カタカタカタカタ――
静寂の中ただ響くのはキーボードを叩く音。時たま強く音を放つそれは、その人物の感情を大きく表しているようにも聞こえる。
「…ふぅ、」
その音を出している張本人―シンバは溜息を吐き出しながら左手で頬杖をつき、チラリと斜め前の上司に目をやった。
相変わらず黙々と書類に手をかけるその人。様になるその姿に仕事の出来る男とはこういうものかと少し尊敬の眼差しを向ける。…シンバの右手は未だにキーボードを叩いているものの、先ほどまでの勢いは消えていた。
「…んー疲れた!」
右手をキーボードから離し、頬杖をついていた左手と組み合わせて上に大きく背伸びをする。
コト、
すると、目の前にそっと差し出されたマグカップ。香りからして、中身はコーヒーであろう。
「お疲れ」
声のする方へ目をやると、そこに立っていたのはいかついスキンヘッドの男。
「すみませんルードさん!いただきます!」
シンバは両手でマグカップを包むように持ち上げ口に運んだ。あちっと小さく呟きながら、ルードの動きを目で追う。
――あれから、一ヶ月
ドラゴンとの死闘後。意識を取り戻し目を開ければそこには真っ白な天井が広がっていて、病室だとそう思った瞬間に自分は元の世界に戻ってきていて病院で治療を受けていたのだと、今までのは全部夢だったんだと、やけにリアルな夢だったなと、そう思った。
しかし、それはドアを開けて入って来た人物―ツォンによって打ち砕かれた。…夢じゃなかった。やはりここが、現実なのだと。
気を失っていただけで大して怪我もしていなかったシンバはその日すぐに医務室を後にしたが、そうしてツォンに連れられ向かったのは社長室だった。ドラゴンを倒した事でプレシデントやハイデッカーからも一目置かれ、正式にタークスの一員として任命されることとなったのだ。
その事はすぐに社内に広まり、シンバは一躍時の人となっていた。
「――…なんだ?」
シンバの視線に気づいたルードは自身の席―シンバの目の前のデスクに着きそう問う。
「ルードさんて意外と優しいですよね」
「…意外は余計だ」
クスッと笑いマグカップを置き、再びパソコンに目を向ける。
レノは見た目通りの面倒臭がりで、ルードはパソコンが苦手ときた。デスクワークに不向きすぎる二人の代わりにシンバがデスクワークを担当する事となったのだが、着々と仕事をこなす真面目な面もツォンに評価され、今やシンバはタークスに欠かせない人材として成長している。
「……」
…しかし、シンバには一つ、気がかりな事があった。
あの時、ドラゴンを倒した力――
レノ達から後から聞いて知った事の方が多いほど、シンバにはその時の記憶があまり残っていない。毎日毎日レノやツォンに扱かれながら訓練を積み戦闘面でもかなり成長していたのだが、その力が日頃の訓練で見いだされる事はなかった。
…あの力は一体なんだったのか、今となっては知る由も無い。はたまたその力を出した本人に自覚が無いのだからどうしようも出来ぬまま、そうして時は過ぎていくばかりだった。
ウィーン――
オフィスの扉が開き、入ってきた目がチカチカするほどの赤色。シンバはチラリと目をやっただけですぐさまパソコンに目を戻した。
「おーおーシンバチャン。ちょっと冷たいんじゃないのー?」
シンバの隣のデスクのレノは、自身のイスに腰掛けたと同時にイスごとシンバに詰め寄ってきて、
「ちょーちょー近いわ!!仕事中や!邪魔すな!!」
レノのイスをぐいっと押し返せば、イスは反作用でユックリと進んで行く。レノはそれをいささか楽しんでいるご様子で、ルードは黙って二人の"コント"を見ていた。
