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その後、再び父を船長室に呼び戻し、ライは自ら「ニホンへ帰る」と約束をした。
だが、やはり今すぐには帰れない。お世話になったクルー達に何の恩返しもしないままなんて白状者、だから2、3日猶予が欲しいと懇願した。「指輪の存在がバレているなら尚更、一刻も早く帰国すべきだ」と言う父を何とか説得し、明後日の朝一に発つ事で和解。明日をクルーとの最後の1日として過ごすこととなった。

明後日の朝この海岸で合流することを取り決め、父と部下二人が船を去って後。クルー達に説明をと全員を食堂に集め、父親の来た経緯、二人の関係性、そして指輪の真実を船長が語った。父親からは「カイザー一族の歴史、カナロアやヤムの"詳細"については公言しないでくれ」と言われている為、話の内容はえらく簡単にまとめられたものだったが、きっとそんなことクルーにとってはどうでもいいことだったのだろう。注目はその後の自分の選択にのみ当てられていた。


「…それで、ライちゃんは父親の言うとおりニホンに帰るの?」

「……うん、」

「…どうして…何で帰らないといけないんだ…?」

「っ、何でだよ…海賊として生きていくって決めたんじゃなかったのかよ…!!」


船長が話している最中、真っ直ぐ前を見据えることも出来ず、クルー一人ひとりの顔色も伺えず、じっと俯くことしかできず。目頭が熱くなるのを感じた。
シャチの言葉が胸に刺さる。この世界で生きていく為に、皆と共にいる為に強くなろうとした自分の決意を称え、喜んでくれていたのに。こんな仕打ち、酷いとしか言いようが無い。

ようやく打ち溶け合えた。溝を、埋められた気がした。彼らとの相違を、無くせた気がした。そう思っていた。思っていただけで、本当は埋められていなかった。無くせなかった。根本的なニホン人という体質が、すべてにおいて邪魔をしていることに気付いていなかったのだ。


「…ごめん、」


泣いてはいけない。泣かない。部屋を出るときにそう決めた。勝手かもしれないが、悲しい別れにだけはしたくない、最後は皆笑顔で終わりたいと。けれど、何て言えば皆が納得し笑顔を取り戻すことが出来るのかがわからなくて、謝罪の言葉しか口から漏れてくれない。

…しかし、その意を汲み取ってくれたのか、次に口を開いた船長から出た言葉は、想像にもしていなかったものだった。


「永遠の別れだと誰が言った?」

「「!!!」」

「…あの親父も頑固でな…言い出したら聞かねェ。…まァ、お前等みたいに独身者には到底分からねェよ。娘の命がどれだけ大切なのかなんてな」


ましてや、海賊世界でそのど真ん中に身を置くなんて、尚更。
そう言ってトレードマークの帽子を脱ぎ、髪をガシガシと掻く船長。…しかし船長も独身者ではないかと大半のクルーが思ったが、敢えて突っ込まない。


「事が落ち着くまで向こうで"待機"という意味での帰国だ。…まァ、期間は未定だがな」


チラリ、と目を向けた船長の横顔、いつも通りの表情。「なんだそういう事か」と「それを先に言ってくださいよ」と、先ほどまで淀んでいたクルー達の間の空気が換気されていく。

船長の"嘘"のお陰で、それから自分がニホンへ帰ることを咎める者はいなかった。相変わらず嘘が上手い。それでこの場が納まるならばそれでいいという考えなのだろうか。明日1日中この雰囲気を引きずって過ごす重苦しさを思えば。"事実"を伝えて彼等との溝を深めるよりは、それで。


「……、」


ペンギンは、今の話をどう思っただろう。いつもならシャチやセイウチの横に、一番前にいる筈の彼の姿は最初から無かったのは気になっていた。
堂々と、ようやくその顔を上げる。チラリと奥に見えたトレードマークの帽子のてっぺんの赤はやけに遠い。クルーの一番後ろ、壁際に一人も垂れて立っている彼の表情は見えなくて、誰かの身体が動いたことによってそれは視界から遮られてしまった。


