PROLOGUE:008

ぞろぞろと同じ目的地に向かって歩く皆の背中を追って、天海と名字に体育館へ向かった。天海も名字も、誰も喋らなかった。ただ歩く音だけが長い廊下に響き渡っている。

ひしひしと張り詰めた空気の中、天海と名字は校舎の奥にあふ体育館へ辿り着いた。中ではもう既に見知った顔がいるということもあって、あちこちで不安を紛らわせるように取り留めなく会話をしている。
その中で不安を滲ませた、見知らぬ顔ぶれに天海は目が止まった。

「やぁ、どうも」

気がついたら声を掛けていた。天海に声を掛けられて少女は驚いて、ラベンダー色の目が大きく開いている。ピンクのニットに今にも躍りそうな五線譜をプリントしたスカート。音符を象ったヘアピンで綺麗に前髪は整えられている。

あぁ、知ってる。彼女は−−。

「俺達って自己紹介しましたっけ?前にも名乗ったのに忘れたとかしてないっすよね」
「ううん。してないよ」
「そうっすよね」

なんで、こんなこと言ったんすかね?

天海自身も意図せず口にした台詞に不愉快になった。間違って砂でも噛んでしまったような、そんな気分になる。
天海の心中を知らない少女は自己紹介をし始めた。

「私は赤松楓。超高校級のピアニストなんだ。それでこっちが最原君」
「最原終一です。……一応、超高校級の探偵ってことになってるよ」

赤松から紹介された最原という少年は見た目通りの印象だった。珍しいストライプの学ランに、目深に被ったキャップ。日焼けのしていない色白の肌以外、全身黒でコーディネートされていた。

「だから一応はいらないよ!ほら!もっと自信持って!」
「そう言われても……。僕はたまたま事件を解決した探偵見習いだから」
「もう、またそんなこと言って!ここにピアノがあったら『華麗なる大円舞曲』を引くのに!」
「まあまあ、2人共落ち着いて下さいっす」

言い争う2人の間に天海は割って入った。天海が割って入ったことで、「さすがに言いすぎたかな」と赤松も我に返ったらしい。その一方で最原はまたキャップの鍔をつまんで、表情を隠していた。

赤松からとっさに出て来た『華麗なる大円舞曲』について語りたいという気持ちや、最原の才能に対して自信が無い理由とか聞いてみたいことは山ほどあったが、最優先のことを天海は尋ねた。

「ちょっと聞きたいんすけど、2人はどうしてこんな所にいるのか覚えてるっすか?」
「それを聞くって事はあなたも覚えてないんだね?」

同時にそういう返答をするということは赤松も覚えていないという意味を天海はしっかりと理解した。

「やっぱ2人とも、ここに連れられて来た時のことを覚えてないんすか。だとすると、ここにいる全員がそうなんすね」
「え?全員って」
「他の何人かにも聞いてみたんすけど、みんな『覚えてない』って言うんで。どうやら俺らは全員揃って記憶喪失みたいっすね」
「でも、そんなの普通じゃないよ。全員揃って記憶喪失だなんて」
「だとしたら普通じゃない事に巻き込まれたんすね」

さすが探偵というべきか、最原がおかしい現状を指摘する。しかし、そんなこと既に天海はもう分かっているのだ。話したいのはそんなことではない。そんな意味を込めて、最原の言葉を遮った。

「待ってよ、記憶喪失とか大袈裟だよ。きっと混乱してるだけで、すぐに思い出すって」
「全員が?同時に?」

天海が意地悪く質問すると、赤松も最原も答えられず黙った。

「集団催眠とか洗脳とか方法はいくらでもありますから、おかしな話ではないんすよ。……ま、どっちにしろ、早く思い出せるようになるといいっすね。このままだと俺、みんなにハブられちゃうんで」

前半は真面目に、後半は明るく。トーンを変えながら天海は話しやすいように赤松達に話題を振った。

「ハブられるってどういう意味?」

ほら、食いついてきた。

「申し遅れちゃったっすね。俺の名前は天海蘭太郎っす。今のところ、どんな"超高校級"の才能があるのか思い出せないんすけど。ま、怪しいヤツじゃないんで、よろしくっす」

もう才能が思い出せないと言われて、2人は驚く素振りをした。そしてその後、信じられないという顔をしながら天海を伺う。

「才能が思い出せないって、本当?」
「もちろん、本当っすよ。ま、信じられなくて仕方ないっすけど」
「大丈夫。天海の言ってることは本当だから」
「え?」

割り込んできた第三者−−名字の声に赤松と最原は驚いて、名字を見る。

「多分ね」
「そこは嘘でも言い切って欲しかったっす」

しかし内心、天海は少し嬉しかった。信じてもらえないほうが当たり前。それでも名字や真宮寺、獄原に百田にアンジー……。ちゃんと天海を信じてくれる人がいるのは、少し胸が和らいだ。

「赤松に最原だっけ?まだ2人には自己紹介してないから割り込んじゃったけど、お邪魔だった?」
「そんなことないよ!自己紹介してもらっていいかな?」
「それじゃあ自己紹介します。聞いてください」

妙に改まった態度で、「あー、あー」と声の調子を整えながら名字は背筋を伸ばした。

「私は名字名前。超高校級の観察家っぽい。周りが勝手に観察家って決めたみたいで、実感が湧かないけど……。よろしくお願いします?でいいのかな?」

あれだけ自己紹介を始める前にセッティングしたというのに、締まりのない自己紹介で天海は一人苦笑する。

「観察家って……。名字さんは具体的には何を観察するの?」
「うん?私は特定の対象の観察家じゃない。なんでも観察するから」
「なんでも?」

名字は両手のひらを開いた。

「カテゴリー別に言うなら自然環境、生態系、動植物の経過、気象、地層、化石、金融、市場、言語……」
「待って待って!?まだあるの!?」
「うん」

指折り数えるのを二周目に差しかかかろうとしたところで赤松が待ったをかけた。このまま赤松が止めなければ延々と述べられていただろう。

「もしかして、研究者達から引く手数多の客員って名字さん?研究に携わるだけで10年は確実に進歩するって、いう。本人の意向もあってあまりメディアでは騒がれなかったけど……」

最原がちらりと名字に目を向ける。名字は心底どうでもよさそうに最原へと視線を返した。

「そうなんじゃない?騒がしいのはあんまり好きじゃないし」
「やっぱり」

天才と変人は紙一重とはまさしくこの事だろう。変わり者の少女でしかなかったはずの名字が、天海の知らない功績を持っていた。ほんの少し名字が遠くに感じる。

「すごい!名字さんの才能はどこでも活躍出来るんだね!」
「……私にはこんな才能、使い勝手悪くて面倒としか思わないけど」

聞いたこともないような低い声で名字はそう言った。赤松も聞き間違えたのかと思って名字を見るが、名字は目を伏せている。それ以上は語りたくない。という頑な意思を表しているようだった。

「そ、そこまでボロクソに言わなくてもいいんじゃないかな」

どうしてそんなことを思うんすか。

初めて見る名字の負の感情に対して、天海はまた驚かされた。
この中で、名字名前という人物と最も時間を一緒に過ごしたが、掴みどころがない。時折見せる感情や表情の変化に驚かされるほど平常で無でもあり、物事に対して素直に受け取っていたようにも思える。

そんな名字がこれほど感情を顕にしたことによる戸惑いとその原因が何か知りたいという好奇心が天海を揺さぶった。
しかしその衝動もすぐに治まってしまった。確信に至るには情報が足りない。あまりつっこまない方がいいかもしれない……。そう理性が天海に語りかける。

結局、天海は名字に何も聞かなかった。

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