シンバが来てからというもの、男臭かったタークスのオフィスに華やかさと賑やかさが咲いたのは紛れもない事実。シンバをいぢる事が日課となったレノは毎日が楽しそうで、ルードも満更でもなくそれを見て楽しんでいた。…しかし、相変わらず手を焼く羽目になっているのはツォン。デスクワークではかなり助かってはいるものの、レノとセットになると面倒になる事が多いのが玉に傷だ。…決して本人たちには言わないけれど。
「つれねえなぁ、遊ぼうぜシンバ」
「ツォンさんがおる前でよぉそんな事言えるな!」
タークスの仕事にも生活にも慣れて来たシンバは、自分が今ゲームの中の世界にいる事を忘れる事が多くなっていた。このままタークスとして一生を終えるのも悪くない、なんて。非日常は、今やもう日常と呼ぶにふさわしくなっていた。
***
「――この資料を67階に持っていってくれ」
それはある日の午後の事。ツォンから分厚い紙束を渡されたシンバは、何の気にも止めることなくオフィスを後した。
こうやっておつかいを頼まれる事はよくある。けれども、67階に行くのはこれが初めての事だった。
「……」
ガラス張りのエレベーターに乗り込む。乗るたびに思うが、本当に神羅ビルはデカくて超高層だ。そんな所から見る景色はとても綺麗だが、そうして見下ろす度に思い出すのは、自分は既にこの世界の住人となってしまっている事実。
神羅の社員達ともほどほどに顔見知りになっているが、誰も自分を不思議がらないでいる。見た目もさほど皆と変わらないから、他世界から来たと言わない限り分からないだろう。…言ったって誰も信じやしないだろうけれど。
アバランチが動いているとはいうもののこれといって大きな抗争もなく、平凡な日々が過ぎていた。していることはデスクワークばかり、現実の時と然程変わらない。…本当にここはあの世界―ゲームの世界と同じなのだろうか。そんな疑問の方が今は大きいような気もして、
チン――
エレベーターの音と共に思考を現実へと戻し、シンバはそのフロアへと降り立った。
そこには、白衣を着た人々が忙しそうに動き回っていた。研究熱心なのか周りに興味が無いのか―はたまたシンバに気づいていないだけなのか、誰も自分を気に留めてはくれない。冷たい、なんて冷たい人種なんだ。機械が恋人か。と若干さみしさを感じつつ歩みを進める。
キョロキョロと辺りを見回しながら自分を相手してくれそうな目ぼしい人物を探していると、ある部屋から動物のうめき声が聞こえてきた。…動物実験もしているのだろうか。動物大好き人間シンバは、興味本位でそこへ足を踏み入れた。
「…?」
そうしてふと目のはしに映った、オレンジ色の物体。何気なく見やったそれは、シンバもよく知る人物―いや動物だった。
「…ナナキ、」
「!」
いきなり入ってきた黒尽くめの小柄な女が自分を見てそう呼んだ。…確かにハッキリと、自分の本名を。
「…どうしてその名を」
「!!」
喋った。本当に喋った。目の前のオレンジ色の動物が言葉を発する事、シンバはもちろん分かっていたが、しかし目の前で本当に喋られるといささかビックリするもので、知っていても体験した事ないことに出くわすと人は反射的に驚くものなのだとそう思った。…いや、そんな事よりももっと大事なことがある。
――やば!反射的に言ってしまった!!
ここで彼は"レッドXlll"と呼ばれている。それもただのシリアルコードで名前でもなんでもない―ただの数字記号だ。ここの人間は誰も彼の名前に興味はない。…そう、ここの人間の誰もが彼の本名を知らないのだ。
「え!?いや…あ、そうそう!昔飼ってた犬にそっくりやったもんで!その子にナナキって付けてたもんやからつい…!あは、アハハハハ――」
――苦しいか!?
