「おいっ、待て――!」
待てと言われて待つ奴なんて早々いない。その言葉を発する人に忠誠心を誓っていれば無くもないだろうし、というより昔は…というより最近…というより今の今までその心を持ち合わせてはいたのだが。
そうして彼の機嫌と権威を側で保ってきたつもりだった。優秀で優美で、彼の隣に相応しいスタイルを確立させてきたつもりだった。
…でも、なんかもうどうでもいい。
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すたこらさっさとビル内を軽快に歩く。いつもは彼とどこへ行くにも一緒で、決まって歩くのは彼の隣。一人で出歩くなんてこれが初めてで、かといってその心に不安などはなかった。
けれども周りはそれに不安を覚えているらしく、ソワソワざわざわひそひそと自分を見ては驚き、そして決まって隣にいるはずの彼の名前を―彼の肩書を口にしていく。…くそ。イライラした。自分は彼の隣の付属品としてしか認識されていないことが。そうすることでしか自分の存在を確立させてこれなかったことに対しても。
「――あれ?ブラック?」
その時だった。聞きなれたその愛称に、自分の心が高鳴るのを感じた。
「!ワン!」
ブラックはその耳をピーンと立て振り返り、すぐさま自分の元へと寄って来た。ビル内の一角で彼と会うのはこれが初めてだが、彼を見ると同時に浮かぶはその黒とは正反対の白を纏った人物の姿。
「?…あれ?社長は?」
しかし、いつになってもその白は現れなかった。ブラックが"一人"で出歩くなんて珍しい…というよりそんな事今まであっただろうか。
「おらへんの?」
自分のその問いかけにブラックはプイと拗ねたような顔をした。…怒ってる。彼はきっと何か怒っている。喧嘩でもしたのだろうか。
「何があったんや?ブラック」
その頭を撫でてやれば、スリスリとすり寄ってくるその様はまさにワンコ。あの社長ブラックに何をしやがったのかと慰めるようにじゃれ合っていると、周りから変な目で見られた。…あぁこの子は普通の犬じゃなかったと思いだして、とりあえず人眼につかないところに移動する事にした。
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一人と一匹は屋上にやってくると、その隅にあったベンチに腰掛けた。天気は良好で、いい小春日和。真っ青な空の下に広がる鉄筋の色が太陽に反射して、黒々と光っているのが嫌に綺麗だった。
暫くたわいもない話をしていた。…否、話しているのは彼女だけで、俺はただそれを横で黙って聞いているだけ。何を話しているのか全ては理解できないのが残念だが、楽しそうな表情や嬉しそうな表情を浮かべているところをみると、自身の心もなんだかウキウキしてそれはそれは楽しい時間を過ごせたと思う。
…ただ、その合間。考えたくもないのにどうしてか彼の顔が浮かんでは消え浮かんでは消えていた。今彼は何をしているのだろうとか。自分がいない分警備はちゃんと彼についているだろうかとか。彼女が嬉しそうに話すその表情に、社長室で誇らしげな表情を浮かべて何かを自分に語る彼の姿が重なったりして。
「……」
その時には分からない感情も、離れて初めて気付くってやつなのかもしれない。あぁ俺の中は彼でいっぱいで、俺は彼で成り立ってきたんだと。
…俺は、その場所で今と同じような幸せを感じていたんだって。
「ブラック、戻らんでエエの?」
「……」
「あんな社長でもさ、心配しとるって」
果たしてそうだろうか。今も優雅に社長室でコーヒーを飲み耽っているに決まってる。…そう考えたらまたイライラしてきた。彼にとって自分は、自分の存在意義って――。
「――ここにいたか」
「「!!」」
振り返ればそこに、光を浴びてより一層輝きを増した白いスーツに金色になびく髪。眩しくて一瞬目をこらしたが(←大袈裟)、しかし彼が現れた事に最初に感じるのはやはり嫌悪感。
「げ、社長」
「何だその挨拶は。俺に会ったら『今日も素敵ですね、社長』だろう」
「…あぁ、今日もめでたいですね、しゃちょー」
彼の姿を見た途端駈け出したい気持ちが無意識に派生したが、俺はそれを理性を保つかのようにグッとこらえた。…危ない危ない。これでは飼い主大好きワンコ、に成り下がるではないか。
「まったくどこをほっつき歩いていたんだ」
「……」
「帰るぞ、ダークネイション」
「……」
足が少しプルプルしている。行くか行くまいか俺はまさに今、葛藤の渦に巻き込まれている。犬としての忠誠心。己としてのプライド。
「お前の仕事は俺の隣にいることだろう」
何をサボっているのだと、あぁ本当にこの社長己中心的というか、なんというか。犬にだって感情がある。ブラックはモノじゃないのに。
「…、お言葉ですが、社長――」
そうして、少し文句を言おうとしたその矢先。
「…お前が隣にいないと、私の調子が狂うのだ」
「「!!」」
ポツリ、と。放たれたその言葉は幻聴かと思った。彼の口からそんな言葉が発せられるなど思ってもいなかったから。
まるでそんな事言わせるなというかのように―いやたぶん恥かしくなってそそくさと屋上から出ていってしまう社長の後ろ姿はやはり眩しい。…なんだ。社長にもいいとこあるんじゃないか。
「…やって、ブラック」
見上げた彼女は穏やかな表情をしていた。ぶっきらぼうで素直じゃない。彼のそんなところを一番知っているのも、きっと俺だけなのかもしれない。
「…ワンっ!」
俺はしぶしぶといった感じで―いや、内心嬉しくてたまらなくて、彼の後を追っていた。
たまには飼い主と喧嘩するのも悪くない、なんて。らしくない事を想いながら。