2016/07/24 Sun
東へと沈む




ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』より

189 「人は未来を知ることができないだって?――日食や月食についてはどうだというんだ?」。――「それらについても、本当の意味では人は知ることはできない」。「知る?――たとえば何を?」。




日食も月食も、これまでの経験の集積から次はこのタイミングでやってくるだろうと予測できるけれど、必ずやってくることを私たちは予知できているわけではない。

知覚できたときに初めて知るのだけれど、たとえば私が知るまで、日食や月食が来るか来ないかの確率はハーフアンドハーフだ、ということだろうか。(科学はそうではないと主張している。)

予知はできないけれど予測はできる。太陽は西から昇らないことを私たちは知っているけれど、それは西から昇ることを経験していないからだ。予測しているだけのことを「知る」という動詞を使ってあらわしてよいのだろうか。「知る」とはどういうことなのだろう。私たちは何を知っているんだろうか。


ことばを先に知っていて、あとから何かの経験によって胃の腑にすとんと落ちてくることがある。ああ、私はこれをあらわすことばを知っているなあ、と思う。

その逆で、何という名前をつけたら良いのかわからないがこういうかんじ、という感覚があって、そのあとにそれをあらわすことばを知ることもある。ああ、このことばであらわせば良かったのか、と思う。

「知る」ということには段階がある。「知る」ということばが示す範囲は広い。少なくとも二つの段階はあるのだから、別々のことばが欲しくなる。

必要がなければことばは作られない。犬と狼を区別しようとするからそれぞれ名称ができる。つまり「知る」がどの段階にあるのかは、多くの人にとってはこれまで区別の必要が無かったということなのかもしれない。

つまり私は他者にとってどうでもいいことを呟き続けているのだろう。




たまには好きな映画の音楽を貼り付けておく。前にも言った気がするが、キアヌ・リーブスは無垢な瞳でごりごり人を殺すのが似合う。



 


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