シンバは苦笑いをしながらナナキに目を向けた。
「……そうか。変わった名前を付けたんだな」
ナナキはいまだ警戒した目でシンバを見てはいるが、その話には納得してくれたようだ。シンバは心底自分の適当ぶりを賞賛した。
「私はここではレッドXlllと呼ばれている。…そんな事よりも驚かないんだな、私が言葉を発していることに…」
「え!?…いや、驚きを通り越してもはや普通やわ…」
シンバは檻の前にしゃがみ込み、まじまじとレッドを見やった。まさかこんなに早くレッドに会えるなんて思いもしなかった。そういや宝条に捕まっていた事を、頭の片隅に思い出す。
「…レッドは何で檻の中に――?」
我ながら無意味な質問だとは思ったが、こんなチャンス逃してたまるものか。折角の話せる機会を手に入れたのだ。とシンバは持っている書類の事も忘れてレッドの前にしゃがみ込んだ。
「――…そこで何をしている?」
しばらくレッドと雑談をしていると、後ろからかかった声に驚き振り返る。一人の研究員が怪訝な顔でこちらに近づいてきていた。
「あ……これ!お届けものです!」
シンバはすっかり忘れていた本来の目的のモノをその男性に押し付ける。すっかり長居してしまっていた。これはツォンに叱られるに違いない。…仕方ない、迷子になったとでも言い訳をしておこう。
「ほなレッド!またなぁ!」
レッドに手を振って、シンバは駆け足で自身のオフィスに戻って行った。
「……」
レッドはその後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた。
ここへ来てからというもの自分はただの実験道具で、誰も話しかけてはこないし自分の痛みも感じてはくれなかった。
そうして生きることの意味や希望を失いかけていたその時、その女は突然現れた。いきなり現れた黒尽くめの小柄な女は、最初は驚いてはいたものの普通に自分と接してくれて、そして自分の事を「ナナキ」と呼んだ。誰も本名を知るはずがないのに、自分の事を呼んでくれた。たとえ間違いであったとしても、偶然であったとしても、ナナキにとってそれは心を開く鍵となった。…笑顔で自分に話しかけてくれる。自分の話を聞いてくれる。自分に興味を持ってくれる。
その事だけで、ナナキは嬉しくなった。
***
それからシンバは仕事の合間をぬっては頻繁にレッドに会いに行っていた。最初は研究員達に怪訝な顔で見られていたが、次第に誰もシンバの事を気に留めなくなっていて、あぁまた来ているぞあの女と、どちらかと言えば呆れた顔をするようになっていた。
…そしてすっかりシンバと打ち解けたレッドは。
「でね、じっちゃんは何でも知ってるんだ!」
…既に子供に戻っていた。
「シンバと話していると、すごく落ち着くなぁ。何だか甘えたくなっちゃう」
「っしし!可愛いなぁ〜もう!」
檻越しにレッドの顎のラインを撫でる。思っていたよりもフワフワで触り心地抜群。
「オイラは猫じゃないよ」
言いながらも気持ち良さそうな顔をするレッド。あぁ、いっそのことオフィスに持って帰りたいが、きっとツォンに一喝されて終わるだろう。見るからにツォンは頭が固そうだ。…いや、そういう問題ではないだろうが。
「…そろそろ行かなな。ウチの上司はうるさいからなあ〜」
「…もう行くの?」
よっこいしょと腰を上げ、背伸びついでに欠伸も出すシンバをレッドは見上げるように見つめる。シュン、と淋しげな顔をするレッド。シンバはニコッと笑って見せた。
…それはいつもとなんら変わらない、さよならの瞬間。
「また、明日も会えるよね…?」
だが、レッドは何故か胸騒ぎを感じていた。動物の直感、といったところだろうか。
…シンバが、何処かへ行ってしまうような感覚を。
「あったりまえやん!」
いつもと同じ笑みを見せるシンバ。その笑顔はレッドの不安を吹き飛ばすのに十分で、その笑顔につられてレッドも笑って見せた。…気のせいだと、言い聞かせて。
「じゃね〜、また明日!」
部屋を出て行くシンバの背中が見えなくなるまで、レッドは見送る。
…その姿を、どこからか見つめる視線が、もう一つ――
「アレが、例の――」
男はかけていたメガネをクイッと持ち上げると同時に、口角をも上げた。…さも、嬉しそうに。
その日を境いに、シンバがレッドの所に現れる事は無かった。