08




全ての清掃が済んだのは既に太陽が壁の向こう側へ沈んでからで、その後で遅めの夕食を取った皆は暫しその場で雑談をしていた。
次期壁外調査が一ヵ月後に行われるという事はまだ兵全体には知らされてはいないがそれは徐々に噂で広まっているようで、その場は専らその話で持ちきりになっていて。


「今期卒業の新兵を早々に混じえると聞いた」

「そりゃ本当か?」


随分急な話だと、それには誰もが疑念を抱いていた。オルオやペトラに関すれば入って早々一ヵ月後にそれを経験しているが、その時と今とでは根本的に違う事がある。ただでさえ今回の巨人の襲撃は新兵には堪えた筈だ。所属兵科を問う前に既に巨人のその恐怖を存分にその身体に染み込ませてしまった彼らを早々に混じえる程、今の調査兵団がそこまで兵不足であるとは思えない。


「本当ですか兵長?」

「作戦立案は俺の担当じゃない。しかしヤツの事だ…俺たちよりずっと多くの事を考えているだろう」


…だからそう、


――その答え合わせは、後日行うとしようか


それには何か意図があるのではないか、なんて。


「確かに…これまでとは状況が異なりますからね…」


多大な犠牲を払って進めてきたマリア奪還ルートがトロスト区の壁を岩で完璧に塞いでしまった為に一瞬で白紙に戻されてしまった。調査兵団にとってこれ以上の痛手はなく、誰もがそれにはまた別の絶望を感じていた。
…しかし、そこへ突然降って湧いた別の希望。


「未だに信じられないんだが…"巨人になる"っていうのはどういう事なんだ、エレン?」


エルドの声で皆の顔が一斉にエレンに向く。話し始めるエレンを見る皆のその目の奥にある懐疑、動揺。誰もがそれについての情報をいち早く認知したくて、多く共有したくて。…しかしそれは自身の持つ興味心とはかけ離れた、この人類を守るという名の自衛心である事にこの時ルピが気付いていたかは定かではない。


「お前らも知っているだろ…報告書以上の事は聞き出せねぇよ」


ルピもその報告書には全て目を通していた。エレンが巨人化する始終について、そしてあの襲撃戦での彼の"活躍"が事細かに書かれていたが、…正直全ての意味が理解出来たかと聞かれると答えには詰まるのだが。


「まぁ…アイツは黙ってないだろうが、」


ヘタにいじくり回されて死ぬかもな、なんて。リヴァイがそう言って直後、この場に近づく足音にルピは気付いた。


「――こんばんはーリヴァイ班の皆さん。お城の住み心地はどうかな?」


ニコニコといつも通り、そこに現れたのはハンジ。やはり"巨人大好き"この人が黙ってリヴァイ班をここへ見送るワケがなかった。

ハンジ班は今、襲撃戦で捉えた二体の巨人の生態調査を担当している。ルピはここに来る前にその二体をお目にかかった事があるが、…確か名前はソニーとビーンだったか。
その二体の実験にエレンも協力して欲しいと、ハンジは許可を貰いに来たらしい。一体何の実験を行うのかは分からないが、「それはもう最高に滾るヤツをだよ」と言うハンジのそれに全くもって良い予感はしなくて敢えて誰もそれを聞かなかったのだが、


「巨人の実験とはどういうものですか?」


エレンがその引き金を、引いてしまった。


「あぁ…やっぱり…聞きたそうな顔をしていると思った…」


ハンジのメガネがランプの明かりに反射してその奥は見えないが、…既に滾っている事この上ない。
誰しもが静かにその場を去って行く。ルピは特にこれといって動こうとしなかったが、リヴァイに「来い」と言われたので仕方なく席を立った。




「…エレン、大丈夫ですかね」


滾ったハンジが止まらない事をルピはその身で幾度となく経験済みで、別にそれが己にとって嫌な思い出ではないのだけれど。…そう言を発したのは同じ境遇同士の仲間意識が働いただけであって何の特別な意も無かったのだが、


「お前…何故そんなにあのガキを気にかける」


刹那、ツカツカと動かしていた足をリヴァイが止め、ルピも反射的にピタリと身体を動かすのをやめた。


「…あのガキに、何か特別な感情でも抱いているのか」


低い、声だった。振り返ったリヴァイの顔にあるその表情にはしかし怒りや疑念、そのどれにも値しないものがあって、だからルピはその問いの意味がよく分からなくて直ぐに返答をしようとしない。

そう、あの時。清掃時も、今も。いや、ずっと前からエレンに対して関わりを持とうとするような気がしてリヴァイには止まなくて、そしてそれが己の中の何かを湧き立てる事も分かっていて、


「あのガキに好意があるのかと聞いている」


…だとしたら、何だというのだろう。決して悪い事でも何でもない。分かっている。分かっているのに、どうして自分はこんなに彼女が他の者に視線を向けるのを拒むのだろうか、なんて。


「…エレンの事は好きです」


ルピはあの時―オルオにそう言った時のようにサラリとそう発していた。リヴァイの頬が一瞬引きつり纏わりつく空気が重くなるのも感じたが、それでもルピはリヴァイから目を逸らさなかった。
…"好き"の意味。そう、ルピはあれから少しずつ理解してきている。オルオに対するそれもエレンに対するそれも同じ意味だが、オルオに持つ感情とエレンに持つ感情に違いがある事も良く分かっているつもりだった。


「…あの頃、私の傍にはずっとリヴァイさんがいてくれました。私はそれにとても救われていました」

「……」

「今度は私がそうして、彼を救いたいんです。…エレンは、昔の私と同じですから」


自分はエレンと同じ、皆が言うように化け物だという事を忘れたワケでは無い。周りからそういう目で見られるのも、その存在がどう思われるのかも経験した自分だからこそ良く解る。
だからこそ自分がエレンの味方をしてやらなければならない。誰にも分かり得ない不安や恐れを拭ってやれるのは、自分だけ。…自分に、リヴァイがそうしてくれていたように。


「…なので、その……そういう意味の好きじゃありません、けど…」


最後の方、ルピの声は小さかった。少し恥ずかしそうに、躊躇うように。
リヴァイはそれに思うところもあったのだろうが「そうか」と言うだけでまたその足を動かし始め、ルピもそれ以上何も言わずにその背中に付いて行く。

…いつの間にかその場の空気は、軽くなっていた。



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