コンコン、
「どうぞ」
中から聞こえてきたのは女の人の声。エルヴィンは「失礼します」と言って部屋に入り、それにリヴァイとハンジが続く。その後でルピも続いた。
「ピクシス司令、先日の"お礼"を持って参りました」
「…おお!実験は成功したのか」
翌日。約束通りピクシスにその姿をお披露目する為にルピ達はトロスト区にある駐屯兵団支部へと来ていた。
エルヴィンには全てを報告してあるが、彼だってその姿をまだ目にしていない。だからその声色がいつになく楽しそうだなんて、それにそんなエルヴィンの声を聞いたのはいつぶりだろう、なんて。
ピクシスは付き添いのその女の人を下げ部屋の鍵をかけ、カーテンを閉め切った。「さっそくだが見せてくれないか」と、どうやら彼も待ちきれないようで。
「すいませんピクシス司令、何か鋭利な物はありませんか?」
「鋭利な物?」
不思議そうに返すピクシスはエルヴィンをチラリと盗み見るも、彼は「貸してやって下さい」と言うだけで具体的な事は何も言わない。リヴァイもとい、ハンジも。…ハンジは入った時からニヤニヤが止まっていないが。
そうしてピクシスはしぶしぶ小さなカッターナイフをルピに渡す。「ありがとうございます」と言ってルピはそれを貰って刹那、
「何をっ、――?!」
己の手の甲に当て、一つ傷を付けた。
「っ…!?」
小さな赤い飛沫が二粒ほど飛んだ瞬間、小さくボンっと音を立てて白い煙が立つ。そこにはあの小さな"犬"の姿はなくて、…それの二倍程ありそうな白い"獣"が現れていた。
ピクシスは驚きを隠せないようでその目を見開いており、エルヴィンも聞いてはいたのだがかなりの驚きをその顔に出している。
「どうだジイさん。…死ぬ前にいい冥土の土産が出来たな」
「…あぁ、…見事じゃ――」
そう言ってピクシスは恐れもせずそれに触れた。真っ白な毛並みは綺麗という言葉だけでは物足りないほど光輝いていて、その触り心地も申し分ない。
良い毛並みでしょなんてハンジは我が物顔で言いそれに抱きついていた。「お前はそれがしたいだけだろ」なんて、リヴァイの制止も空しく。
「己を傷付けることでそれに変身するとは…」
「いえ、これは…最終手段みたいなんです」
「最終手段?」
「昔は"何もしなくとも"それになっていたらしいのです。それをルピは自傷行為という形で今は成し遂げているだけ。…詳しいその"システム"については、これから調べる予定です」
「それと…彼女の能力についてはピクシス司令にも知っておいて頂きたい」
あの後―ルピがそれへと変身した後。街に巨人がいなくなった為彼らは少し南方の森へと移動し、そうして巨人のルピへの反応をいろいろ試していた。
「巨人はルピがただその場にいるだけだとなんら反応を見せませんでしたが、ルピが襲いかかると敵意を見せました。…しかしその後襲うのを止めると、何事も無かったかのように興味を逸らしたんです」
「…自分に虫が集ってきたらどうする。払い除けようと、もしくはそのまま殺そうするだろう。…それと同じ心理じゃねぇかと俺たちは考えている」
「…という事は、彼女は巨人の補食対象ではないと」
「そうなります」
全員が目を向けた先のそれは伏せの体勢で己の手の甲を舐めていた。先ほど傷を付けたところだろうか。そんな様は犬そっくりだが、…犬では無い。
「それと…もう一つ報告が、」
そうして実験を終えた後。その森から離れようとした時だった。
「…ルピがこれを咥えて、戻ってきました」
見て下さい。そう言ってエルヴィンが渡したのは、…ボロボロになった一冊の小さな手帳。
「…これは、」
「"イルゼ・ラングナー"。…第34回壁外調査で左翼側を担当していた者だ」
「そこには、巨人が言を発したと書かれています」
「……巨人には意志疎通の能力が今まで無かったとされていた筈じゃが――」
「(……、)」
…ルピは、ただ黙って彼らの会話を聞いていた。
否、聞いていると言っても、大概は聞きとれていない。この姿になると、昔とはまた異なるが彼らの話の内容が殆ど理解出来なくなっていた。分かるのは表情と、一単語程度で放たれる言葉の意味だけ。
彼らがかなり真剣な表情で話している為にヒトに戻るタイミングを失っていていまだこうしてこの姿でいるのだが、本当に犬になった気分だなんて、しかしこの姿でいるのに嫌な気は起らなかった。
寧ろそれになっていなければきっと過去の記憶は現れない。自分を知る為にも、本来の自分を取り戻すためにもそれは必要な過程だと考えている。
「__の民、か――」
…だからその時、その場所で。ある"重要な単語"が話されたのを、ルピは聞き逃していた。