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ヒュオオォォ_


「……?」


ふと、ミカサは目を覚ました。

目の前の澄みきった空。その青を渡る風の音。いつも見上げればあったその風景。先の喧噪の事を失念させるほど、そこには日常の風景が広がっている。


「、エレン…ッ!?」


そうして、思い起こされる出来事の先。果たして彼は無事だろうかと咄嗟に起き上がろうとした刹那、頭と身体に走った衝撃に、ミカサはいつになく苦痛の表情を浮かべた。


「ミカサ!待ってまだ動いちゃダメだ!!」

「っ、…アルミン、エレンは!?どこ…!?」


そんな自分にいち早く気付き心配して駆けつけてくれたアルミンに、開口一番彼のことを問い質す。動いてはいけないと繰り返すアルミンの答えにミカサは反抗するように身体を動かし、壁上から"事件"のあった壁下を覗き込んだ。
――そこにあるのは大きな衝撃の跡、そして恨めしそうに見上げる数体の巨人の姿


「…エレンは連れ去れたよ。ユミルもだ」


突如として落下した超大型巨人はその衝撃と同時にその身体を一気に蒸発させ、それが巻き起こした風圧と熱風に第一班は一時再起不能となるほどの重傷を、壁上にいた者でさえも多少なり負傷し、暫く誰も身動きのとれない状態が続いた。
その最中、エレンが鎧の巨人に敗北する姿をアルミンは目撃する。項ごと鎧に齧り取られて刹那、熱風が少し収まると同時に超大型の残骸からユミルを抱えたベルトルトが出現。近くに倒れていた兵士の立体起動装置を盗み装着した彼は鎧の背中に飛び移り、…そうして彼等は去って行った。


――それが、5時間前




「…誰か…その後を追っているの…?」


5時間。それは今なら気の遠くなりそうな、とてつもなく長いスパンのように思えた。そんなにも気を失っていた事への後悔、全ては自分が彼等を殺り損ねた事からの慙愧に苛まれる。
たった数分ならまだ、どうにか出来たかもしれない。女型にエレンが攫われた時には自身が直ぐに追いかけ、リヴァイ兵士長の力もあって彼を取り戻すことが出来たから。しかし、長時間行方知れずとなると、マリア内にいるのかも壁外へ行ってしまったのかさえ分からない。それはイコール、エレンを失う事に等しい。
…それが何よりも、ミカサにとっては苦しい。


「ルピさんが、"白い獣"になって追っていくのを見た。…けど、帰ってくるかはわからない。連絡手段もないし、」

「……そう、」


焦燥に駆られていた心が少し、落ち着いた気がした。彼女もエレンの事を気にかけていてくれる存在の一人であることはミカサにも十分伝わっている。
…しかし、不安は消えない。アルミンの言葉どおり5時間経った今も彼女がここに姿を現さないとなると、かなり遠くへ行っていると考えられる。そうなれば彼女が戻ってくる確立も無いに等しい。戻っている間に彼等が行方を晦ますことを考えれば、戻る選択をする筈がない。自分でも、そうすると思うから。


「ミカサは、ルピさんのこと…知ってたの?」


アルミンの言うそれは、ルピが"白い獣"に化けた事だろう。驚くのも無理はないと思う。自身もリヴァイ兵士長から聞いたときには耳を疑い、この目で確認してもそれは信じがたい光景だった。


「…姿を見たことはある。けど、それ以上は知らない」

「…そっか。……この一日、衝撃的なことばかりだね――」


アルミンの疲弊したような言葉にミカサは自然と溜息を漏らし、ようやく周りに目を向けた。

壁上に、等間隔で横たわっているそれらはまるで並べられ弔いを待つ死体の如く。重傷を負った彼等―ハンジ班の面々、その他の上官も身体すら―その意識すら動かすことも不可能のようで、辺りの空気は澄んだ空とは対照的に重苦しい。
ヒストリアやコニーは多少離れた場所にいたから無事だったのだろう、せかせかと動き回り、介抱に当たっている。見える存在は当初からここにいた者達ばかり。居ないのは、先程アルミンの話に出てきた者達で間違いはなさそうだった。

ミカサの視線の先に気付いたアルミンは、熟練兵士たちがこうも動けないとなると自分達が後を追うのも難しいと、分からせるようにミカサに言った。小規模でも索敵陣形を作らねば、マリア内への進攻は不可能。そもそも、リフトもない為馬を壁の向こうへ下ろす事も出来ない、と。


