の鈴蘭だ」
「、理鶯さん、苦しい」
「すまない、だが我慢してほしい」
「グス、っふふ、苦しいのに」
「諦めてくれ」
 普段なら強いられることの無い無茶に、思わず噴き出してしまう。ころころと笑い声をあげている最中もキスの嵐は止むことがない。
 まって、まってと唇の間に手を差し入れて、漸く理鶯は静止する。合わさる視線の温度が、痛いほどの慕情を伝えていた。優しく見つめたまま、一つだけ深呼吸を。
「愛しています、理鶯さん」
「いつか、私の心が決まったのなら。その時は、私の海になって下さい。帰るのではなく、永久に、共にある様に」
 今度こそ、理鶯の瞳からゆっくりと海の欠片が滑り落ちた。
 ――伝わっただろうか。伝わると良い。この小さな身体いっぱいに満たす感情を。貴方への愛で今、私は呼吸をしているのだ。
 海の欠片を指先に乗せ、優しく拭う。名前は花が綻ぶように笑ってみせた。理鶯にとってそれは、どんな宝石だって敵わない、何よりも美しい微笑みだった。
 
 
 と、東の空から眩いばかりの陽光が二人を差す。どちらともなく視線を向ければ、見事な朝焼けが海面に反射していた。
「わぁ……」
 この世のものとは思えぬ美しさに感極まっているのだろう、名前の瞳はじわりと涙が薄膜を張っている。
「名前」碧みを帯びた瞳がこちらを向いた。「貴女と出会えたことに心からの感謝を。HappyBirthday.……これからも貴女だけに、愛を捧げさせてくれ」
 一拍の後、星屑が流れていく。輝きは失われることはなく、より一層の煌めきがつるりとした漆黒に広がっていた。そしてまた彼女は笑うのだ、理鶯の大好きな、花が綻ぶ微笑みで。
「っ……、ありがとう。きっと私、世界一の幸せ者です」
 やがて朝焼けは追いやられ、眩いばかりの朝が来る。変わらぬものなどないと知っていても、貴女と見る世界はこんなにも美しい。
 再び手に入れた幸せはきっと二人を照らし続ける。薬指に光る約束がその証明となるだろう。
 予感ではなく確信を胸に。朝焼け色の鶯は、愛しの鈴蘭にキスを落とした。





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