2016/08/06 Sat
問いが在ること




ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』より。


335 (略) 「君はなぜそれらを区別するのか。その区別の眼目は何なのだ」。

337 君は問題を自分に出し、それから自分で解く。数学者のように。




大学の頃、教授と面談する機会が何度かあった。悩みを抱えたまま講義に顔を出さなくなる学生が少なからず存在していて、そのまま人生を棒に振ってしまうのはまずいからという大学の方針だったのだと思う。今はどの大学でもそうなのかもしれない。
講義のことや将来のことを話してから、最後に「いま悩んでいることは?」とよく問われた。

奨学金で学費を賄いながら一人で生きるために必死で金銭を稼いでいたあの頃、悩んでいることは山のようにあった。
風俗で働いているせいで身体の倦怠感が拭えない、けれど家賃を払うにはあと一万円足りないから少なくとも今週あと一日は店に出なきゃならない、買いたい本はあるけれどお金が足りない、もっと食事の量を増やしたい、もっと眠りたい、私だけ一日が四十八時間分あれば良いのに、いつまでこの生活を続ければいいのだろう、そろそろ死んだほうが楽かもしれないと思えてくる、勉強は楽しいのにさっさと社会人になりたいと思ってしまう、等々。

でも、「死んだ方が楽かもしれない」と考えていたって「勉強が楽しいから死にたくない」「社会人になる経験をする前に死んでしまうのは勿体無い」と思えた。「死んだ方が楽かもしれない」という問いかけを思いついたときには、付属して後ろの答えが既にあらわれているものなのだと、その時気が付いた。

ことばにできていれば、自ずと答えはあらわれる。ことばにできなくなったときは本当にまずい時で、今はまだまずくない。なんだかよくわからないけれど落ち込むとか、なんだかよくわからないけど鬱だとか、そういう段階ではなくて、とにかくお金が欲しくて仕方なかった。具体的に問題と解答を考えなければお金は手に入らなかった。
それに私の考えている悩みなんて、他人にとっては取るに足らないどうでも良いことなのだと決めつけて、アウトプットしないように心掛けていた。

本当に悩んでいることの代わりに、どうでもいいことばかり口にした。一人暮らしを始めて料理をしたが、ちっとも美味しくない。人と目があわせられない。
教授は笑っていろいろなことを話してくれた。美味しいものを食べることで味覚が鍛えられる。まずはいろいろなものを食べる経験を詰むべきだ。目を合わせなくてもいい。ネクタイのノットの辺りを見るといい。

一人暮らしをしていたが料理なんてしていなかった。お客さんにもらったケーキと、お店でお姉様方にいただいた食事で過ごしていた。本当にお腹がすいたときにはホットケーキを焼くかキャベツスープを煮込むくらいで、スーパーに食材を買いに行くことも殆ど無かった。不味いと感じることはなかった。食べられれば何でも良かった。
人と目を合わせることは確かに苦手だったけれど、風俗の仕事のときは相手から視線を逸らさなかった。視線を逸らしているうちに、ゴムもつけずに押しこまれるのが恐ろしかったからだ。
教授のことばが無意味だったということではなくて、あのときの私には実現が難しい回答だった。社会人になったいま、教授のことばはとても役立っているし、私はようやく理解できた。


自分の思考なんて他人にとってはどうでもいいものだと、私は今でも思っているけれど、皆そうではないと私に告げる。隠し事をし続けて生きていなかったら、きっと私だってもっと自分の考えをことばにしただろう。
うまくアウトプットできないのは、アウトプットしないような言い訳を沢山考えて自分の思考に染みつけるようにして生きてきたからだ。何年もそうやって生きてきて、そんなにすぐには変われない。


 


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