ジャスミン
彼女は私にとってかけがえのない存在だ。母を思い出すような優しい笑顔と、優しい熱でいつも私を包んでくれていた。
準決勝の前日。
彼女に誘われ、お気に入りだという公園へ足を運んだ。ふわりと香る花の香り。どこかで嗅いだことがあるが、名前が分からず彼女に尋ねれば「これはジャスミンだよ」と答えてくれた。彼女と出会わなければジャスミンを一生知らなかったかもしれない。少し近付き、深く息を吸えば噎せ返りそうな程、甘い香りが鼻に纏わりついた。
「いい匂いだよね、ジャスミン大好き」
「初めて見た」
「誰かがここに植えたんだろうね、ここでしか私も見たことないんだ」
柔らかい芝の上に彼女は座り込んで、私と同じ様に深く息を吸う。
「影山君、明日準決勝だね」
「ああ」
「勝ってよ、ここまで来たんだから」
「私は負けない」
「本当にいつも一人で戦ってるみたいな言い方するんだから、まぁ影山君らしいけど」
彼女はそう言うと私の肩に頭を乗せてきた。ジャスミンに負けないシャンプーの清潔な香りに胸がときめく。触れたら、彼女が泡になって消えてしまうかもしれない。なんて、我ながら馬鹿なことを考えていたら、彼女は「影山君、手繋いでいいかな」と、私の顔をのぞき込んだ。
「ほら」
「影山君の手冷たいな〜」
「お前の手は熱い」
手から伝わってくる熱もあるのだと、また心臓がざわつく。このまま彼女を抱き締めて、全てを手にしたいなんて、悪い考えが脳裏をよぎるが、手を繋いでいるだけで満たされている心にこれ以上褒美を与えるわけにはいかなかった。
「影山君 大好きだよ」
「ああ」
「影山君は言ってくれないの?」
言葉の代わりに彼女の頭をそっと撫でれば「ん〜、今日はそれで勘弁してあげる」なんて意地悪く笑った。その顔があまりにも綺麗で、彼女に心底惚れてしまったのだと感じた。この時間が永遠に続いて欲しい。
+*+
準決勝。汗を拭い、ベンチの方に目をやれば彼女の姿がなかった。彼女は試合中に席を立つような人間ではないので、何処に行ったのだろうと辺りを見渡すが、何処にもいない。
「円堂監督、マネージャーは何処に」
「影山お疲れ様だったな! 後半戦が始まる頃にトイレに行ってたと思うけど……確かに遅いな、様子を見てくる」
「いえ、私が行きます」
汗が噴き出た。もしかしたら、彼女はあの男に、いや、考え過ぎか? 小走り気味に控え室に向かいドアを開けるが そこにはただ暗い部屋が広がるだけで、やはりトイレだろうか? 三十分も? 控え室に背を向け、目の前の女子トイレ前に立つ。何度かノックをして彼女の名前を呼ぶが返事がなかった。
「開けるぞ……」
キィっと古い音を立ててドアを開けると、ずらりと並ぶ個室のドアは全て開いていた。その光景に、嫌な汗を背中が伝う。
「おい、影山! アイツはいたか?」
「響木……いや、いない、何処にもいない」
「……おい、影山大丈夫か? 顔色悪いじゃないか」
震える手を見られたのか。心配気な声色を投げかけてくる響木。ゆっくりと目線を向けると「アイツ、何処いったんだ……円堂監督に伝えてくる」と、いつも目つきの悪い響木の目は、不安げに揺れていた。私はその瞳に頷き、そして走り出した。
『……そうか、残念だよ影山君。お願いではなく命令だというのに。君にはボスが誰かを分からせる必要があるようだ』あの男の言葉を思い出す。やめてくれ。私から彼女まで取り上げないでくれ……! 筋肉が悲鳴をあげるも、必死に動かし、彼女の姿を探し続けた。無事でいてくれ……。
捜し始めて、一時間が過ぎていた。
どこにも居ない、どこにも……。くったりと膝が笑い、崩れ落ちてしまった。ハアハアと荒い息を必死に整えようとするが、絶え間なく漏れる息に酸素が足りない。地面をしばらくボーッと見ていたら、携帯が鳴った。彼女が家からかけてきたのだろうか? そんな淡い期待を抱くも、電話の主は……ガルシルドだった。
「やぁ影山君、探し物は見つかったかい」
「貴様が彼女を」
「彼女はジャスミンが好きなんだってな」
その言葉に、心臓が止まる。この世界はこんなにも悪意で満ちていると、なんで忘れてしまったんだ?
20180621
前へ|次へ
戻る