リップサービス

 足首を捻り、バランスを崩す。帝国学園で唯一気に入っている制服の深緑がだらしなく揺れた。ああ、このまま硬い大理石の上に、情けなく倒れ込んでしまう……。痛いのは嫌なのに、と、ぎゅっと目を閉じ、顔を守ろうと横に向けたら、骨張った手に抱かれた。
 誰も居ないと思っていた廊下の曲がり角。
 誰に助けられたのだろうか、ぱちりと目を開け、恐る恐る前を向くと、仏頂面の影山総帥が私を抱き締めたまま、此方を見ていた。

「か……影山総帥……!?」
「立てるか」
「はい、影山総帥、申し訳ありません、ありがとうございました」

 骨張った手の持ち主は影山総帥だった。
 彼は私をゆっくりと離し、きちんと立たせると「制服を直せ、誰かに見られる前にな」と言い残し、革靴のギュッとした音を響かせ、自室へと向かっていく。老いた線の細い身体から発していた熱を思い出して、何故だか分からないけど、心臓がぎゅっと縮んだ。

「……あっ」

 ”制服を直せ、誰かに見られる前にな”という影山総帥の言葉が脳内でリピートされる。スカートが捲れて、太ももが露わになっていた。影山総帥に見られてしまったのか。ドキドキと早くなる心臓を必死に抑え、私は初めての感情に殴られ続けながら、なんともない顔を作り、教室に向かった。



 影山総帥の事は正直苦手だった。
 それなのに、あの件以来私は彼の事で頭がいっぱいだ。毎日、毎日、飽きもせずにあの曲がり角をわざと、ゆっくりと歩くのがルーティーンと化すくらいに頭の中は『影山総帥とお会い出来るかも』なんて邪な考えで一杯だ。

 数日に1度、影山総帥とすれ違う。その”たった数秒”の為だけに、規則違反スレスレの慣れないお化粧や、コロンを付ける。ママからこっそり盗んだコロンの香りが、女子の手洗場に充満していく。誰かが先生に私の事を言うかもしれない"先生、彼女は規則違反の香水をつけています"と……。
 誰かに恋をすれば、身だしなみに気を使わない女の子に吐き気がする、そんな嫌な女が心に産まれてしまった。剃り忘れた指の毛や、ぼさぼさの眉毛に、汗の香り。そんな女生徒を尻目に、私一人だけが、綺麗になっていく。
 魔法の時間を終え、私は手洗い場を出た。コツン……と、ローファーの踵を鳴らす。この廊下はいつもひんやりと冷たい、私の吐息までもが響くようだった。

「おい、授業始まるぞ」
「佐久間君、先に行ってていいよ」
「ん……? お前、香水つけてるのか?」
「バレちゃった?」
「先生方に怒られるぞ」
「朝、母に香水の入った瓶を制服に落とされてしまって……とか言えば大丈夫だよ、今時香水くらいで騒がないでしょ」
「悪い奴、お前なんか雰囲気変わったな」

 佐久間君が言った言葉は、きっと好意的な意味だろう。
 いつも教室では私の2列前に座る佐久間君は、綺麗な形をした瞳を私に向け「ほら、行くぞ」と肩を叩いた。



「止まれ」
 
 廊下の曲がり角、数日に1度のチャンスを何度も重ね、影山総帥に覚えられたらしい。名前を呼ばれ、ぐるっと振り向けば、うんと背が高くて、骨張った彼と目が合った。

「香水は校則違反だ」
「すみません、影山総帥」
「それに化粧もしているのか?」
「はい、影山総帥」

 じっと、悪びれもせず、サングラス越しの瞳を見つめた。
 射抜かれて、殺されてしまった私の少女は、女となり息を吹き返す。はぁ……っと漏れてしまった吐息が、影山総帥の耳に届いてしまったのだろうか……? ゆっくりと近付くと、私の顎を掴んで、私の罪を暴こうと顔を左右に倒した。規則に厳しい影山総帥は少し、ほんの少しだけ不機嫌そうに口角を垂らし、私の顎から手を離す。

「落とせ」
「影山総帥が落として下さい」
「何を言っている」
「私、影山総帥の為に規則を破っていたんですよ、このリップも、アイメイクも、香水も、全部貴方に気付いて欲しくて」
「馬鹿な事を言うんじゃない、離せ」
「嫌です」

 大胆にも、いや……強引に、と言うのが正しいのかもしれない。グイッと骨張った腕を掴んで、私は影山総帥の唇に、呪いのように女を染み込ませた赤を重ねた。突き飛ばされるかも、と思っていたのに、私が気が済むまで彼は私の言いなりだった。
 ゆっくりと唇を離せば、私の赤が影山さんの薄くて、男性らしい唇に伝染病のように映える。うっとりと目を細めれば、細くて、硬い指先でそっと、口紅を拭う影山総帥。

「なんの真似だ」
「影山総帥、好きです」
「……馬鹿げた事を言うな」

 鼻を鳴らし、影山総帥は私の顎をもう一度掴んだ。

「この口紅さえ塗らなければ、お前は少女のままでいれたというのに」

 サングラス越しの瞳は、初めて見る熱を秘めて、私の産まれたばかりの女に餌をやる。ジッ……と、私の唇を見つめてから、影山総帥は荒々しく私の唇から指を離した。唇に注がれた治らない欲望が、身体中を潤わしていく。私は、影山総帥の革靴の音を脳に響かせながら、そっと、自分の唇を撫で笑みを零した。


20191105■LIP SERVICE
→修正20211007