2017/03/07 Tue
あなたを見つめる


だいぶ昔の話になるが平沢進氏の「循環する景観カフェ」というトーク+ライブにいってきた。

平沢進氏はすごく有名でテレビに出ていて…という人ではないのだけど、還暦越えてるおじいさんで、テクノな音楽を作っている。長州力の入場曲であるパワーホールを作曲した方で、ベルセルクのアニメの音楽等も作っている。私がゼミで筒井康隆氏の『夢の木坂分岐点』を用いてゼミ発表の準備をしているとき、筒井康隆氏の夢の概念を知りたいと思って手に取った『千年女優』『パプリカ』の音楽も手掛けている。

ファンから事前に寄せられた質問に答える形でのトークがあった。「女性として生まれていたらどうなっていたと想像するか、音楽の道に進んでいたか」という質問があって、平沢氏は「女性として生まれて育っているわけではないからわからない」「昔、オルガンは女がするもので、男の自分は親から隠れて女友達の家で弾いていた」「反対されると進みたくなるもので、音楽の道にもそうやって進んだ」「女として育てられていたら違ったかもしれないからやはりわからない」と答えていた。

ボーボワールの『第二の性』という本を思い出した。「人は女として生まれるのではなく、女になるのだ」といったような書き出しだったと思う。

私の母親が誕生日やクリスマスのとき私に買い与えてくれたプレゼントは、男の子が好むようなものが多かった。外で遊ぶたびに乗り回していたマウンテンバイクは黒地に橙色の炎の模様が入っていて、ギアは六段階まで変えることができて、よく山の中を男友達と乗り回して遊んだ。サッカーが好きだったのでボールを買ってもらった。生き物が好きだったから虫取りをするたびに家で育てた。

それらのプレゼントは、自分が欲しいと望んで買い与えられたものもあれば、そうでないものもあった。たとえば「何が欲しい?」と聞かれたとき「サッカーボール」と答えて、「女の子らしくないからやめなさい」とか言うような母親だったら、私はもっと違う生き方をしていたかもしれないなと思う。親は「私があなたを女の子として育てなくたって、社会は勝手に女の子扱いしてくるものだしね」と言っていた。

社会は勝手に私を女の子扱いする。パンツスーツをはいていたときは一つも得られなかった内定が、スカートにした途端に三つも与えられるような。社会がそう見なすなら仕方ないんだろうと思いながら、私はいまスカートをはいたりパンツをはいたり使い分けて生きている。人にどう見られるかによって、自分が感じているものを否定する必要がないと、母親によって感じさせてもらえたからだ。私が感じていることは社会的には価値がないことだけど、でも別に社会に出ていないときの自分は好き勝手に生きればいいと思える。

人にこのように見られたい、他者にこのように認めさせたい、と思って生きるのは、とてもつらくてしんどいことだ。そんなの自分の思い通りになるわけがないとわかってはいる。相手がどう思ってるかなんて、超能力者でもないんだからわかるわけがないのに、望むことばを与えられただけで安寧を得られるわけがない。

でも確かに、そうやって表現するものでしか、他者は私を認識できない。女として生まれたから女として扱われ、男として生まれるから男として扱われる。人間が他者に対して何も感じない考えない生き物であったなら、こんなことに悩んでときにはいじめが起きたり自殺者が出てしまったりする世の中にはならなかった。人間はそのように生まれついてしまったのだから、残念ながら逃れようがない。

性自認、ということばは知っているが、これまであまり大切にしなかった概念だ。自らを認識するときに、他者の眼は切り離せるものではないと感じるから、「自分はどう思うか」を切り離して考えることがあまりなかった。「他者にどう見られるか」ということと、「自分はどのように自らを認識するか」ということは、果たして分離できることなのだろうか。それは「他者の認識やことばをコントロールする」こととは異なるのだろうか。自らが何かを思って生きることを社会的に認めさせることを望まずに、自分がそう思っているからそれでいいや、とならないのならば、それは果たして「自認」ということばであらわすべきことなのだろうか。



正解を得られなさそうな問いに行き当たったので、平沢進氏のライブ動画を貼ってお茶を濁す。


 


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