騒がしい声から規則正しい寝息が広がるようになった頃。ライは隅っこで一人、ただ目の前に広がる光景を眺めていた。
「…しみじみか」
「!」
「初めてじゃねェか、お前がこうしてコイツ等の無防備な姿を眺めるのは」
「…そう、ですね」
そこへ現れた船長は、シラフかと思うくらい普通だった。いつもこうして最後まで残って、飲み相手のいなくなったフロアを高みの見物で眺めていたのだろうか。張り合いのない連中、それでも、人一倍飲む行為を楽しんでいる連中を。…その中で紅一点、潰れた己を見て何を思っていたのだろう、なんて。
「…私毎回、こんな顔して寝てました?」
「そうだな。…無防備で女らしさの欠片もない。…手を出さなくて本当に良かったと思っている」
「……何回も言わなくていいです」
フッと一つ笑って「部屋に戻るぞ」という船長に、ライは「ここを片付けてから行きます」と言った。
いつもそう、自分は酔っ払って二日酔いになって朝―というより昼間、綺麗になった食堂で朝食を頂くのが常だった。だが、最後くらいは後始末をして明日の朝を綺麗に迎えたい。たくさんお世話になった食堂、皆と騒ぎ明かした食堂、たくさんの思い出が詰まった場所だからと。
船長は「そうか」と言って、そそくさと出て行く。それを合図に、ライも腰を上げた。
「……」
片付けながら、クルーの幸せそうな寝顔を一人ひとり確認しては、心の中で感謝とお別れを告げる。不思議と悲しさは生まれてこなかった。楽しかった飲み会の所為で、実感が薄れてしまったのかもしれない。
「お前はいつまでの俺のシモベだ」となった覚えなどないが豪語していたシャチ。「寂しい、早く帰ってきてくれよな」としょんぼりしっぱなしだったベポ。「これからって時に残念だ」と海賊としての自分を誇ってくれたアシカ。いつも美味しいご飯をつくってくれたアザラシ。ふざけたことしか言わないけれど、結構気の利くセイウチ。
「……」
そして、もう一人。片付ける最中、ずっとその姿を探し待っているのだが、…それはどこにも見当たらず、足音すらも聞こえてこなかった。
いつも飲み潰れたクルーの後始末をしていると聞いていたから今宵もそうだとばかり思っていて、だから敢えてライはお別れ会中に彼と言葉を交わすことをしなかった。彼は絶対に酔い潰れない。その核心があったから、静まり返った後二人きりで落ち着いて話が出来ればいいと思っていた。やっぱり最後まで何も話さないままでは腑に落ちなくて、彼の思いを聴きたくて。
食堂で寝ている全ての人物の確認は終わった。…彼は、どこにいったのだろう。既に部屋で寝てしまっているのだろうか。そうなれば少し行きにくいなと、どうするべきかと考えながらキッチンの方へ向かい、残った料理を冷蔵庫に閉まってその時。
「…!」
捜し求めていた彼の姿を、隅の方に発見した。
「っ、ペンギン…?」
壁にだらしなくもたれ、片手に空き瓶を持ったまま寝ているその姿はいつも見ている彼からは想像がつかないほど。まさかこんなところにいるとは思いも寄らない。相当酔っているのか、名を呼んでも彼は顔すら上げなかった。
近づいて、俯く彼の顔を覗き込む。話がしたいとか思いを聴きたいとかそんな思考は二の次で、彼の容態の方が気になった。こんなペンギンは初めてだ。
軽く肩を揺すれば、うっすらと目を開けてくれた。少し薄暗いキッチンの奥、それでもその顔がいつもより赤くなっているのは分かった。
「ペンギン、」
「……ライ」
「大丈夫?お水飲む?」
一体彼に何があったというのか。とりあえず、正気に戻るならば戻って欲しい。そう思って水を取りに行こうと立ち上がろうとしたが、
「ライ」
刹那ガッシリ手首を掴まれ、そして
「…!!!」
その腕の中に、すっぽりと収められてしまった。
「っ、ぺ、ぺん、」
「行くな」
いつもより低い声色で耳元でそう囁かれ、全身がゾワリと波打つように痺れた。咄嗟の出来事に反射的に身体を起こそうとするも、ギュっと腕に力が込められる。ドクドクドクと急激に鼓動を上げる心臓の音が煩い。身動きは取れない。どうしてこんなことになっているのかが分からない。
「行かないでくれ」
…それは、今し方、水を取りに行こうとした行動に対してか。それとも、
――ニホンに帰ることに対してか。
「…頼む」
それはまるで、子猫が親猫にすりよる様に。
ドクリドクリと鼓動の早さに比例するように、酔ってもないのに、香るお酒の匂いでこちらまで酔ってしまいそうになる程。背中に張り付いたペンギンの大きな手から伝わる熱、首元にかかる吐息の熱によって全身がゾワゾワと火照っていくのが容易に分かり、羞恥心に襲われる。
何も揺らがないと思っていた。未練などない。彼と話して、ただ何かに区切りを付け、意志を固めたかっただけなのに。
「お前がいないと…ダメなんだよ…」
「…っ、」
何で、そんな事言うのって。何で、そんな期待を持たせるのって。嬉しいよりも複雑な思いが勝っている。セイウチの言葉が頭の中でぐるぐると回りだし、身体の内からじわじわと込み上げて来る何かを必死に堪えることしか出来なくて。
「ライ」
最中、スッと起こされた身体。隙間に入った空気がヒンヤリと柔らかく己の頬を撫ぜ、刹那その熱を逃がすまいとするかの如く背中に添えられていた右手がライの左頬へと添えられた。
じわじわと歯止めの利かない何かを堪える反動で唇が震えているのが分かる。身体も熱い、目頭も熱い、相変わらず心臓の音がアラームのように鳴り響いてこの場のBGMにはそぐわない。
「っ――」
絡む視線の奥に見えた、ペンギンの想い。
ライは小さく息を呑んだ。