2019/01/09 Wed
ゼミ会3


引き続きゼミ会の覚え書き

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3.語りと他者

『人質の朗読会』「第三夜」p69
 これはチラシを読んでゆくうちにおいおい分かってきたことなのだが、危機言語を救う友の会とは、政治的な理由で使用が禁止されたり、人口が減少したりして忘れ去られようとしている世界の地域語を守るための集まりだった。しかしその活動は地域の独立を訴えるような勇ましいものではなく、あくまでも個人的な精神の安らぎを求めるという、のんびりとした内容になっていた。
 会員は各々母国語の他に何かしら地域語と縁のある人々。普段の生活でそれを使う機会に恵まれず、慣れ親しんだ懐かしい言語が消え入りそうになっているのを寂しい思いでただ見守るばかりの彼らが、言語の種類は違えど時折公民館に集合し、互いを慰め合う。簡単に要約すれば、そのような会であるらしかった。

『人質の朗読会』「第三夜」p73
 喋り終えた人は誰もが、自分の言葉が間違いなく誰かの耳に響いたことを確かめ、満足し、安堵の表情を浮かべた。

『人質の朗読会』「第三夜」p86
 世界のあらゆる場所にB談話室はある。あらゆる種類の会合が開かれている。ささやかなつながりを持つ者たちがほんの数人、そこへ集まってくる。その他大勢の人々にとってはさほど重要でもない事柄が、B談話室ではひととき、この上もなく大事に扱われる。会員たちはB談話室でこそ、真に笑ったり泣いたり感嘆したりできる。

『語り切れないこと―危機と傷みの哲学』p55
 「時間をあげる」ということ、それはプロのカウンセラーにはむしろできないことです。わたしたちがボランティアに行ったとしても、限られた時間のなかで「どうですか?」といろいろな質問をしても、むしろ嫌がられる。それこそ、傷口に塩をまぶすようなことにもなる。いまは忘れたいと思っていることを聞かれたり、アンケートでそのときどう思いましたかとやられたりすると苦痛です。聴くということ、時間をあげるということは、傍らで同じ時間のなかにいる人にしかできない。

・「そのつどじぶんの事実的な存在にあって、じぶんがすでにどのようにあったかであり、「なに」であったか、みずからが過ぎ去ったありかた」を語ることが自分を規定する
・人が語るためには、傾聴する他者が必要になる
・語るひと{emj_ip_0683}傾聴するひと の繋がりが次の共同体を生み出す
・語ることで自己を確立するのか、語ることで生まれた共同体に所属することで自己が確立するのか
・共同体に所属するために語り、傾聴するひとは共同体にそのひとを紐付ける役割を課される


『人質の朗読会』「第三夜」p83
 ただし僕の目的は初対面の彼らに向かって自分をアピールすることでは決してなかった。結果的に、例えば危機言語を救う友の会のように、自分の発言が注目を浴びてしまうケースもまれにはあったが、むしろそれは例外で、目立たないでいることの方が僕にとっては重要な課題だった。

『フランケンシュタイン』「12 フェリクスの家族」
「わたしは、そのうちにだんだんと、もっと重要な発見をした。この人たちが、自分の経験や感情をそれぞれ区別のある声音で、おたがいに伝えあう方法をもっていることがわかったのだ。この人たちの話すことばが、ときには聞く者の心や顔いろに歓びや苦しみ、笑顔や愁いを起させるのに、わたしは気がついた。

『フランケンシュタイン』「13 アラビア娘の来訪」
「(略)美徳や善良な感情というものには感心し、この家の人たちのやさしい態度や人好きのする性質を好みはしたものの、ただわたしは、この人たちとの交際から閉め出されていて、人目をはばかって誰も知らないうちにこっそりと何かをしてやるのが関の山だったが、そのことに、この連中の仲間になりたいという願望を満足させずに、かえってそれを募らせるのだ。(略)
「それよりももっと深く、心に刻みつけられた教訓が、ほかにあった。(略)一人の人間を他の人間に相互に結びつける兄弟、姉妹、その他さまざまの親縁関係のことを聞いた。(略)
「しかし、わたしの友や親戚はどこにいる? わたしの赤ん坊のころを見守ってくれた父も、笑顔と心づかいをもって祝福してくれた母もないのだ。もし、あったとしても、わたしの過去の生活はすべて、今ではひとつの汚点、目の見えぬ空白であって、自分には何ひとつわからなかった。物心がついでからこのかた、わたしの身の丈もつりあいも今のままだった。いまだかつて、自分に似た者、自分とつきあいたいという者に、出会ったためしがなかった。自分はいったい何なのだろう? この疑問がまたまた首をもたげてきたが、それに対する答えはただ唸ることだけだった。

『フランケンシュタイン』「15 怪物とド・ラセー老人」
「けれども、書物を読みながらわたしは、自分の感情や境遇に、個人的にいろいろ当てはめてみた。すろと、それについて読みもしその会話を聞きもした人々と、自分が似てはいるが、同時に妙に違ってもいることがわかった。わたしは、その人々と同感したし、かなり理解もしたが、わたしは精神的にできあがっておらず、頼るものとてもなく、縁つづきの者もなかった。『生きようが死のうが勝手だった』し、死んでも誰ひとり歎いてはくれなかった。わたしの体は醜悪だったし、背丈は巨大だった。これはいったい、どういうことだ? わたしは何者だ? どこから来たのだ? 行き先はどこだろう? こういった疑問がしじゅう起きてきたが、それを解くことはできなかった。(略)
「(略)わたしは明らかに、アダムと同じように、生きているほかのどんな人間とも結びつけられてはいなかったが、アダムの状態は、そのほかのどの点でも、わたしのばあいとはずいぶん違っていた。アダムは、神さまの手から完全な被造物として出てきたもの、創造者の特別な心づかいに護られた幸福で有望なものであって、性質のすぐれた者と話をし、そういうものから知識を得ることを許されていたが、わたしときたら、まったくみじめで、頼りなく、ひとりぼっちであった。わたしは何度も、魔王サタンを自分の状態にずっとぴったりした象徴だと考えた。というのは、サタンと同じように、よく、家の人たちの幸福を見ると、にがにがしい嫉み心がむらむらと湧きあがってきたからだ。(略)
「(略)苦しくなってわたしは叫んだ、『おれが生を享けた憎むべき日よ! 呪われた創造者よ! おまえでさえ嫌って顔をそむけるような醜い怪物をどうしてつくったのだ? 神さまは哀れだとお思いになって人間を自分の姿にかたどって美しい魅力のあるものにお造りになったが、おれの姿ときたら、似ているのでかえってよけいに忌まわしい、おまえの姿のけがらわしい模型だ。サタンには敬服し激励する仲間や同類の悪魔どもがあるが、おれはひとりぼっちで厭がられている。』(略)
「(略)この人たちの幸福は、夏を過ぎても減らなかった。この人たちは、たがいに愛しあい、同情しあった。この人たちの喜びは、いずれも相互に依りあっていて、まわりに起る偶発的なことでは中絶させられなかった。この人たちを見ていればいるほど、その保護と親切を得たいというわたしの願望はいよいよ強くなり、この愛すべき人たちに知られ愛されることを心から願い、この人たちの感情のこもったやさしい眼がわたしに向けられるのを見るのが、わたしの野心の極限であった。この人たちが軽侮と恐怖の念をもってわたしから眼をそむけるようなことは、どうしても考えられなかった。


 


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