2017/10/19 Thu
あきらめにいく




平沢進『サイボーグ』より

あきらめに行こう 人魚の信者の舟で
人の世は赤い太古の噴火のエコー

Love You ほら吹き 夢も見えたはずに
おみやげは吹き矢 バスの駅から放つ

明日までに消える 石の橋の上で
折り紙に折った 長いダイヤグラム

Love You ほら吹き 空も飛べたはずに
おみやげは磁石 夜の砂場で回す



平沢進氏のライブ『第九曼荼羅』に行ってきた。『サイボーグ』とても好きな曲なので、生で聞けたの最高だったし、今回のライブ用の編曲も最高だった。

この曲が収録されている『KARKADOR』について、「カウンセラーの勧めで夢日記を採用し、歌詞は夢をそのまま言葉にしたものらしい」とwikiにあった。単語数が少ないこともあって、歌詞から思い浮かぶ光景が特定しきれないところがすきです。
記事の一番下に動画を貼っておいた。ぜひ聞いてください。そしてできればCDやDVDをご購入ください。



ことばにしなければ伝わらない。それは確かに本当にそうだと思う。けれど、ことばにすればすべて伝わるわけではないことを、他人との会話の中でどれだけ意識すればいいのかわからない。

肉体にかかっている感覚や、過去の経緯を踏まえた思考の動き方は、ことばですべて伝えられない。夢を描いた歌詞を眺めて思い浮かべる光景が、作詞者と私とのあいだできっと違っているんだろうというのと同様に、日頃生活の中で使うことばにも近付けない何かがあるかもしれないことを、他人はどれだけ考えて過ごしているんだろう。考えすぎると人と話すことが嫌になってくるし、かといって今更この感覚をフォーマットできなくて、どないせいちゅうねんという心地。

他者とのコミュニケーションで使うことばにおいては、ことばがすべてなのかもしれないと、最近思う。けれど、実際のところそれがすべてではないかもしれないと念頭に置くのは、無駄なことではないような気がする。

実際のところがどうであるかなんて、一生わからない。SF映画みたいに首にケーブル差して感覚も共有できたらいいのにと思うし、そんな垂れ流しのやばいケーブルがなくてよかったなぁとも思う。
でもどうしてこのことばを使っているんだろうと考えることは、悪いことではないように思う。ことばだけがそのひとのすべてではないと念頭に置いて考えた方が、心が楽というのもある。
クレーマーと戦っているときも、「この攻撃的なことばしか知らないような、語彙力ないひとだから仕方ない……」「ネガティブなことばはラッパーのHeyYoとおなじ……」と思う方が幸福になれるしちょっとうける。仕事柄、日常生活でクレーマーに出会うことはそんなに無いけど。

そもそも、立ち止まって考えるほど大事なことばなんて、社会に出てしまったら、そんなに出会えないのかもしれない。





以下コメレスです。


紅玉さん
こちらこそ御返事ありがとうございます〜
お客さん先で歳上のおじさんたちには宝塚の人だ...と言われています。宝塚のひとも冬は首元めっちゃ寒いんだろうなと思いながら、日々を過ごしています…
誤字指摘ありがとうございます!お恥ずかしい……早速修正しました!






 


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