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「…、?」

何か、聞こえる。ざわざわと耳に擦れるような音がだんだんと大きくなって、真っ暗だった視界に光が入った。ぼやける視界が明るくなり、何度か瞬きをする。
目の前は明るい、普通の部屋のよう。船の中?…いや、あの独特の揺れは感じない。どこか建物の中。…ここは、


「――あ、起きたよ、ドフィ」


聞いたことのない声と、単語が上から降ってきた。


「こんにちはねーお嬢さん、ご機嫌いかがー?」


ぬめったい声とともに目の前に現れてた黒い物体に思わずヒィと小さく声を漏らす。なんだこの物体は、人?人なのかこれは。サングラス、大きな口を埋めるまでもない隙っ歯。真っ黒な長髪が顔の周りすべてを覆っていて、顔だけがそこに浮いているよう。
おまけに鼻からはドロドロと液体をたらし続けている。目覚めて初っ端に目にするには毒過ぎる。全身に鳥肌が立った。初対面なのに失礼極まりないかもしれないが、不潔という単語しか浮かばない。そして嫌悪感しか湧いてこない。


「アバラが折れてるってねー?ドフィにやられてそれだけで済んでよかったねー」


ねー?と一人鸚鵡返しして、元から傾けていた顔をより一層傾けたそれは90度になって己の前に立ち続ける。…嫌悪感しか湧いてこない。

身体を動かそうにも、不潔な男の言うとおり身体は万全では無いため、動くたびに痛みを感じた。それに両手には手枷。ソファに座らされているものの、鎖のせいで行動は制限されている。


「顔が引き攣ってる。可哀想。怖いよねえ起きてそんなのが目の前にいたら」


ねえ?と、その声も一人鸚鵡返し、それを振り返った不潔な男が何やら呟きながら声の方へと動いた。ようやく嫌悪感の塊が目の前から退いて、視界に入る情報が増える。
椅子に座って竹籠のようなボウルに入った紫の実―グレープだろうか、それを指に嵌めては口に運び、を繰り返している、頭には熊耳のついたフードと王冠、水玉のワンピースが可愛らしい小柄な女の子が一人。――そして、


「よォ、生きていてくれて助かったぜ。死んでもらっちゃ何もかもがおじゃん、だ」


ドンキホーテ・ドフラミンゴ。ピンクの羽をフワフワと揺らしながら顔めいっぱいに口角を上げ、特徴的な笑い声を上げながらそれは己の前に歩いてきた。…何だ此処はコスプレ会場か何かか?と思うほどに奇抜で個性的な人しかいない空間。異様な雰囲気に苛まれるも、そんな逸れたことを考えられる自分の余裕の有り気にも驚きではある。


「もうやめてっ、殺さないで――!!」


あの後の記憶が一切ない。果たして皆は無事なのだろうかと、コマ送りのように頭の中に浮かんでは消えていく、…目の前の奇抜な男に遣られた父。自分を庇って次々と倒れていった仲間たち。全てを守ろうと必死に戦ってくれた、船長の姿。
いつも余裕の笑みで溢れていた。いつも戦いを楽しんでいた。そんな彼らはそこには微塵もいなかった。
あの時だけは、彼らと戦闘に対するベクトルが一致した気がした。たった1人相手にかなりの苦戦を強いられた現実。彼らが打ちのめされていなければいいのだけれど…いや、そんなに彼らはヤワじゃないか。あれからどれ程の時間が経過しているのかはわからないけれど、今頃血眼になって自分を探してくれているだろうか、なんて。


「さて。連れ去られた理由は既にお気づきかと思うが、お嬢ちゃん」

「…」

「指輪を見せてもらおうか」

「……私が気絶している間に、取ればよかったんじゃないですか」

「俺ァ紳士なんだ。そういう野蛮な事はしねェ」

「……、首のネックレス、に――!?」


言って即、襟元、薄っすら見えていたであろう銀のチェーンを強引に引っ張るドフラミンゴ。その強さに己の身体まで引っ張られる。


「…ねェな?」

「…っ、…そんな筈ありません。ずっとここに付けていました」

「……」

「…あなたに落とされた時に…衝撃で外れてしまったのかもしれない」


サングラスにぶつかりそうな程の至近距離、自然と仰け反るもドフラミンゴがそれを許さない。ジリリ、と首の後ろにチェーンが食い込んでいくのが分かる。まるでリードを引っ張る飼い主と拒む犬のよう。
サングラスの奥は見えない。自分が映るのみ。恐らく―いや確実に、自分の言動の"裏"を取ろうとしている。合わない視線と分かっていても、ライは映る自分の姿の奥にあるであろうそれに目を向け続けた。


「…ほぅ」


目の前のピンクの男が極悪非道で野蛮であることも十分理解していて清く嘘を吐いた。

結論から言えば、指輪はペンギンが持っている。…そう、あの時、最後のお別れの際、ペンギンに渡したプレゼントがそれだ。同じようなシルバーのチェーンを買い、それに指輪を通して紙袋に入れた。

とても貴重で大切で重要なもの。母の形見。そしてそれを自分が持っていなければならないことは分かっていた。しかし、レイリーと話をした後、考えが変わった。自分とセットで持っている事の方が危険なのではないかと。ニホンに帰れば全て解決、100%安全という保証はないことに気づかされたのだ。

もしかしたら、指輪はカイザー一族が持っていなければ効力を発揮しないのではないか。かなり特殊な鍵だと聞いている。カイザー一族が身に着けていなければ、あるいはカイザー一族の手でしか宝箱を開けられない仕組みになっているのだとしたら。
父からは聞いていない、あくまで自分の推測だがしかし、仮に開けられたとしても、カイザー一族がその場にいなければヤムを操ることなど出来ない。宝箱を開けられないのならば、何の意味もない。ヤムを操れないのならば、何の意味もない。そうすればこの騒動は終わると、…考えたのは、浅はかだっただろうか。

父は妹―自分の母の形見として捨てられなかったといっていたが、それはライとて同じだった。捨てるくらいならば、自分がここにいた証として、残しておこうと思った。父は怒るだろうけれど。ニホンに帰ってしまった自分の"形見"として、…彼に、持っておいて欲しかった。なのに、


「フフッフッフッ…またあの場所へ逆戻りするってワケか?」


あんな悲惨な事態に陥るなんて、想像だにしていなかった。



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