2016/07/23 Sat
あなたのことばを知らない
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本棚の整理をしていて、学生時代にゼミで読んだ本を読み返していた。写真はそのテクストたち。付箋の量がちょっとクレイジー。あの頃は何かひとつの正解に辿り着く必要があったから、必死に付箋を貼って、何度も読み返していた。
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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』より
191 たとえ誰かが「自分の内面のこと」をすべて打ち明けたとしても、我々は必ずしも彼を理解しないだろう。
193 自分のなかで複雑な思考プロセスが生じている人らしく彼が振る舞う。そして、その思考プロセスが理解できさえすれば、私は彼を理解できる。――このようなケースを想像してみよう。そして、彼がいま、自分がしかじかのことを考えていると独り言を言い、それによって、彼が何をするかをある意味で私が理解できるとしよう。つまり、彼の一連の思考を見て、それが彼の行為をどう導くかを私が知るとしてみよう。
194 このようにして、彼は私にとって謎でなくなるかもしれない。
197 彼のなかで何が生じているか、私は知らない。彼の振る舞いを思考内容で肉付けることは、私にはできないだろう。
243 「他人が痛みを感じているか否かについての不確実性」。――この不確実性は、彼が彼であり、私が私であるということによるのか。(しかし、よく考えてみよ。「彼は自分が痛みを感じているかどうかを知ることができるのか。なにしろ彼は比較対象をもたないのだ」。)否。私はここではある像によって欺かれているのである。(略)
269 (略) では、真実の源泉というものはどうやってそれとして特徴づけられるのだろうか。たとえばそれは、独白という形式において特徴づけられる。独白は他人には聞こえてはならないものであり、仮に聞こえるとしたら、独白も嘘の一部になりうることになるだろう。――しかし、ある人が頭のなかで独白をしているのは、単にそれによって独特の雰囲気をまとえるからであり、その雰囲気を利用して彼は嘘をつこうとしている――そういうこともありえないだろうか。だとすると、真実の源泉となるのは意図なのだろうか。では、意図は物語のなかにどうやって登場できるのだろうか。
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私たちは「――を知っている」という動詞をどのような状況で使うのか。
玉子焼きの作り方や機器の設定方法等の「知識」ではなく、たとえば感覚ベースの、どちらかというと「体感している」というような意味で。「彼の哀しみに共鳴した」とか「行き場のない怒りを覚えた」とか、そういう「感情が心の内に沸く」というような意味で。日本語なら「知覚する」が最も近いんだろうか。
「知覚する」のはいつどのタイミングなのだろう。タイミングと呼んで良いのかはわからない。知覚するのは一瞬なのか、もっと広い時間の幅があるのかもわからない。「知覚していた」と語るときは過去形だが、語っているときは知覚していないのか。知覚を思い起こしているときは知覚ではないのか。再現しているなら偽物なのか。それとも本当に同じ哀しみが起こっているのか。
そもそも私たちは比較するべきものをもたないのに、どうしてそれが哀しみだと知っているのだろう。哀しみということばひとつで想起する感情の虚像が、私のものと、他人のものと、同じなのかはわからない。
日食や月食がいつ起こるのか、私たちは知っている。それはこれまでの経験の集積から、次はこうだろうと予想を立てているということだ。本当に未来を予知できているわけではない。
感情もそれと同じで、私たちは感情のプロトタイプを学びながら歳をとる。知人が死んでしまうことは悲しみで、新しい生命の誕生は喜びであると学ぶ。沸き起こる感情の名称を知り、ひとつずつカテゴリ付けしていく。
カテゴリ付けした過去の感情を思い起こして再現するとき、知っているものの幅によって再現の仕方も異なるだろう。「狼」と「犬」ということばふたつが存在することによって分けられた概念も、「犬」ということばがなければすべて「狼」に吸収されてしまうように。どのことばを知っているかによって、私の感情は定められる。私は感情を知っているのではなく、ことばを知っているということなのだろうか。
それならば、こんなとこを感じたくないと思っても、それはもう既に遅いということなのだろうか。一度ことばを知ってカテゴリ付けしてしまったらもう遅いのだろうか。ことばを忘れることはできないし、カテゴリの存在を無視することもできない。機械ではないのでフォーマットできない。薬に頼ればフォーマットできるだろうか。