「駐屯兵団の先遣隊の人が、団長に知らせに行ってくれている。僕たちは今、リフトがここへ来るのを待つしかないんだ」


自身が思っているよりも、事は重大。…刹那、自分に何かを訴えるようにズキリと痛む脳内。
ミカサは自身のトレードマークでもある―彼から貰った大切な赤を、労わる様にゆっくりと首に巻いた。


「ねぇ、アルミン。…何で…エレンはいっつも私たちから遠くに行くんだろう…」

「…そういえば、そうだね。エレンは昔っから一人で突っ走っていくんだ。僕等を置いて――」


ただ、傍にいるだけでいいのに。それだけなのに。ミカサはぐっと身体を縮め、マフラーに顔を埋めた。気温は然程低くは無いはずなのにとても寒く感じて、身体が震えるのをグッと自身で抱きしめて宥めていた、




「――なぁお前ら、腹減っただろ?」


その時。後ろからひょっこり現れたのはハンネス。超大型巨人が現れた際、彼等先遣隊はまだ壁近くにいた。ハンネスは後の二人をトロスト区にいるピクシス指令の元へと急がせ、自身はその場に残っていたのだ。
――5年前の惨事の時。シガンシナ区で駐屯兵として任務にあたっていたハンネスにとっても超大型巨人は仇であり、エレン同様の憎しみを抱えている。母を助けに行ったエレンとミカサを巨人から救ったのは彼だが、…その恐怖に慄きエレンの母を救えなかったのもまた、彼だった。


「うん…まずくもうまくもねぇ…いつも通りだ」


ほら食えと、兵士の常備食―野戦糧食を差し出し、二人の間に出来た隙間を埋めるようにドカリと座る。バリボリバリボリと、この場に似つかわしくない音が野蛮に響いた。平然と野戦糧食を食らうハンネスを他所に、二人はそれを持ったまま、動かない。

ハンネスは、調査兵団が―今まで彼等が遭遇してきた惨禍を知らない。それでも昔からの誼み、アルミン達が何に気に病み塞ぎ込んでいるのかなど分かりきっているかのように、不意に昔話をし始めた。


エレンはいつも、ワルガキだった。苛められているアルミンを助ける為に動くことも多々あったが、大半は見境なし、ロクにケンカも強くないくせに相手が三人だろうと五人だろうとお構い無しに突っ込んでいくタイプ。勝ったところなんて一度も見たことはないが、それでも負けて降参したところも見たことがない。そんな奴の面倒を見るのがお前等の役目で、それは今も変わってないんだって――


「あいつは時々、俺でもおっかねぇと思うぐらい執念が強ぇ。何度倒されても何度でも起き上がる。そんな奴がだ…ただ大人しく連れ去られて行くだけだと思うか?いいや力の限り暴れまくるはずだ。ましてや敵はたったの二人だ、相手が誰だろうと手古摺らせ続ける。…俺やお前等が来るまでな。エレンはいつもそうだろ?」

「……」


5年前までの、平和な日常。よく"働いていた"のは調査兵団だけで、駐屯兵団は今では真面目に壁の守りに入っているが、5年前までは憲兵団と変わらない様態だったと言っても過言ではない。100年という経験したことのない期間がもたらしてきた和平を信じ、頼り切っていた。
エレンはその時から人類は家畜と同じだと、まやかしの平和だと警鐘を鳴らしていたが、ハンネスも同僚もそれを相手にしなかった。…だって、そうだろう。まさかあんな一瞬にして、この世界に終わりをもたらす災厄が訪れるなんて、頭の片隅にすら置いていなかったのだから。


「…あの何でもない日々を取り戻すためだったら…俺はなんでもする。どんだけ時間が掛かってもな」

「ハンネスさん…」

「俺も行くぞ。お前等三人が揃ってねぇと俺の日常は戻らねぇからな」


自他共に認める、役立たずの飲んだくれ兵士。その肩書きをズタズタに引き裂いてくれたあの日。エレンの母を巨人の手から救うことが出来ず、恐怖に支配され己の威厳を失ったあの日。全てを無に返したあの日。
それでもあの日は、自身を強く改悛させた。もう恐れないと、覚悟を決めたかのように力強く野戦糧食を貪るハンネス。それを見た二人もまた、勇気付けられたかのようにそれを頬張る。

いつの間にかミカサの身体から、震えは消えていた。



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