2017/06/09 Fri
知らないことを知らないふりで


筒井康隆『夢の木坂分岐点』より

「ええと。君は真佐子なのかい。芙佐子かな」
 待ちかねていたように娘は大きく頷く。「それはもう、どっちでもいいのよ」娘は彼を見つめ続ける。





久しぶりに映画『パプリカ』『イノセンス』を観た。虚構と現実の境界が曖昧になっていくお話は疲れるけど楽しい。『夢の木坂分岐点』も朧気な境界の描き方が気味悪くて最高。

先日提出した見積書が製品指定だったにも関わらず、何故か入札で落ちてしまい、どうやって上司に報告すべきか悩み倒すーーという夢を見た。
肉体も精神も疲弊した朝を迎えてから一日の仕事をこなし、この日記を書き始めたが、もしかしたら実は私はまだ夢の続きを見ていて、現実では入札に落ちているかもしれない。
眠るときは薄手のシャツを着てベッドに横たわるから、その姿から着替えてスーツを身につければそこからが現実だと認識するが、「薄手のシャツで横たわる私がスーツに着替える夢」を見ていたわけではないと、どうしたら証明できるだろう。

そんな証明できないものはさておいて、他人がどう思っているのか気になったり、他人の考えを悔い改めさせようと躍起になったりすることは、大切なことだろうか。
サーバの設定で必要となる知識が誤っている場合に、それを正さなければならないということであれば、それは大切だと思える。そうしなければそのサーバは正しく動かないからだ。
だが、他人が何を思っているかなど、私にはどうでもよい。どうでもよいというか、それは私には見えないものだ。

真佐子でも芙佐子でも、名付けることばは何だってよいのだが、ことばを駆使して名付けたところで、私は真佐子を理解したといえるだろうか。素性のわからない女の子に真佐子という名がついていることがわかったところで、彼女を理解できたわけではない。他者の感情や行動についても同様で、私たちはことばを知ることはできても、その意味内容を余すことなく汲み取れるわけではない。

知ることができないことを知らぬまま、知りたいと欲して生きること。知ることができないと知っていて、知る必要がないと思って生きること。どちらのひともこの世には沢山いるのだから中庸をとりたい……知ることができないと知りながら、知りたいと欲して生きる?しんどい生き方だな……



以下お返事です

2017.06.05 Mon 21:32
すっきりしました。の方

コメントありがとうございます〜 しょうもないことばかり呟いていますが、私も書くことで整理されてすっきりする気がしているので、あなたにもすっきりしていただけて嬉しいです。すっきりすることがあなたにとって良いことでありますように!急に寒さがよみがえってくる日もありますが、温度差で体調を崩されませんようご自愛ください〜


 


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