「…!」


自分を置き去りにしてまで、アサトが守ろうとした妹―ラム―ライの母親の意志。誰かを守るために命を懸ける尊さを、自分は誰よりも身近に感じてきたからこそ、その気持ちがローには分かってしまう。

父を恨んだ。確かに父を憎んだ。だが、その後に新しい父親が出来た。幸せに暮らした。医学を学んだ。母の遺伝で、病気を患っていた。町や両親は死んだ。それでも己を救おうと必死になってくれた"恩人"がいた。
自分を守ってくれる人が亡くなる辛さを、誰よりも知っている。だからこそ、自分を守ってくれる人の思いに抗ってはいけないことも。意志を継ぐとは並大抵の事ではできない。けれども己は今、その意志を継ぎ果たそうと野望を抱いているではないか。仇を討とうと、密かに闘志を募らせているではないか。
…同じなのだ、父と。認めたくはない。だが、血は争えないことを認めざるを得ない。この歴史を、理解しなければならない。


「…っ、」


どうして。声にならなかった。父が強引に連れて帰ろうとした際、船長は止めてくれた。俺の仲間をどこに連れて行くんだって、しっかりと繋ぎとめてくれたのに。まさか第一声そう言われると思ってもいなくて、じわじわと身体の底から湧き出る感情に唇の震えが止まらない。


「…悪ィが、二人きりにしてくれねェか」

「……」

「…逃げたりしねェよ」


船長の言葉に、父はそれと自分の顔を交互に見、何言うことなくスッと部屋から出て行った。
バタン、とドアが閉まったと同時、父がこの部屋に来る前とは異なる空気に、胸が詰まる思いがした。


「……まさか、お前と従妹だったなんてな」


父が出て行って直後、船長は立ち上がり、自分側―ベッドの端に腰かけた。重みでベッドが少し軋む。いつも感じてきた、重み。いつになく身体に響くのはアバラを負傷しているからだろうか。


「手を出さなくて良かったと心底思っている」

「……何、言って、」


こんな時でもそんな冗談。場を和ませようとしてくれているのだろうか。でも、船長らしくない。きっとこれは、船長らしくない。


「……俺は、昔から―お前がこの世界に免疫が無いと気づいた時からずっと、己の無力さを嘆いてきた」


平和な世界で生きてきた女と、常に死を意識し生きている己との差。その"恐怖"を思い出す事など出来なくて、そうしてライの気持ちに寄り添ってやる事が出来なかった。ニホンへ帰りたいと願っていても、どうしようも出来ずに、手がかりすら掴んでやれずに。懸命にこの世界に馴染もうとする彼女を、力をつけて海賊になろうとする彼女を支え、見守ることしか出来なかった。

命を落とすようなマネだけは絶対に俺がさせない。いつの日かそう、誓った筈なのに。全ての奇襲に対応出来ずに、いつも事が起こった後にしか駆け付けられずに、自分の力ではどうすることも出来ない事ばかりに、己の無力さを痛感してきた。
あぁ、本当は気付かなかっただけで、"恐怖"という二文字をいつのまにか思い出していたのだ。しかしこの"心臓"に結わえておくことができなかった。結わえていればきっと、何か変わったのではないか、なんて。


「……」

「……今も、そうだ。ニホンへ帰る道を見つけたお前の背中を、こうして押すことしか出来ねェ」


分かっていた筈だった。きっとライはここにいたがることも、クルー達は絶対に反対することも。
分かっていた筈だった。この先の敵の強靭さも、彼女を先のように危険な目に遭う確立が高くなることも。
分かっていた筈だった。己の"恐怖"がライを失ってしまうことに過剰に反応しているということも。
分かっていた筈だった。ライにとってはニホンで平和に暮らすことが幸せであるということも。


「…本当はずっと、帰りたかったんじゃねェのか」

「…!」


ぶわり。震え続けていた唇を噛み締めると同時。底から溢れ出た思いが頬を伝ってポロポロと落ちていく。

最初から、ずっと。選択肢なんて無くて、ハートの海賊団に身を置くことでしか生きていく術が無かった。ニホンへの手掛かりが無くて、帰り道も分からなくて、もうどうしようもなくて、"そうするしか"他無かった。
二度と帰れないという思いの元、やってきた。諦めたから、覚悟を決めたから新たに繋いできた自分の道だった。


「……っ、」


――しかし。父を見た瞬間に、細胞中が彷彿するほど、ニホンへの思いが頭の中に巣食い始めた。無意識に、嫌というほど無意識にニホンと世界を繋ぐルートの存在に酷く安堵してしまった自分がいた。ニホンに恋しさをずっと感じていた自分に、気付いてしまった。


「……わたし、っ、」


それでも、ここから離れたくないとすぐに思い返した。仲間との楽しかった日々を、絆を深め合った日々を、力を付け合った日々を、共に戦い助け合った日々を。もう二度と続けられなくなるなんて、そんなの嫌だって、皆と共にいたいって。思えば思う程自分の我侭さが露呈していることも、亡き母の思いを裏切る形になることも、分かっていたのに。
だが、先の父の言葉で、全てが無になった。恋しいと思うのと楽しいと思うのは違う。戦いの中に身を置くことに重きを置けない自分が居る。離れたくないと思うのは、命を懸けてこの先の航海を続けたいという思いから成るものではなく、彼等との楽しかった思い出だけを切り取っているだけなのだと。


「…ごめんなさっ、…!」


何に対する謝罪なのかは分からない。それでも、そう言わずにはいられなくて、そうとしか言えなくて。他の思いは言葉にならずに目から止め処なく溢れるばかりで。

ローはスッと左手を伸ばし、ライの後頭部に回したそれで優しく頭を引き寄せ、己の胸に彼女を埋めた。
…いつかもこうして、彼女の涙を見えないようにしていた。こうして受け止めてやることしか出来なかった。そして、いつかと同じ言葉しか、頭の中には浮かんでくれなかった。


「……お前は何も、悪かねェよ」


ポンポンとあやす様に。コルセットのせいか呼吸がし辛くて、嗚咽のせいかアバラが疼く。それでも、ライはその胸の中で泣きつづける事しか、出来なかった。



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