翌日。
ザパン、ザパンと、波が船に打ちつけられる音だけが静かに響く中。潮の香りに満ちた明るい外の景色に身体を映えさせるように、天を仰ぐ。雲一つない、風も穏やかな絶好の船出日和。コーティングの終わったポーラタング号、ハートの海賊団が次に向かうは海底、魚人島。
海へ向けていた目を、くるりと180度。甲板にズラリと並んだ白の光景は、いつしか―そう、あれは一番最初、出会いの時の光景を見ているようで、懐かしさがこみ上げた。
あれから、数ヶ月、一年にも満たない期間が過ぎた。恐怖の集団がいつしか掛け替えのない仲間に代わり、共に大海賊時代を渡って行くと決めた、怒涛のように過ぎていった日々。
――そんな彼等と、お別れの時間が迫っている。一番前の列、左に立っている愛くるしいクマの元へとライは歩みを進めた。
「――ライ、帰ってくるときは連絡くれよな!」
どうやってだよ。と周りからツッコミが入る。ライは気にせず「分かった」と言って即、自分の何倍もある大きなベポに抱きついた。
全ては彼の擬態から始まった。あの服が、彼が自分をこの一味に導いてくれたんだと今なら思える。いつしかペットのように可愛がるようになった、このモフモフが大好きだった。
「――ライちゃん」
次いで、その隣。最後は何を言い出すかと"期待"していたが、…セイウチは何も言わず、ただ己を抱きしめてきた。
驚いたが、自身の本意を知っているうちの一人。他の者と己に抱く感情は異なって当然、それを悟られまいとしているのだろうか。最後くらいサービスしてやるかとライも軽く抱きしめ返せば、セイウチはその腕により一層の力を込めてきた。意外とセイウチもガタイがいいんだと、今更ながら知った。
「…僕らの間に言葉なんていらないよね」
「つーか長ぇよ、セイウチ」
周りから野次が飛び出したのと、だんだんと彼の手が下へ下へ伸びてきたので、ライはスッと身体を離した。「ありがとう」笑顔で言う。全ての意を、その言葉に込めて。
「――待ってるぞ、なんなら強くなって戻って来いよ!」
ガッシリと、今度はシャチとハグを交わす。最初から自分を気にかけ仲良くしてくれた弟分。嘘も全部真に受けてしまう素直でいい奴。「シャチもね」そう言ってライは笑った。
「シャチも長いじゃん」と言うセイウチにすかさず「お前より短けえだろ!」とシャチが突っ込む。この二人のコンビも見納めかと思うと、少し寂しさが増した。いつまでも二人の仲が変わらないといい。
「――元気でな」
そして。ドクリ、ドクリと急激に上がり始めた鼓動を、悟られまいと平常心を保つ。ブワリと無意識に蘇る昨夜の出来事を掻き消すように、感謝の言葉を口にした。
ペンギンには、本当にお世話になった。色々な場面で支えてもらい、力になってもらった、助けてもらった。数え切れない感謝が溢れて止まない。どこをどう思い出してもそこには彼の姿があって、ずっと一緒で、そんな彼を、自分は――
「…あの、これ」
面と向かうと、涙が出そうだ。視線を下げ、ライは右ポケットの中から小さな紙包みを取り出し、ペンギンの前へと差し出した。
「これの、お礼。ずっとしたかったんやけど、今になってしもた」
左手で首元のチェーンをスッと上げる。――昨日、昼間。レイリーに船に送ってもらう途中、ライはアクセサリー雑貨屋に寄り、貰ったものと同じようなシルバーのネックレスを購入していた。本当は昨夜二人で話している最中に渡そうと思っていたのだが、急展開が襲った為タイミングを逃してしまったのだ。皆の前で渡すのには気が引けたが、致し方ない。現にセイウチから野次が飛んでいる。…が、気にしない。もう、これが最後だから。
「あ、開けるのはウチが帰った後にしてな」
そう言えばペンギンは「分かった。…ありがとう」と、ポケットにそれを仕舞う。感じから、昨日の事はやはり覚えていなさそうだった。
嬉しいのか、悲しいのか、今となってはもう分からない。…でも、もしも、昨日の事がなければ。セイウチやシャチとのように、気兼ねなく、その胸に飛び込めていただろうか、なんて。
「――船長、」
スッと思考を切替え、その横、この船の長の前へと立つ。ポン、ぐりぐり。いつもの如く撫でられる頭。まるで何も言わなくていいというような、そんな意図が伝わってきた気がした。
昨夜、あの後。小一時間だけだが、色々な事を話した。今までになく、流暢に。
最初は怖くて怖くて仕方なかった船長の優しさ、強さ、頼もしさ。もっと早くに気付けていれば、自分達の関係ももう少し改善されていたのかと思うと、惜しい。大好きだったキャラクターがいつしか己の主に代わり、彼に拾われたからこそ今の自分が有り、このまま彼に着いて行けば何も怖くないのかもしれないと、思わされた程に。
「行ってきます」
「あァ」
フッと一つ、エールを送るような笑みを受け取る。力強く頷いて、ライは覚悟を決めた。
「――来たぞ!」
見張り台の上にいたクルーがそう声を上げれば、皆の視線がライの後ろへ注がれる。ライは振り返らなかった。
波を掻き分ける小船の音が鮮明に聞こえ出し、ゆっくりと、ゆっくりとこちらへ近づいてくるのが分かる。
「皆、ありがとう」
さよならは言わない。悲しくなるから。全員と目を合わせ、表情を見、胸へと刻む。名残惜しいのは分かっている。寂しいのも、苦しいのも。でも、ここでは曝け出さない。泣くのも、嘆くのもニホンに帰ってからいくらでも出来るから。父親に聞いてもらえば、そうすれば少しはスッキリするかもな、なんて。
「またね」
小船の立てていた波音が止まる。ライは大きく一つ笑って、手を振って、ハートの海賊団に背を向けた。
青い海へと視線を投げながら、1歩1歩を踏みしめる。小船の姿はまだ、見えない。
振り返ってはいけない。考えてはいけない。思い返してはいけない。早く小船に乗ってしまえばいい。ニホンに帰ってしまえば、この思いも、全て色褪せていくから。そうだろう、自分はニホン人として、もう一度この人生を――
「――来るなライ!!」
「「!?!?」」
船のヘり、辿り着いて刹那見えた小船の先端。真ん中に父親、その両端にイメルダとルアンが手を後ろに組み膝立ちで座っている。
「っ、え?」
パッと見た光景、彼等の様子や雰囲気は何も感じ取れず。確実に、船にいるのは三人だけだと思っていた。…なのに、それは張られた帆の後ろから、まるで舞い落ちる桜の花びらのように、
「――おいおい…俺が許可するまで声を出すなって言ったよなァ…?」
そして、一瞬。瞬きもする暇もなく。
「――っ!!!」
真っ赤な血飛沫が、父の前に散った。