2017/03/12 Sun
白線を踏み外す




ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』より

433 私が変化しない二つの顔をじっと眺めているとする。突然、両者の類似性が閃く。このような経験を、私はアスペクトの閃きと呼ぶ。

437 アスペクトの閃きの特徴的な表現とは何か。誰かがこの経験をしたことを、私はどうやって知るのだろうか。――その表現は驚きの表現に似ている。

438 あるアスペクトが閃き、次第に消えていく。そのアスペクトを意識したままでいるためには、我々はそのアスペクトを繰り返し光らせなければならない。

482 アスペクトは、内面における実体化の構造に属しているように思える。


605 いま、例として、三角形の様々なアスペクトを眺めてみよ。この三角形(※添付画像)は、三角の穴としても、物体としても、幾何学的図形としても――すなわち、底辺を土台に立っている三角形ないしは頂点からぶらさがっている三角形としても――、山としても、くさびとしても、矢印ないし指標としても、(たとえば)直角を挟む二辺の短い方を下にして立っているはずだったのにひっくり返っている物体としても、平行四辺形の半分としても、その他様々なものとしても見ることができる。




アスペクトの閃きと、既知のものの名称を知ることは、異なると考えて三年が経過したが、未だにそれをうまく伝えることができない。「アスペクトの閃き」なんて言ったところで、「アスペクトの閃き」という名称を知るだけのことで、それを体感するわけではない。

他者が抱くアスペクトが何なのか、それを覗き見る能力を人は持ち合わせていない。他者のことばを、自らが抱くアスペクトの範囲で類推することしかできない。

にも関わらず、自らは全能で、そういったものまで覗き見ることができていると勘違いしたまま大人になってしまう人間は多い。

少し前に、私が三角の穴として見ながら三角形のことを語っているにも関わらず、同じものを山として見る前提を持って、それは穴ではないと詰る人間に出会った。私はその人に語っているわけではなかったが、それは山だ、それが山に見えないのはおかしい、山に見えないというのなら何だというのだ、と私を咎める。私はその人間に対して、あなたは山として見ているかもしれないが私がそれを穴として見ているのだと伝えることに無駄な労力を費やすことになった。

人は歳を重ねると他人に説教をすることが必要だと思うようになるのかもしれない。自分がこれまで抱いていた価値観は間違ってはいないのだと確かめたくなるのかもしれない。自分と同じ価値観を持つように他者を変えることが必要だと思うようになるのかもしれない。

それらは本当に必要なことだろうか。自分の知りたいことのみ学んで生きていけばそれで良いのではないのだろうか。何故異なる思考を持つ他者を自分の色に染めようと躍起にならなければならないのだろうか。

他者のことなどどうでもいい。何故なら他者の抱くアスペクトは私には一生体感できないものかもしれないのだから。他者があなたに対して優しくしてくれていると感じるとき、他者は本当に優しさをもって相対しているのか、ただの諦めであなたに優しいことばをかけているのか、あなたに判断できるのだろうか。

望むことばを他者から与えられて、どうやってあなたはそれを信じられるのか。



 


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