06



その声はとても優しかった。


――"ルピ"


その声で名を呼ばれるのが好きだった。どんなに嫌なことがあっても、どんなに不満があっても、その声が降ってくれば、スッと気持ちが和らぐから。


――"どうかしました?何かありましたか?"


その声は私の全てを受け止めてくれた。居心地がよかった。大好きだった。


――幸せ、だった


――"ルピ、あなたは誰よりも特別な存在よ。だから、"


だから、




「――……」


いつにも増して重たい瞼を持ち上げる。随分と長い間、夢を見ていた気がする。内容までは覚えていないが悪い夢でなく、どちらかと言えばいい夢だったようだ。重たく感じたのは、今し方上げた瞼だけだった。

ルピはゆっくりと体を起こした。目に映ったのはいつも見てきた風景。いつの間にここに移動したのかも覚えていなくて、そうしてスッと思いだされるは昨日の出来事。リヴァイの前で弱音を吐き続け、泣き乱れてしまったなと、初めての行いに多少後悔しつつも、彼の普段とない優しい言葉達に救われたからか、声を上げて涙を枯れるまで流したからかは分からない。昨日より、随分心がスッキリしているのをルピは感じた。
しかし瞼が重たいのは何故だろうとその箇所にそっと触れてみると、いつもの倍くらい腫れている。寝ている間に虫に刺されたのだろうかと思ってみるが痛くもかゆくも無いのでその線は薄い。…ルピは知らないのだ。涙をたくさん流すと、目への刺激や摩擦によって、また涙腺が腫れることによって、目が腫れる事があることを。

ちらりと時計に目を向ければ、いつも起きる時間よりもだいぶ針は進んでいる。部屋にリヴァイの姿は無い。彼が居たであろうベットに目を向ければ、いつも通り綺麗に畳まれている掛布団、皴一つないシーツ。いつも通りの光景が、そこには広がっている。

窓から差し込む光が少し眩しくて、小さな隙間から青を覗いた。鳥のさえずりも聴こえる。まるで謡っているようだ。きっと外は快晴で、心地よい気候なのだろう。


「…、」


ふと、目の隅に、枕の横に散らばった何かが目に留まる。




――俺たちは、"トモダチ"だろ?




…それは、皆の生きていた、証。


「……」


ルピは丁寧にそれらを集め、一つ見つめると、
そっと机の引き出しにしまい、静かに部屋を後にした。







Beherrscher






「――やぁルピ、おはよう」


いつも通り朝一起きたら向かう場所の扉を開ければ、一番に目に飛び込んできたのはハンジだった。いつも通りの声色で「今日は寝坊助だね、リヴァイに怒られるぞ」と言って頭をグリグリと撫でて刹那、


「どうしたのその目!?」


と素っ頓狂な声を荒げるハンジ。相変わらずこの人は朝から忙しいだなんて流暢に思っていると、


「……あぁ、そう言えば昨日の夜、瞼に虫が止まっていたな」


と、紅茶片手に優雅に椅子に座るリヴァイがサラリと言った。
「何でこんなに腫れるまで放置したんだよ」とハンジが哀れみを含めた声で言えば「いい見物だった」とよくわからない答えを返すリヴァイ。そうしてブツブツ言いながら、ハンジは持っていたハンカチを水で濡らし、それでルピの目を覆った。


「わ、冷たいです」

「腫れには冷やすのが一番だ。それを瞼に暫く当てて置きなさい」


見えなくなった視界。ルピはハンカチが落ちないよう手で支えた。ひんやりがジワジワと瞼に染込んでいくようで、とても気持ちいいと思った。
ルピの視界が遮られて刹那、リヴァイとハンジは顔を見合わせる。ハンジが安堵の顔をすれば、顔にこそ出さないもののリヴァイも心の中で安堵のため息をついていた。

昨夜の彼女の"声"はエレンだけに留まらず、古城に居た全員に聞こえていたのは言わずもがなで、しかし誰一人として彼女の元へと駆けつけなかったのは、暗黙の了解といったところか。
彼女がそういった"感情"を曝け出した事に皆驚いていたが、斟酌するだけに止まっていた。重要な任を与えられた責任。今までに無いほどの損害。感じたことの無い苦悶。それを"初めて"味わった彼女がどうなるのかなんて誰にも分からなくて、もしかしたら彼女はもう―と背信に考えてしまった幹部の者がいなかったといえば嘘になるだろう。
実際、リヴァイだってそう思っていた節はある。しかし、今し方彼女の顔を見(酷い顔はしているものの)、声を聞けば、なんて無駄な存慮をしたことかと、リヴァイの心中もいつも通りに戻っていた。


「ほら、寝癖も酷いぞルピ、女の子なんだからちゃんと身なりを整えておいで」


じゃあ朝ごはんにしようか。言いながらキッチンへと消えて行ったハンジを目で追いながら、寝癖の在処を確認する。漂ってくる紅茶の匂い。いつも通りの、同じ匂い。

洗面所で鏡を見て第一に思ったことは言わなくても皆さん御察しのとおりであるが、一体どんな虫に刺されたのだろうかと、ルピはそればかり考えながら、いつも座っていた席に着いた。


「はい召し上がれ。今日はハンジ特製スープだよ!」

「ありがとうございます」


目の前に差し出されたそれからユラユラと立ち上がる湯気が温かい。漂う匂いに包まれながら、ゆっくりとルピはそれらを口に含んでいく。
遅起きだったのは自分だけだったようで、その後、次々と人がこの場所を出入りし忙しそうにしていた。モブリットにニファ、兵舎からやって来たジャンにミカサ、アルミン。皆と一言ずつ挨拶を交わす。皆の顔に思ったほどの疲弊は見られず、いつも通りの顔をしていた。皆ぐっすり眠れたのだろうか。


「おはようございます」

「おはようエレン」


どうやら一番遅かったのは彼のようだ。ハンジと挨拶を交わした後で、エレンが自分に目を向けた。一瞬だけ彼の目に動揺が走ったように見えたが、


「おはようございます、ルピさん、リヴァイ兵長」

「おは――」

「何故俺への挨拶がルピの後なんだ」

「…え、いや、」


朝から始まったリヴァイの叱咤激励(?)で、その事はすぐに頭の片隅に追いやられてしまった。


「新兵が一番遅起きとはな。いつの間にそんなに偉くなったんだエレンよ」

「リヴァイ…勘弁してあげなよ、エレンは昨日長い間巨人になっていたみたいだし、」


疲れているのにも無理はないんじゃないか。とフォローを入れるハンジ。エレンは愛想笑う。
…あぁ、いつもどおりだ、なんて。未だ朝食を頬張りながら、ルピは一人一人の顔を眺めていた。



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