「父親の目を欺いてどうやって戻ってくるか…見物だな」


事態が事態だ、伝説の島と竜の話を聞いてしまった以上、指輪の在処の目星を付けられ易々とカイドウの手に渡ってしまう事はあってはならない。それはローも重々承知だった。いくらカイザー一族にしか操れないとしても、守護神だとしても、ヤムは国一つを滅ぼす力を持っているのだから。
だったら、指輪さえこの世界に置いておかなければいいだけの話なのではないか、なんて。…思っても決して口には出さなかった。否、出してはいけない。もう決まったことだ。指輪と共に彼女はニホンへ帰る。何事もなかったかのような、以前のような日常が戻ってくる。…少し、航路が変わる。ただ、それだけだ。


「…そうだ!ライ!!海賊の意地見せてやれよ!!」

「待ってるからな!!」


皆が激励する中、「でも、寂しくなるな」最後にそうポツリと呟いたベポの落ちた表情をずっと見ていられなくて、ライはすぐに目を逸らした。
分かっている。自分も落ち込んだ表情をしていてはいけないことくらい。帰ってくる、いつか帰ってくるんだという意気込みを、演じなければいけない。
皆を騙してしまった罪悪感を弾き飛ばすように、ライは笑顔を振りまいた。

笑うたび、アバラが痛んだ。


*


「――どうして、あんな嘘、ついたんですか」


そうして夜、寝る前。いつもの習慣、ソファで本に目を通す船長にライは食堂での話を掘り返した。
こうして二人で話す機会も、あと数回しかない。今まで船長との間にあった沈黙をどう埋めたらいいのか分からないばかりだったが、リミットが近づいていると分かると自然と会話をしようという意識が働いているのかもしれない。

「湿っぽいのは嫌いなんだよ」と、やはりその場を収めるためについたものだったようだ。自分もどう返していいか分からなかったあの場での機転、助かった事は間違いない。それでも、最後の最後に皆を騙してしまったという罪悪感は、今も拭えなかった。


「……だが、"嘘"…にするかどうかは…お前次第なんじゃねェのか」

「!」


何故、罪悪感がこみ上げるのか。
それは、自分の中に"この世界に戻ってくる"という選択肢が微塵も存在しないからだ。


「俺は帰って来いとも、帰って来なくてもいいとも言わねェ。…だが、自分で決めたことに揺らぎを与えるな。一度決めたなら最後まで貫き通せ」

「……、はい」


パタン、と小さく音を立てて本が閉ざされる。


「…だが、もし、」


ゆっくりと立ち上がった船長がベッドの隅に腰掛けたままの自分へと近づいて来る。いつもとは異なる雰囲気に、ドクリ、ドクリと心臓が反応を寄越す。


「この世界に帰ってきた時には、改めて歓迎してやるよ」


座っているから余計、その身体が大きく己の前に立ちはだかって見えた。伸びてきた手がクシャリと優しく頭を撫ぜる。いつもと異なる触れ方。ドクリ、ドクリと心臓が反応を寄越す。

「負傷者は早く寝ろ」そうとだけ言い、部屋から出て行く船長の背を目で追いかける。静かに閉められたドアの音が、無性に寂しく感じた。

この世界に居場所のなかった自分に与えられた、帰ってくる場所。
今はただニホンへの思いが強いだけなのかもしれない。ニホンに帰って、その後の自分の人生がどうなるかなんてそんなの自分にも分からない。この世界が恋しくなるのかもしれない。やっぱり皆と一緒にいたいと思う気持ちが強くなるのかもしれない。
…分からない。自分はいつかその選択をする時が来るのだろうか。未来の自分は、今こうして罪悪感に苛まれている自分を、どんな気持ちで見下ろしているのだろうか。

ライはそのままベッドの上、膝を抱え、蹲るように顔を埋めた。



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