16



シュウゥゥゥ


エレンが救出されて数分も経たない内に二体の巨人から蒸気が立ち上がり始め、それらが熱を失うまでには十数分の時を要した。

エレンはかなり疲弊したのかミカサの前でぐったりとしており、二体の巨人の亡骸の前に集うは調査兵団のみ。憲兵団の連中は近づくのが恐ろしいのか、はたまた未だ状況が飲み込めないからか、遠目から見守―いや、見物している。
調査兵団がアニの"それ"に気付いたのは、巨人が消滅しほとぼりが冷め近づけるようになってからだった。一同は頑なに打解を拒んだ彼女の形容を見ては呆然とし、肩を落とす。この状況で目標が達成されたと糠喜びする者は当然として一人もおらず、…煩雑さに翻弄されそれを顕著にする者もいた。


「くっそ、何だよ…ここまできてだんまりかよ、アニ!!」


その内の一人―ジャンは、アニを見た途端からその大きな水晶体をブレードで叩き割ろうとしていた。カンカンと、鉱物を叩く音が壁に反響して虚しく響き渡る。彼女に対する憤り、悲嘆、そして彼女の不義を、きっと誰よりも同期の彼が―彼らが責めたくて、問いたくて。


「出てこい!!出てきてこの落とし前つけろよ!おい卑怯だぞ!アニ!!」


目を覚ましたエレンも、彼の傍にいたミカサもアルミンも、ただ黙ってジャンの行動を見守っている。その行動を止める者はいない。同じ胸中だからか、そうしたい衝動を彼が代弁してくれているからか。


カキンッ_!


その水晶体は女型が硬化して皮膚を覆っていたものと見るからに同一で、そう簡単に砕ける代物では無いことはその場にいる全員がきっと事解している。それでもジャンは擲り続け、そうして限界に達した刃は綺麗に真っ二つに折れ、勢いで後方へと飛んでいく。ジャンは一瞬悔しそうな顔をしたが、そのまま折れた刃を水晶体に振り翳した、


「よせ、無駄だ」


その手を、リヴァイに止められた。
ジャンは遺憾の意を示したが、その顔に喪心を浮かべ始める。…せっかくこうして、あの項からアニを引き摺り出せたのに。多大な犠牲を払って、多大な損害を被って、やっとここまで、辿り着けたのに、と。




「――ワイヤでネットを作れ!これを縛って地下へ運ぶ!」


ハンジの声の後、ようやく皆踏ん切りを付けるかのように動きを見せ始め、縛られゆくアニを確認したルピは一人、それに背を向けて歩き出した。


「……」


一つ声を掛けてから憲兵本部へ向かおうと思っていたリヴァイの目に移る、小さな後姿。その背に無念さや鬱憤は見えないが、それは一度たりとも振り向かないまま何処かへ―壁の方へと歩いていく。一歩一歩、確実に。
彼女の行かんとする所を悟ったのかは定かではないが、リヴァイは背を向け歩み進めた。…今はまだ、そのリードを手放しておくべきな気がして。




「……、」


下からこうして鴻大な壁を見上げるのはいつぶりだろう…いや、初めてかもしれない。まじまじと見れば繋ぎ目や傷など一切なく百年の時を経ても綺麗に保たれているそれに、ほんの数十分前に付けられた深い爪痕が痛々しく、時折上から落ちてくる欠片が壁の涙を表しているようだ、なんて。

暫くそれを見上げていたルピは、最初の残痕の近くにアンカーを飛ばした。そしてトン、トンと、それはまるであの時のアニのように。一つ一つの残痕を辿りながら、天を仰ぎながら空へと登る。
いつも見る空とここから見上げる空の色が何だか違う気がして、彼女はこの空の向こう側へ…どんな想いを、期待を、胸にしていたのだろうか。彼女の見ていた景色、外界への羨望に馳せる思いは一体どんなものだったのかなんて、こうして足跡を辿ったって結局自分には分からないのだけれど。


ガラッ…


「!」


そうして彼女の最後の痕まであと一歩、という時。残痕によって崩れた壁の一部が剥がれ落ちていった。随分と大きな瓦礫が堕ちていった為、まずは己の下―壁の下に誰かいないか確認する。
ゴツッ、という鈍い音を立ててそれは地面へ叩きつけられ、二つに割れた。下に誰もいなかったことに安堵しながら、今し方瓦礫の落ちた最後の残痕へと駆け上がろうとその方へ目を向けた、


――!?


途端、ゾワリと何かが背筋を這う。先ほど見上げた時には見えなかった残痕の奥が露になっていて、そうして今までの残痕では見なかった壁の色とは異なる燻製色の何か。そう、それはまるで、アニの―女型を覆っていた筋肉のようにも見えて。
…まさか、そんな筈はない。ドクリ、ドクリと心臓が荒ぶり始める。

ルピはチラリと下へ目を向けた。恐らく先ほどの瓦礫の落下もあって気付いたのだろう、愕然とこちらを見上げる者が若干名。その顔色から己の中にあった懐疑が確信に変わり、ルピはその場所の直ぐ近くにアンカーを刺し駆け上がった、

そこには。




――っ




顔があった。どこかを見据える大きな目の玉が、一つ。いつも見る巨人とは皮膚の感じが異なるものの、誰が見てもその風姿は巨人そのもの。
…ルピは動けなかった。視線も、逸らすことが出来なかった。


「…っ、」


この疵が付けられなければ恐らくきっとずっと、一生、誰も気が付かなかったのではないだろうか。…まさか巨人の顔だけがここに埋まっているのか、それとも、巨人そのものがこの中にいるのか、そもそもこの巨人は生きて――


ズっ―


「!!」


ヒュンッ!


ルピは咄嗟にそこから離れ、そうして地へとすぐさま下り、ハンジの元へと向かう。既にその場にいた者達全員の目が壁に向けられており、騒めきが大きくなり始めていた。


「っ、ハンジさん、」

「…なんであんなところに…巨人が…」

「っ、ハンジさん、あの巨人、生きています」

「何だって!?」


ルピが咄嗟にそれから離れたのは、視点の定まっていなかった目の玉が、ゆっくりとルピの方へと向けられたからだった。

…生きている。あの壁の中で、あの巨人は、生きている…?


アレは、たまたまあそこだけにいたのか。もしそうでなければ、壁の中に巨人がぎっしり…壁の中全てに、巨人が、


ガッ――


「「!!!?」」


混沌の最中のハンジの肩を誰かが思い切り掴んだ。驚いて勢いよく振り返ったハンジの目に映ったこれまた思いもよらない人物は、急いで駆けつけてきたのか息を荒げながら、こう言った。


――あの巨人に、日光を当てるな、と



back