「――ほなまたな、ブラック!」
楽しい時間というのはあっという間に過ぎるというのはよく言われることだが、それは犬にとっても例外ではないと思う。満面の笑みで頭を撫でて(少し乱暴気味な気がするが、あえて彼女の愛情表現として受け止めておく)そうして部屋を出て行ってしまった彼女の背中を名残惜しく見つめていれば、…ピシャリと閉じた扉が自身を現実に引き戻した。
「――まったくお前はどれだけ私の邪魔をしたら気が済むのだ」
…はい、出ました。本日もこの社長はご機嫌斜め45度。それは決まって彼女が社長室に遊びに来たあとで起こる現象である。
「だいたいな、お前は犬という特権をフル活用し過ぎなんだ。場を弁えんか、場を」
…いや、意味がわからないんですけど。
だいたいこの社長、俺がいなければ彼女に見向きもしてもらえないことをわかっていない。彼女は俺目当てにこの部屋に訪れている。彼はそれを照れ隠しでそう言っているなどというが、…なんだろう。とても頭がめでたいというか、ある意味で賢いというか、なんというか。
「お前は私の"側近"だろう。私の命、権威、そして幸せを確立させ続けるのが仕事ではないのか」
なのに毎度毎度彼女の意識を横取りし、そうして自分のことは放ったらかし。まったくもってけしからん。そう言って社長は彼女がついでに(いや、寧ろこっちの方が重要な仕事で)持ってきた書類に目を通す。
…お前は小学生か、とつっこんでやりたいが、生憎俺は人の言葉が喋れないので、伏せをして前足の上に顎を乗せて上目遣いならぬ呆れた顔を向けてやったのだが。
「…なんだその態度は。犬のくせに生意気だな」
…余計彼の機嫌を損ねる事になってしまった。
しかし、そこまで言われてはこちらも黙ってはいられない。何が犬のくせに、だ。何が犬の分際で、だ。
…分かってる。彼には十分過ぎる生活を与えてもらっているし、彼のお陰で俺は今この世界で生きていることが出来ていること。でも、それでも、そこまで俺を邪険に扱わなくてもいいのではないか。たかが嫉妬。それも人ではなく犬に多大な嫉妬をする彼も彼だ。これだから権威の強い生き物は困る。自身の思い通りにならないと気が済まなくて、自身より立場の―身分の低いものをこれでもかというくらい見下して。
「……、」
…なんだかイライラしてきた。いつも俺は彼の思い通りに動いてきた筈で。でも、俺の楽しみまで取る権利は彼にだってない筈で。
こうなったら、とことん困らせてやろうか。世の中そう自分の思うように事が進まないこと、教えてやろうか。
「っワン!」
「?っ、おいどこへ――?!」
そして俺は、今。
下克上を開始した。